ジャン・アレチボルトの冒険

ジャンルを問わず、思いついたことを、書いてみます。

和田中「夜スペ」の二つの問題点

2008-02-03 16:28:46 | 教育
出来る子と出来ない子を区別して、学力に応じた授業を提供する。このこと自体は、評価できる考え方だと思う。

しかし、出来る子に対してだけ、手厚くするのであれば、問題がある。

和田中学では、出来ない子に対して、「土曜寺子屋」と銘打って、土曜日に、学生ボランティアによる、補習を行っているそうである。しかし、今回の「夜スペシャル」は、週二三回、プロの塾教師が教えるもので、独自の教材を作ったり、保護者が食事の用意をしたり、質、量ともに、「土曜寺子屋」を凌駕している。

もし、成績優秀者に対して、週三回プロ教師が教えるのであれば、授業について行けない生徒に対しても、週三回プロが教えるべきである。進学塾ではない、出来ない子を対象とする塾も存在するはずである。そこから、教師を呼べばいい。

ここに、大きな不公平を感じるのは、私だけではないと思う。

さらに、なぜ「SAPIX」という塾を選んだのか、そこにも疑問が残る。「SAPIX」からすれば、「夜スペ」は、大変な宣伝になる。入塾希望者の増加や、金融機関からの融資の受けやすさなどを考えると、授業料は、タダでも元が取れるはずである。

公立中学は、100%税金を使って運営されている組織である。特定の私企業に、結果として、そこまで便宜をはかることになるのであれば、他の塾ではなく、「SAPIX」を選んだ理由を、納税者に対して、明確に説明出来なければならない。

入札したわけでもなく、十分な説明もなく、選別理由が見えない。これは看過できない問題だ。藤原校長は、この点は、特に、説明する責任がある。

出来る子供に対して、さらに学力を伸ばす。これは、良いことである。問題は、そのやり方にある。出来ない子に対する教育とのバランス。さらに、塾を使うのであれば、納得の出来るその選別方法。この二点は、公立中学である以上、最低限、押さえておくべき点であるが、今回の「夜スペ」を見る限り、十分だとは思えない。

成績優秀者への補習は、有名高校への進学実績に、ダイレクトに跳ね返ってくるだけに、出来ない子への補習より、学校として、力が入りがちな側面がある。また、保護者の共感も得やすいかもしれない。

しかし、過熱するあまり、公立校が守るべき最低限のラインを、踏み越えてしまっては、十分な賛同を得られないだろう。結局のところ、和田中学を支えているのは、杉並区そして東京都の納税者であるこをを、忘れてはいけない。

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学位「偽装」は確信犯

2008-01-14 14:44:31 | 教育
アメリカには、実態のない大学がいくつかあって、お金を出せば、博士号が貰えるらしい。文部科学省の調査によれば、そういったニセ学位を取得していた教授・准教授が、最近三年間だけで、50人弱も存在していた。

専門家が言うには、これは氷山の一角らしい。そんなに多くのひとが、「偽装」学位で、アカデミックポジションを得ていたことに、驚いた。

学位を取るためには、五人くらいの教授の前で、自分の論文内容を説明して、質問に答える、面接審査が必要である。見知らぬ大学に、論文を郵送して、一度もその大学に行かず、後日、博士号が送られてくるなど、あるわけがない。

長年、学問の世界に身を置いている人間が、そのことを知らない筈がない。従って、彼らは、全員、確信犯である。就職や昇進に有利になることを狙って、お金で学位を買ったのだろう。

ニセ学位を取得した人物のなかに、エジプト考古学の吉村作治氏がいる。彼は、テレビインタビューに答えて、「自分の研究が、アメリカで通用するか、腕試しをしたかった」と語った。

不可解な話だ。「腕試し」をしたければ、審査付きの学術雑誌に、論文を投稿すればいい。アメリカのエジプト考古学会で発表して、他の専門家に、意見を聞くこともできる。

普通の研究者は、みんな、日々、そういう「腕試し」をやっている。それが、研究活動というものである。わけの分からない大学に、自分の大事な研究論文を送る人間など、聞いたことがない。

学位を金で買う研究者。さらに、それを承知で、教授に採用する大学。国民の怒りを「買う」前に、大学は、襟を正すべきである。

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公立「夜間塾」を評価するマスコミへの違和感

2008-01-09 18:52:09 | 教育
進学塾の講師が、公立中学で、受験対策用の授業をする。週三回で、授業料は、塾に通った場合の半額程度。

杉並区立和田中学校のこの試みは、公教育に対する「いくつかの疑義」から、東京都教育委員会によって、実施が延期された。

新聞やテレビは、都教委の指導に対して、おおむね批判的である。民間企業出身である藤原和博校長のアイデアを、評価している論調が多い。とくに、私立や塾に、お金がなくて行けない子供にとって、朗報であることが、強調されている。

しかし、塾に通えないことが、低所得家庭の「出来る」子供の、一番の問題だろうか?

現在、国立大学の入学金は、30万円、年間授業料は、50万円程度である。教科書代など、大学生活に掛かる、他の諸費用を考えると、学生のアルバイトだけでは、到底まかないきれない額である。加えて、授業料免除や奨学金なども、財政悪化を理由に、年々、範囲が狭められている。

低所得層の子供は、合格しても、なかなか大学に行けないのが実情である。

また、かなりの学力を持った子は別にしても、普通程度の学力であれば、高校進学を断念するケースも、目立ち始めている。「せめて高校だけでも」という願いすら、叶わない子供たちが出てきている。

今日の朝日新聞天声人語は、都教委の指導を批判して、「国の将来がかかる人づくりで、公と私をことさら分断しても無益だ」と、書いている。

しかし、「国の将来がかかる人づくり」を、本当に憂うのならば、目を向けなければならない現実は、他にあるのではないか。

高校に行かせたいが、出来れば、早く働き始めて、家計を助けて欲しい。そんな家庭の子供にとって、月謝一万八千円の「夜間塾」の議論が、意味を持つだろうか?

お金のない子供は、塾に行けないから、困っている。塾に行ければ、問題は解決する。「夜間塾」に関するマスコミの論調は、その程度の認識にしか、聞こえない。

子供を、塾に通わせるために、年間100万円以上払っている親がいる一方で、子供に、高校進学を断念させなければならない親もいる。今の日本は、格差社会が進行して、子供たちが、その歪みに苦しみつつある。

格差を、次の世代に持ち越さないためには、思い切った財政措置が必要である。とくに、公立高校、国立大学の授業料を、出来るだけ安く抑えて、さらに、授業料免除などの支援範囲を、広げるべきである。

激しい家庭格差と国公立の高い授業料という現状を指摘しなければ、天声人語の「国の将来がかかる人づくり」という言葉も、空しく響くだけだ。



教育について、他にも、以下のようなブログを書いています。よろしければ、のぞいてみて下さい。


来年度予算案、教員千人増のトホホ


教育の本質は三つ。教師、教師、そして、教師


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来年度予算案、教員千人増のトホホ

2007-12-19 18:23:25 | 教育
渡海文科相、額賀財務相、増田総務相の折衝で、教職員定数の千人増が、来年度予算案に盛り込まれることになった。

教師の増員は、歓迎すべきことだが、今回の内容は、お寒い限りである。文科省の当初要求は、七千人増で、七分の一に削減されたことになる。しかし、一番見過ごせないのは、教員を千人増やすのは、給食調理員、用務員などが、千人を上回るペースで、減少しているからだという。

行政改革推進法では、公務員の純減を定めており、これに従ったそうである。つまり、学校の職員は、行政改革のために、減らさなければならない。教師を千人増やすのであれば、別の職員を千人減らせ、というわけである。

もちろん、給食の外部委託など、学校の「合理化」を進めているので、教師が、給食を作る必要はないのだろう。しかし、学校生活の維持には、授業以外に、さまざまな仕事が不可欠である。教師以外の職員を、教師の増員分だけ減らしていけば、教師の雑用が増えるのは、明らかだ。これでは、何のために、増員しているのか、分からない。

学校教育の重要性が、今ほど、議論されている時代はない。学力低下、理科離れ、読書離れ、しつけの低下、規律遵守の低下、などなど。公教育に対する期待は、極めて大きいはずだ。

しかるに、行政改革の名の下、少子化に合わせて、今まで以上に、職員を減らしていく。政府が、本気で、日本の将来を考えているとは思えない。

資源のない日本で、一番の財産は、何だろう?我が国が、ここまで経済発展した理由は、何だろう?

優秀な人材がいたから、ではないのか。

昭和の時代、親たちは、貧しい暮らしであっても、子供には、高い教育を受けさせようとしてきた。その結果、優秀な人材が多数輩出され、原材料を輸入して、高度な知識集約製品を輸出する、世界に冠たる貿易立国が誕生した。

平成のいま、我々は、何をやっているだろう?

少なくなっていく子供たちに、満足な教育も与えず、今の時代の借金を押しつけ、老後の年金も負担してもらう。このままでは、未来の日本人から、我々は、国を食いつぶしただけの世代だと、糾弾されるだろう。

どんなことがあっても、教育にだけは、お金を注がなくてはならない。教育だけは、質を低下させてはいけない。日本には、人的資源以外、何もないのだ。

学校職員の数を減らそうとしている財務大臣の額賀氏は、どう考えているのだろう?ぜひ、教育について、見識を聞きたい。防衛省汚職の政治ルートの調べが囁かれる中、それどころでは、ないのだろうか。

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教育の本質は三つ。教師、教師、そして、教師

2007-12-11 15:02:19 | 教育
OECDの国際学力テストで、日本の順位が軒並み下がって、大騒ぎである。週刊朝日の広告には、「日本人はどこまでバカになるのか」「漢字を読まない大学生」「言葉遣いはデタラメ」「分析力ゼロ」などの見出しが踊っている。

一方、このテストで、常に、トップクラスを維持している国がある。フィンランドである。「なぜフィンランドなのか?」。誰もが、疑問に思うようで、先週木曜日(12月6日)の朝日新聞朝刊37面には、「フィンランドの子、なぜ優秀」の見出しで、特集が組まれていた。

記事の中で、「暗記詰め込み式ではない」「自分で考えさせる」「分厚い本を何冊も読ませる」「テストは小論文」など、いくつかの点が指摘されていた。しかし、もっとも感銘を受けたのは、「教師がすべて修士号を取得していて質が高い」という点である。

私は、専門学校で生物学の講義を、十五年以上、担当していたことがある。毎年、最初の授業で、学生に、「好きな科目」「嫌いな科目」「好き、嫌いなった理由」を、アンケート調査していた。

その結果、はっきりしたことがある。好きになった理由のトップは、「よい先生に教えてもらったから」。嫌いになった理由のトップは、「その先生が嫌いだったから」。これは、毎年同じだった。つまり、「よい教育を受ける」ことは、「よい先生と巡り会うこと」と、ほぼ同義なのだ。

文科省の話を聞いていると、指導要領をどうするか、教科書をどうするか、そういったことは、よく聞くが、肝心の教師の話は、あまり出てこない。しかし、フィンランドを含め、多くの先進国の教育行政の指導者は、常に、「よい教師を、いかに多く集めるか」を議論している。

質の高い教師を、たくさん集めて、授業に専念させる。これ以外に、質の高い教育を実現する方法は、ありえない。

そのためには、まず、教師の数を増やして、一人あたりが担当する子供の数を、二十人未満にすることが大事である。二十人学級で教師二人が理想だと思う。教師の数を増やすだけで、教育の質は、大幅に向上するだろう。

次に、教師に、授業準備以外の雑事を、させないことである。不必要な仕事は、出来る限りなくして、どうしても必要なものは、別に、ひとを雇って任せる。そういう仕組みを作る必要がある。

さらに、修士以上の学位を持った教師を、どんどん増やして、最終的には、全員にすることである。子供の「考える力」を伸ばすなど、今の教師は、相当にハイレベルな仕事を要求されている。ときには、「生きる力」を養う教育などと、無茶を言われる(笑)。

修士クラスの研究論文を、自力で書ける力がなければ、今後さらに高度化する、そういった要求に答えるのは、難しいかもしれない。実際、フィンランドは、教師全員が、修士を持っているそうである。

以上を実現するために、どうしても必要なものがある。「予算」である。お金がなければ、何一つ、実現できない。フィンランドは、国民が、教育に多額の税金を使うことを、納得している。日本は、公教育に、口は出すが、予算は増やさない。フィンランドと、日本の違いは、そこにある。

結局、教育改革の成否は、予算を増やすか否かにかかっている。予算をつけなければ、「応用力向上」だろうが、「考える力重視」だろうが、どんなプランも、絵に描いた餅に過ぎない。

終戦直後から始まった、六三制義務教育。その枠組みは今も同じであるが、当時の社会と、今の社会は、まったく別物である。高度に発達した情報社会の中で、義務教育も、より高度なものが求められている。

高い税金を払って、時代に合った、質の高い教育を実現するのか。それとも、予算を増やさず、落ちこぼれを作り続けて、このまま行くのか。その場合、知的労働力が不足するので、中国などから、優秀な人材を大量に受け入れて、国を維持することになる。今週号の「TIME」(Dec. 17)によると、その動きは、すでに今の日本で、かなりの速度で進んでいるようである。

フィンランドの国民は、前者を選択した。日本は、どうするのか。すべては、国民の決断次第だ。

ちなみに、「教師、教師、そして、教師」という言い回しは、イギリスの前首相、トニー・ブレア氏の演説から、頂いている。曰く、

「英国には、三つの問題がある。教育、教育、そして、教育である(Education, education and education)」

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応用力って、なんだ? - OECD テストを見て

2007-12-05 18:03:26 | 教育
OECD の、十五歳を対象にした、国際学力調査で、日本の順位が下がったそうだ。「知識」より「応用力」を調べるテストで、「科学的応用力」「数学的応用力」「読解的応用力」の三部門で、前回、三年前の順位である、2、6、14 位から、今回、6、10、15 位に落ちたとのこと。

渡海文科相は、「率直に残念」とコメント。教育関係者や専門家も、少なからずショックを受けていて、「応用力」の向上を求める声が、強いらしい。

しかし、本当に、「応用力」は、低下しているのだろうか?

今日の、朝日新聞朝刊に、「科学的応用力」の問題が、二つほど載っていた。その一つは、酸性雨に関する問題。問い一は、大気中の硫黄酸化物や窒素酸化物が生じた原因。問い二は、大理石を、一晩、酢につけると、気泡が出てくるが、その後、大理石の質量が減るか、増えるか、答えさせる。問い三は、問い二の実験の対照実験として、大理石を、一晩、蒸留水につけたのだが、それはなぜか。

ここで、一番目と二番目は、「応用力」というより「知識」の問題であると思う。少なくとも、酸性雨や化学についての知識がある子供の方が、断然、有利である。

三番目は、出題者の意図が、伝わりにくい、設問である。蒸留水の実験が、大理石から気泡が出ることへの対照実験なのか、大理石の質量が減少することへの対照実験なのか、はっきりしない。

酸の影響で、大理石の彫像がボロボロになるという最初の説明文から、質量減少を問題にしてるようだが、それなら、問題文中に、もう少し、はっきり書くべきだ。こういう「空気を読む力」が、「応用力」だという発想は、万人が納得するものだろうか?

もう一つの問題は、温室効果に関するもので、科学的ディスカッション能力とでも言うべきものが、試されている。しかし、そういった能力を、ペーパーテストで測るのは、やや無理があるような気がする。正解を定めなければならないために、どうしても、議論を、一方向に固定しすぎている感を否めない。出題者が、暗黙の「常識」を、回答者に強いている、そういう感じである。

これらの問題だけで、全体を判断することは出来ないが、「応用力」が、的確に点数に反映されるテストなのか、若干、疑問を感じた。

「応用力」という概念は、誰もが「ふんわりと」理解できるが、では、具体的にどういうものなのか、定義するのは、難しい。ましてや、「応用力」を測る、ペーパーテストを作るのは、さらに難しい。真剣に議論し始めると、学会が一つ出来そうなくらいだ。

今回のテストには、57の国と地域が、参加している。「応用力」の定義の曖昧さと、それを測る難しさを考えると、日本の順位は、さほど大騒ぎするレベルではないと思う。OECD事務総長が言うように、テストの目的は、「ランキングをみることではない」。教育を考える際の、一つの参考として捉えるべきだろう。

確かに、順位を出されると、一位になりたいのは、人情かもしれない。しかし、各種の国際調査ごとに、一喜一憂して、指導要領を変えていたのでは、何一つ良いものは、生まれてこない。

「ゆとり教育」も、十年にも満たないで止めたために、賛成反対以前に、その全体像すら、見えてこなかった。日本の教育の方向は、テストの結果ではなく、「どういう市民社会を作るのか」など、高い理念から、長期の展望に立って、デザインして欲しい。

ちなみに、ノーベル賞学者を最も多く輩出しているアメリカは、前回も、今回も、「科学」「数学」の、どちらの部門でも、二十位以内に、入っていない。しかし、アメリカの教育関係者が、これで科学大国アメリカの足元が揺らぐと、大騒ぎしているという話は、ついぞ聞かない。

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