たまには亡くなったものの事を思い出す日があっても いいと思った
こんな気持ちになったのは生まれてはじめてだ
これまでは忘れていたというより 意識的に避けていたと思う
誰にも思い出されない魂は 宙ぶらりんのまま どこかをさまよっているんだろうか
いまのいままで 俺は考えたこともなかった
考えてみれば 残酷で悲しいことだ
生まれてきたことが なかったことになるのだから
お寺の本堂で 俺は正座しながら考えていた
阿弥陀様は 笑ったような泣いているような 俺の気持ちを察してくださっているような
ほんとうにフクザツな表情をしておられる
本尊の右脇の仏様は母に 左脇の仏様は弟に面差しが似ていた
読経がゆっくり流れ ゆったりした気持ちになると同時に
俺は亡き弟の顔を思い出していた
次第に内からこみ上げるものがあり 気持ちがあふれて やがて
一筋涙がこぼれていた 知らず知らず流れていた涙は
やがて俺の感情を動かして 自然な言葉を引き出した
「すまない 独りにしてすまない 許しておくれ」
やがていつの間にか俺は嗚咽していた
そのときだった おれの左目からもやもやと黒い煙が出てきて
だんだん空中を漂い始めた
それは次第に大きくなり 黒い影になって現れた
そしてそれは何かの形になり 複雑な形になってうごめいていた
俺は怖がることも忘れ それをただ見つめていた
「ギャッ ギャッ 」
黒い影がもつれあっているのか よく分からないが 頭が二つある
二つの影がごちゃごちゃ蠢いていて なんだか争っているようにもみえる
「ギャギャギャッ ギャーッ」
何かが唸り声をあげ 叫んでいるようだ
「 グッグッグッグッ クッテヤル クッテヤルッ」
何が起こっているのかわからない 俺はセンセイのほうを振り返る
センセイは知らぬ間に俺の傍まで来ていた
「さがっていてください 井田さん」
そのとき初めて 俺は我にかえり その場を飛びのいた
「クッテヤル オマエラミンナ クッテヤルー」
センセイは前に進み出て 右手を振り上げた
また右手は光だし 大きく太くなっていった
今日はいつもと違う 明るすぎて腕が見えない
そのとき黒い影が光の塊に飛びついた
光は一瞬に消えセンセイの腕が現れた
腕には前に見たあの忌まわしい青黒い魔物がはりついていた
餓鬼はぼんやりとしか見えず はっきりとしたものではなかった
青黒い魔物はがぶりがぶりと手の先から食べ続け 手は食べられたところから
無くなってゆく
普通喰われればそこから血が出て むごたらしくなるはずだが
そうではなく 喰われたところから空間ごとなくなってゆくのだ
喰われたところから向こうが見える
センセイは魔物に食われるに任せている
「餓鬼よ うまいか うまいか」
「・・・・・・」
餓鬼は返事をしない
やがて餓鬼は腕を食べ終え 今度は肩にかぶりついた
「餓鬼よ うまいか うまいか」
センセイはまた餓鬼に問いかけた
「ウルサイッ ヒキョウモノノオマエナンカ ウマクナイワッ」
そのとたんに餓鬼はぼんやりしたものから はっきりした実体に変わった
「返事をしたのが運のツキだ 名をいただいた これで掴める」
センセイの左手が餓鬼の頭を捕まえ やがて左手はさっきよりもっと光りだした
手は明るすぎて見えにくいけど 掴んだ影の部分だけが浮き上がっている
「ハナセッ コノヤロウ ハナセッ」
センセイは餓鬼を握ったまま 阿弥陀様の前まですすみ 線香の煙に触れさせた
「ギャーッ」「・・・・・・・・」
青黒い餓鬼の姿は 黒い煙になり やがて仏様の前で消えて無くなった
「閻魔様のところへ 送り返しました・・・・」
「センセイ 右手・・あの右手が・・」
痛くないんですか と言おうとしたらセンセイは
「大丈夫 閻魔様にいって 食べられた分取り返して貰いますから」
「そうじゃなく、 いや、それも聞きたいですが 痛くないんですか?」
「痛いですよ すごく でも私の体の実体はあちらの世界にありますから
こちらの世界の身体は反応しません」
さすがにセンセイの顔色は真っ青で血の気が失せている
でも見た目は痛くなさそうなんだ
俺には理解できない話だったが ひとつ分かったのは
センセイはやはり人間ではないということだ
餓鬼がいた辺りを見ると もうひとつ何かある
俺の前にはぽつんと人型をした もうひとつの黒い影がある
「・・・ィ・・・・ャ・・・・・・ン」
「・・・・・オ・・・・・・ィ・・・・・ャ・・・・・ン」
聞き取れないくらいかすかな音のようなものがもれる
今度は俺の耳元で聞こえる
「ィ・・・・・チャン・・・・・」
どこかで聞き覚えがある声
どこだろう懐かしい声 抑揚やリズムに覚えがある」
「・・・・・・ニィ・・・・チャン・・・」
振り絞るように 途切れるように響くあの声は 忘れようとしても忘れられない
とたんにあの日の病院の光景が よみがえった
消毒薬のきついにおい 暗い病室に いくつもの点滴がさがり
ガラスで仕切られた狭い空間 水滴のついた細いチューブが海老の髭のように伸び
プラスチックのマスクを被らされた弟が 小さくなってがりがりに細くなった手を伸ばして
振り絞るように俺を呼んだ
それは弟が病院のベッドで俺に呼びかけた あのときの声だった
そのとき5歳だった俺は 自分も栄養失調になり 頭がぼうっとしていて
弟の名前さえとっさに出てこない
あわてていると 声はやがて聞こえなくなり 手は下ろされて静かになった
「ごめんよ ごめんよ よしあき ごめんよ 」
「恨んでいるならそれでもいい 祟るならそれでもいい 兄ちゃんのそばにいておくれ」
「頼むから・・・・」
単調な読経が流れる中 影は静かに薄れてゆき やがて形をなくして消えてしまった
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「センセイ あれはなんだったんでしょうか」
「ほんとうになくなった よしあきだったんでしょうか」
「さあ 私も 霊のことまではわかりかねます」
当然か。センセイも中身は餓鬼界の餓鬼だもの
「ただあのときあの餓鬼を羽交い絞めにして あなたの中から追い出してくれたのは
あの霊です 受け渡ししたとき 温かいものを感じました」
「悪意のものは冷たく 善意の霊は温かいと聞いています」
「あなたは忘れたといいながら ほんとうはずっと弟さんのことを気にかけていたんです」
「そんなあなたの気持ちが強いから 心の中から出られなかったんでしょう」
「今 あなたの弟さんへの気持ちが高まったから 力を得て餓鬼を追い出す手助けをしてくれたんだと思います」
「それで弟はどうなったんですか?」
せっかく会えたのだ こんどこそちゃんとあいたい
「弟さんは成仏されました」
そんな・・・・・
また涙がとめどもなく流れた
止まらなかった
今日はよく泣く日だ
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数日後 あらためてセンセイにお礼をする為 あの洋館を訪れたが
知らない人が住んでいた
裏のお寺も探したが全然知らない人が出てきた
俺が出会ったあの人たちはどこへ行ってしまったのだろう
ともかく俺はセンセイにいわれた 一日一善を実践している
行儀のわるいのや迷惑な振る舞いは まわりに注意してもらって
マシになった気がする
こんなことならみんな遠慮なくいってくれればよかったのにと思った
すこし心の余裕が出てきたのかな
何度か飲食店で食事しているとき じろじろ見られる側になったことがあった
以前の俺にしてみれば驚きの体験だったが
確かにあんな目つきで見られたら 落ち着いて食事なんか出来ないし
迷惑だ
他人から見れば挙動不審に見える
俺もあんな風だったんだろうかと思うと ぞっとする
ひとりぼっちはいやだ
このごろ毎日合掌する
いただきます
ごちそうさま
ありがとう