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ジャン・アレチボルトの冒険

ジャンルを問わず、思いついたことを、書いてみます。

NHK「Q.E.D. 証明終了~ 第8回 罪と罰」は証拠不十分

2009-02-28 19:17:42 | Weblog
一昨日放送の第八回は、これまでの話とは、かなり違っていた。とくに、燈馬君が「以上、Q.E.D. 証明終了です」と言った後に、犯人が「証明」されたはずの犯行を、一部とはいえ、頑として否認したのは、初めての展開だった。

これまでは、燈馬君の「証明」後は、事件の当事者や犯人は、すべてそれを認め、場合によっては、自分からさらに詳しい状況説明をしていた。

だからこそ、その「証明」が正しかったことが、最終的に、Q.E.D.されていたのだと思う。

今回の事件では、容疑者である大学院生の千田川は、盗みに入ったことは認めたが、家の主である池沢という老人を殺したことは否定している。

一方、燈馬君の「証明」では、家人が「サンタみたいなじいさん」だったという千田川の話は、殺人を犯したものでしか知り得ない情報であるというのが、ポイントになっている。

しかし、真っ赤なセーターに白いニット帽をかぶった、ヒゲもじゃのおじいさんが倒れていたら、うつ伏せで顔が見えなくとも、サンタクロースを連想するのは不思議ではない。

また犯行現場は、千田川のアパートからも近いようで、赤いセーターに白のニット帽をかぶった池沢氏が、家から出てくるところを以前目撃して、「サンタみたいなじいさん」という印象を持ったのかもしれない。窃盗犯がターゲットとする家の住人をあれこれ調べるのは、よくあることである。

従って、千田川の「サンタ」発言は、さほど決定的な証拠とは思えない。

さらに、庭や家の中に残されていたスニーカーの足跡は、本当の連続窃盗犯のそれと区別できないそうなので、「先に連続窃盗犯が侵入して、家人を殺した」という千田川の主張は、現段階では、完全否定できない。

連続窃盗犯の手口が、いつもとは違うという点も、初めて殺人を犯したのなら、特段おかしいとも言えない。

よしんば、足跡の動きなどから、侵入したのは千田川しかいないことが濃厚になっても、もし、彼が、実は、庭のガラス戸を破って侵入したのは自分だけど、入ってみたら家人が血を流して死んでいた。それで動転しながら、現金だけ盗んで逃げた、と言い始めたら、どうすればいいだろう?

池沢氏に恨みをもつ者が、彼が家に戻ったすきに玄関から靴を脱いで入って、ゴルフパターで撲殺したのかもしれない。それが身内のものであれば、家の鍵だって持っているかもしれない。自分はその後に入ったのだと。

ゴルフパターについて、鑑識のひとりが「タンスにしまってあった」と言う場面があるが、池沢氏は一人暮らしなのだから、最初に置いてあった場所が分かるはずがない。 タンス以外の場所、例えば玄関に置いてあったとしても、何の不都合もない。

タンスの足跡も、死体を発見して動転した千田川が、何かの物音に驚いて、タンスに逃げ込んで、一瞬隠れた可能性だって考えられる。

容疑者が強く否認している以上、「サンタ」発言だけで、殺人犯と断定するのは、証拠として弱くなかろうか。強盗殺人は極めて重い罪である。何らかの物証が欲しいところだ。

まず、千田川の窃盗当時の服、手袋、靴、リュックなどを調べて、被害者の血痕を見つける必要がある。

撲殺して、その後、血の海の中を歩き回ったはずなのに、現代の技術で、血の痕跡さえ一切発見出来なければ、家に侵入したという供述まで、見直さなければならないかもしれない。

もちろん、千田川が所持していた100枚近い一万円札を調べて、池沢氏が大家をしているアパートの住人の指紋と照合する作業は必須である。彼の話は、二転三転、ころころ変わっているので、いちいち裏を取った方がいい。

服や手袋から、被害者の血痕が見つかって、なおかつ、その形が、飛沫状であれば、撲殺の一つの証拠にはなると思う。

また、凶器であるゴルフクラブのグリップの成分が、千田川の手袋に付着していないかどうかも、調べる価値がある。

水原警部は、千田川を連行した後、我々の仕事はこれで終わりだと言ったが、それは間違いかもしれない。なんと言っても、千田川は、自分は殺していないと本気で信じている。もっと物証を集めないと、裁判官や裁判員がQ.E.D.を出すかどうか、警察・検察も不安だろう。

もし燈馬君が、殺人を否定する千田川に対して、彼が窃盗に使った手袋を見せて、

「ここに血がついてます。しかも、飛び散った形の血痕です」

というシーンがあれば、Q.E.D. の決めセリフは、もっと迫力があったと思うし、「消された記憶」という制作スタッフの意図も、よりはっきりと視聴者に伝わったのでは。



ところで、今回は、高橋愛の出番が少なかったですね。そのせいか、ドラマがプロっぽい感じで粛々と進んだ気が(笑)。

でも、高橋愛は、単なる「田舎もの」じゃないですよ。歌って踊れる超美少女だからモー娘。の5期メンバーに選ばれて、今では、田中れいなと並んで、数少ない「歌える」メンバーなわけで。

視聴率は伸びないけど、よく頑張ってるぞ高橋!

ただ、残念ながら、僕は、さゆみん推しだ(笑)。

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WBC連覇への課題

2009-02-27 17:15:44 | Weblog
2月24日、25日に行われた対オーストラリア戦は、二試合とも、日本の大勝に終わった。しかし、この強化試合を通して、いくつかの課題が見えてきたと思う。

1) ダルビッシュの復調

復調と言っても、技術面のことではない。彼の実力が、現時点で、世界トップクラスであるのは間違いないと思う。ただ、北京五輪以来、国際試合に対する自信を、若干失っている気がする。

責任感が強い分、気持ちが入りすぎて、空回りしているのかもしれない。WBCの対中国戦で、つまり本番の中で、国際試合への手応えを掴むしかない。

2) 先発型投手のセットアップ・抑えへの適応

第1ラウンドと第2ラウンドは、「Double Elimination 方式」で行うそうで、勝ち進んだ場合の試合数は、5日間で、最低3試合、最高4試合となる。さらに、球数制限と連投制限が課されるので、一種類のセットアップ・抑えのパターンだけでは乗り切れない。

従って、セットアップ・抑えの投手が通常より多く必要となるが、今回の日本代表では、山口、馬原、藤川の三人しか専門家がいない。そこで、先発型投手が中継ぎは勿論、場合によっては、セットアップや抑えにまわることもあるかもしれない。

強化試合では、先発型投手が中継ぎを上手くこなしていたが、アメリカの球場で、大観衆の前、メジャーリーグの強打者を相手に僅差のゲームとなると、話が違ってくる。

大舞台で、どこまで上手く、その役に適応できるか、そこが勝負の鍵になる可能性がある。

3) 藤川の平常心を保ったピッチング

前回のWBCでは、大塚というメジャー在籍の抑え投手がいた。彼の存在は、日本の優勝に、大きな寄与をしたと思う。しかし、今回は、セットアップ・抑えに、岡島や斉藤隆といったメジャーリーガーがいない。 これは、技術面はともかく、精神面では一つの不安材料かもしれない。

決勝トーナメント進出決定戦、準決勝、決勝などの、しびれる最後の場面で、藤川が投げることになると思うが、球場の雰囲気に呑まれず、普段通りのピッチングが出来るかどうか、そこが、文字通り、勝負を決すると思う。

藤川のストレートは、日本のバッターが手も足も出ないのだから、世界でもトップクラスのはずである。気持ちさえ平常に保てば、抑えられる。自信を持って投げて欲しい。

4) 村田のクレバーなバッティング

今回の打線を眺めると、つなぎの上位と重量の下位という構図が見える。1番の青木から4番の稲葉までは、足を絡めてチャンスを作り、次につなぐバッティングをするが、5番の村田以降は、パワーヒッターが並んでいる。

そのため、5番の村田が打席に入るときに、塁にランナーが溜まっている場面が多くなるだろう。実際、オーストラリアとの第一戦では、村田の三打席、すべて塁上に走者がいた。

従って、村田が、ランナーを帰すバッティングをするかどうか、そこに日本の得点力が掛かってくる。

北京五輪のときのように、外角へ逃げる変化球を、力任せにフルスイングして、三振の山を築いていたのでは、世界一流の上位打線が作り出すチャンスを、点に結びつけられない。

彼が、北京五輪での苦い経験を生かして、状況に応じた、クレバーなチームバッティングに徹すれば、日本の得点力は、他チームの脅威になるだろう。

5) 原監督の冷静な采配

対オーストラリア戦で、大きなミスがあったとすれば、第二戦の二回裏一死一、二塁の場面での、外野の極端な前進守備である。

その結果、松坂の球が甘かったとはいえ、通常ならライトフライに出来る打球を、世界一の守備範囲と強肩を誇るイチローの頭上を越えて、二点タイムリーにしてしまった。

イニングを考えても、点差を考えても、イチロー、青木、稲葉という外野陣の能力を考えても、あそこまでの前進守備は不要だ。

おそらく、絶対に先制されたくないという強い想いが、あの守備体形の指示につながったと思うが、結果論ではなく、どう考えても逆効果である。

原監督は、かつて中日との試合、一死満塁のピンチで、内野に絶対本塁送球を指示して、確実に併殺を取れた場面で、結局一点を失ったことがある。

また別の試合では、ランナー三塁の場面で、「ストライク・スクイズ」という離れ業を指示して、走者は動けず、バッターは、ただバントしただけで、一塁アウトになったこともある。

一点を取りたい、一点を失いたくない。その想いが余りにも強すぎると、冷静な判断力を失って、自分の首を絞めることになる。途中、何が起ころうが、要は、試合が終わったときに、勝っていればいいのである。

WBCのような大舞台では、かっかするなと言う方が無理かも知れないが、冷静な気持ちを保って、基本に忠実な采配をして欲しいものである。


ところで、残りの強化試合は、2月28日対西武戦、3月1日対巨人戦。いずれも東京ドーム。西武戦は、テレ朝が放映するようだけど、今回のような野球「中継」はやめて欲しいぞ(笑)。

TBSさん、リアルタイムで試合が進んでいるのだから、取り敢えず「LIVE」映像を流してくれないと。

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アレチを探して

2009-02-13 01:34:08 | Weblog
仏教経典に、こんな話が書かれているそうだ。

ある街の大通りで、一人の女性が道行く人々に向かって、必死に叫んでいた。

「この子を助けてやって下さい。誰かこの子の病気を治してやって下さい。この子は重い病にかかっているんです。お願いです。どなたか助けてやって下さい」

見ると、女性は小さな子供を抱きしめていたが、それは明らかに遺体だった。その子は随分前に亡くなってしまったらしく、助けることは不可能だった。

何人ものひとが、子供はもう死んでしまっていて、どうすることも出来ないのだと諭したが、彼女は頑として聞こうとしなかった。

やがて、その女性に話しかけるひとは誰もいなくなってしまったが、それでも、彼女は半狂乱になって助けを求め続けた。

そこに釈尊が通りかかった。釈尊は、彼女の言葉を聞いて、こう言った。

「分かりました。私が、その子の病気を治す薬を作って差し上げましょう。家を一軒一軒回って、ケシの種を一粒ずつもらって来て下さい」

女性は大喜びした。

「ありがとうございます。ありがとうございます。すぐに集めてきます」

飛んでいこうとする女性に釈尊は声を掛けた

「ただし、ケシの種は、一人も死人を出したことのない家から、もらって下さい。死人を出した家のケシ粒で作ったのでは、薬の効き目がありませんから」

女性は言われたとおり、一軒一軒家を訪ねて、死人を出したことがあるかどうか、聞いて回った。

数日後、釈尊のもとに、再び女性が現れた。

「ケシの種は、集まりましたか。さっそく薬を作りましょう」

彼女は悲しげに答えた。

「いいえ、もういいんです。もう薬はいりません。もういいんです」

****************************************************************

東京清瀬近郊に、柳瀬川という小さな川が流れている。自然を残すような形で川岸が整備されていて、散歩するにはもってこいの場所だ。

アレチを火葬にした翌日、よく晴れた午後、柳瀬川の土手を歩いた。紅梅が華やかに咲き、さまざまな鳥たちが、岸辺で羽を休めていた。

川は滔々と流れ、水面はきらきら光り、木々は風にざわめき、空気がどこまでも透明だった。

こぼれんばかりの生命にあふれた景色を見ていると、この世界のどこにもアレチはいないのだということが、信じられなかった。

家に帰ると、水槽の砂場にひょっこりアレチがいて、あの大きな瞳でこちらを見ているような、そんな気がしてならなかった。

どこにもアレチがいないなんて、あり得ないことに思えた。

次の日から、ペットショップを何軒も回り、本屋でネズミ図鑑を探し、ネットで検索して、アレチを探し回った。アレチ自身と出会えなくても、せめてアレチと同じ種かその近縁種、実物でも画像でもいい、とにかくアレチに近いもの、アレチっぽいもの、そういったものに接触したかった。

世界の中から、「アレチのかけら」を見つけ出せば、やがては本当に、あのアレチ君自身に、再び巡り会えるのではないか、そんな思いを捨てきれなかった。それは、教典の女性が探し求めた「ケシの種」と同じだったかもしれない。

しかし、アレチはどこにもいなかった。

「キンイロアレチネズミ」の画像は何枚か見つけた。ペットショップで、アレチに近いタイプのネズミにも会った。

しかし、それはぜんぜんアレチではなかった。

やがて、あることに気づいた。

多くのひとは、一度はペットを飼った経験があり、それゆえに、その死も経験しているという事実だった。

すっかり忘れていた。

世界が生で満ちあふれているならば、世界は同時に死で満ちあふれているはずだ。

この世界で死と出会って驚くのは、ずっと森の中を歩いてきたのに、木にぶつかって驚いているようなものだ。ぶつかって初めて、森が木から出来ていることに気づいたのと同じだ。

生の世界から死を追放することはできない。なぜなら死は生の裏面だからだ。表だけのコインが存在しないのと同じだ。生の数だけ、かならず死が存在する。

しかし、コインの表を美しく磨き上げることは、可能である。いや、それこそが生きているものの、唯一の厳粛な使命なのかもしれない。


数週間くらい前から、毛繕いするたびに転んだり、突然変なけいれんを起こしたり、アレチの体は明らかに変調をきたしていた。やがてちゃんと歩けなくなり、睡眠が極端に長くなり、エサも食べる量が減っていった。

昨日できたことが、今日は出来なくなっていた。今日できたことが、明日は出来なくなっている。

あるとき、這いずるようにエサ場に出てきたアレチは、ふらふらになりながら二本足で立ち上がり、両手にバナナを持って食べようとした。しかし、すぐ前につんのめって、激しく倒れてしまう。何度も何度も倒れてしまう。

それでもアレチは、何度でも起きあがって、なんとか踏ん張って食べようとした。

バランスを取るために、とうとう顔を天に向けて、のけぞりながら食べ始めた。

今度は後ろにひっくり返ったが、それでも彼はバナナを放さず、食べ続けた。

見てられなかった。何もしてやれないことが苦しかった。それでも、目をそらすことが出来なかった。

死がもの凄い力で、アレチを引きずり込み始めていた。そして、アレチは小さな体で、必死になってそれに抵抗していた。力の限り、なんとか生きようとしていた。

今思えば、その姿こそが、生きたアレチだった。あやふやな「アレチのかけら」なんかじゃない、本当のアレチだ。

最後の日、ぐったりとしたアレチを手で抱きかかえて、少しでも食べればと、彼の大好きだった生クリームを口につけてあげた。

舐める力は残ってなかったが、その瞬間、彼がにこっと笑ったように見えた。

「あっ、これ知ってるよ。甘くてふわふわで、美味しいんだよね」

そう言うのが聞こえた気がした。

その数時間後、アレチは天国に旅立っていった。

アレチの生は、アレチと過ごした三年間は、最後までぴかぴかに輝いていた。天を仰ぎながらバナナを食べていたアレチの姿は心が震えるほど美しかった。アレチは、最後の最後まで、生きることを全うしようとした。それは、見たことのないほど素晴らしい光景だった。

そして今は、もう本当に、アレチはこの世界のどこにもいない。

それでいい。それでいいんだ。

****************************************************************

ふたたび教典のお話。

数日間、女性はケシの種を求めて、足が棒になるまで、街中の家を訪ね歩いていた。

しかし、死人を一人も出したことのない家は、ほとんどなかった。愛するひとが死ぬ悲しみを経験したことのない家族は、ほとんどいなかった。

彼女は、自分が一人ではないことを悟った。

そして、我が子の死を受け入れ、死と向き合っていく自分の生を受け入れた。

彼女が死から目を背けたのは、その子と過ごした数年間が、とてつもなくきらきらと輝いていたからだ。だから少しだけ時間が必要だった。さまようことが必要だった。

釈尊は、最高の薬を処方したのかもしれない。

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アレチの永眠

2009-02-06 15:47:18 | Weblog
身近にあって大切なひとの、本当の意味に気付くのは、それが永遠に失われた時だ。

キンイロアレチネズミの「アレチ」、当ブログの主宰者で表紙の彼は、2009年2月5日正午に、永眠しました。

我が家に来てから、二年と七ヶ月半の出来事でした。

もうエサをあげる必要もない、砂を交換しなくてもいい、カイロを張り替えなくてもいい。

部屋に出したとき、小さな足の爪をぎゅっと押しつけて膝に乗ってくることもない。あんまり食べると体に良くないからと、ケーキをお預けすると、セーターをよじ登って肩まで上がって来るようなストーカー行為も、もう心配しなくて大丈夫だ。


でも、僕はバカだった。

何十年も生きているのに、本当に大事なことを知らなかった。

アレチと一緒に過ごした日常の一瞬一瞬が、何気ない毎日こそが、かけがえのない幸せな時間だったということを。

幸せは、どこか遠い空の下に、漠然と転がってるんじゃない。自分のすぐそばに、日常の小さな積み重ねのなかに、しっかりと存在していた。

昨日の夜、リンゴとバナナをぱくぱく元気に食べていたのに、今はもう硬くなってしまったアレチを抱きしめたとき、そのことを嫌というほど思い知らされた。

駅前の花屋で花を買って、涙が止まらなくなって、泣きながら西友前の通りを歩いたとき、アレチが本当に大切な存在だったという事実を、叩き付けられた。

アレチ、ありがとう。本当にありがとう。

君とはもう会えないけど、君と過ごした時間、そして、なにより君が教えてくれたことは、決して忘れない。

そして、このブログを読まれた方、本当にありがとうございます。

皆様のおかげで、アレチは「ちょっとだけ有名なネズミ」になることが出来ました。


最後に、アレチ、天国の門をかじるなよ。

えんま様に怒られるぞ(笑)。

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