OECD の、十五歳を対象にした、国際学力調査で、日本の順位が下がったそうだ。「知識」より「応用力」を調べるテストで、「科学的応用力」「数学的応用力」「読解的応用力」の三部門で、前回、三年前の順位である、2、6、14 位から、今回、6、10、15 位に落ちたとのこと。
渡海文科相は、「率直に残念」とコメント。教育関係者や専門家も、少なからずショックを受けていて、「応用力」の向上を求める声が、強いらしい。
しかし、本当に、「応用力」は、低下しているのだろうか?
今日の、朝日新聞朝刊に、「科学的応用力」の問題が、二つほど載っていた。その一つは、酸性雨に関する問題。問い一は、大気中の硫黄酸化物や窒素酸化物が生じた原因。問い二は、大理石を、一晩、酢につけると、気泡が出てくるが、その後、大理石の質量が減るか、増えるか、答えさせる。問い三は、問い二の実験の対照実験として、大理石を、一晩、蒸留水につけたのだが、それはなぜか。
ここで、一番目と二番目は、「応用力」というより「知識」の問題であると思う。少なくとも、酸性雨や化学についての知識がある子供の方が、断然、有利である。
三番目は、出題者の意図が、伝わりにくい、設問である。蒸留水の実験が、大理石から気泡が出ることへの対照実験なのか、大理石の質量が減少することへの対照実験なのか、はっきりしない。
酸の影響で、大理石の彫像がボロボロになるという最初の説明文から、質量減少を問題にしてるようだが、それなら、問題文中に、もう少し、はっきり書くべきだ。こういう「空気を読む力」が、「応用力」だという発想は、万人が納得するものだろうか?
もう一つの問題は、温室効果に関するもので、科学的ディスカッション能力とでも言うべきものが、試されている。しかし、そういった能力を、ペーパーテストで測るのは、やや無理があるような気がする。正解を定めなければならないために、どうしても、議論を、一方向に固定しすぎている感を否めない。出題者が、暗黙の「常識」を、回答者に強いている、そういう感じである。
これらの問題だけで、全体を判断することは出来ないが、「応用力」が、的確に点数に反映されるテストなのか、若干、疑問を感じた。
「応用力」という概念は、誰もが「ふんわりと」理解できるが、では、具体的にどういうものなのか、定義するのは、難しい。ましてや、「応用力」を測る、ペーパーテストを作るのは、さらに難しい。真剣に議論し始めると、学会が一つ出来そうなくらいだ。
今回のテストには、57の国と地域が、参加している。「応用力」の定義の曖昧さと、それを測る難しさを考えると、日本の順位は、さほど大騒ぎするレベルではないと思う。OECD事務総長が言うように、テストの目的は、「ランキングをみることではない」。教育を考える際の、一つの参考として捉えるべきだろう。
確かに、順位を出されると、一位になりたいのは、人情かもしれない。しかし、各種の国際調査ごとに、一喜一憂して、指導要領を変えていたのでは、何一つ良いものは、生まれてこない。
「ゆとり教育」も、十年にも満たないで止めたために、賛成反対以前に、その全体像すら、見えてこなかった。日本の教育の方向は、テストの結果ではなく、「どういう市民社会を作るのか」など、高い理念から、長期の展望に立って、デザインして欲しい。
ちなみに、ノーベル賞学者を最も多く輩出しているアメリカは、前回も、今回も、「科学」「数学」の、どちらの部門でも、二十位以内に、入っていない。しかし、アメリカの教育関係者が、これで科学大国アメリカの足元が揺らぐと、大騒ぎしているという話は、ついぞ聞かない。
渡海文科相は、「率直に残念」とコメント。教育関係者や専門家も、少なからずショックを受けていて、「応用力」の向上を求める声が、強いらしい。
しかし、本当に、「応用力」は、低下しているのだろうか?
今日の、朝日新聞朝刊に、「科学的応用力」の問題が、二つほど載っていた。その一つは、酸性雨に関する問題。問い一は、大気中の硫黄酸化物や窒素酸化物が生じた原因。問い二は、大理石を、一晩、酢につけると、気泡が出てくるが、その後、大理石の質量が減るか、増えるか、答えさせる。問い三は、問い二の実験の対照実験として、大理石を、一晩、蒸留水につけたのだが、それはなぜか。
ここで、一番目と二番目は、「応用力」というより「知識」の問題であると思う。少なくとも、酸性雨や化学についての知識がある子供の方が、断然、有利である。
三番目は、出題者の意図が、伝わりにくい、設問である。蒸留水の実験が、大理石から気泡が出ることへの対照実験なのか、大理石の質量が減少することへの対照実験なのか、はっきりしない。
酸の影響で、大理石の彫像がボロボロになるという最初の説明文から、質量減少を問題にしてるようだが、それなら、問題文中に、もう少し、はっきり書くべきだ。こういう「空気を読む力」が、「応用力」だという発想は、万人が納得するものだろうか?
もう一つの問題は、温室効果に関するもので、科学的ディスカッション能力とでも言うべきものが、試されている。しかし、そういった能力を、ペーパーテストで測るのは、やや無理があるような気がする。正解を定めなければならないために、どうしても、議論を、一方向に固定しすぎている感を否めない。出題者が、暗黙の「常識」を、回答者に強いている、そういう感じである。
これらの問題だけで、全体を判断することは出来ないが、「応用力」が、的確に点数に反映されるテストなのか、若干、疑問を感じた。
「応用力」という概念は、誰もが「ふんわりと」理解できるが、では、具体的にどういうものなのか、定義するのは、難しい。ましてや、「応用力」を測る、ペーパーテストを作るのは、さらに難しい。真剣に議論し始めると、学会が一つ出来そうなくらいだ。
今回のテストには、57の国と地域が、参加している。「応用力」の定義の曖昧さと、それを測る難しさを考えると、日本の順位は、さほど大騒ぎするレベルではないと思う。OECD事務総長が言うように、テストの目的は、「ランキングをみることではない」。教育を考える際の、一つの参考として捉えるべきだろう。
確かに、順位を出されると、一位になりたいのは、人情かもしれない。しかし、各種の国際調査ごとに、一喜一憂して、指導要領を変えていたのでは、何一つ良いものは、生まれてこない。
「ゆとり教育」も、十年にも満たないで止めたために、賛成反対以前に、その全体像すら、見えてこなかった。日本の教育の方向は、テストの結果ではなく、「どういう市民社会を作るのか」など、高い理念から、長期の展望に立って、デザインして欲しい。
ちなみに、ノーベル賞学者を最も多く輩出しているアメリカは、前回も、今回も、「科学」「数学」の、どちらの部門でも、二十位以内に、入っていない。しかし、アメリカの教育関係者が、これで科学大国アメリカの足元が揺らぐと、大騒ぎしているという話は、ついぞ聞かない。