共 結 来 縁 ~ あるヴァイオリン&ヴィオラ講師の戯言 ~

山川異域、風月同天、寄諸仏子、共結来縁…山川の域異れど、風月は同天にあり、諸仏の縁に寄りたる者、来たれる縁を共に結ばむ

今日はショパンの祥月命日〜最後の室内楽作品《チェロ・ソナタト短調》

2022年10月17日 19時00分20秒 | 音楽
今日は弱い雨が降ったり止んだりを繰り返す、生憎の空模様となりました。気温も予報通りには上昇せず、湿度が高いながらも薄ら寒い陽気となりました。

ところで、今日10月17日はフレデリック・フランソワ・ショパン(1810〜1849)の祥月命日です。



上の写真は、ショパンが亡くなった1849年に撮影されたものです。

パリの音楽界で活躍していたショパンでしたが、1844年初めにインフルエンザに罹り重態に陥りました。春になってやっと病状が回復しましたが、5月25日、父の死の知らせを受け取ると深い絶望に陥りました。

当時恋人関係にあった



女流作家ジョルジュ・サンド(1804〜1876)は、ショパンの母宛に弔いの言葉とショパンを思う心情を綴った手紙をしたためました。そして7月、ショパンの姉ルドヴィカがショパンを訪ねてパリを訪れました(ショパンが姉と再会するのは14年ぶりのことでした)。

しかしこの頃のショパンは、サンドと二人の子供との間の屈折した関係の中に少しずつ巻き込まれていて、特にサンドと彼女の娘のソランジュとの対立の構図の中で居場所を失ってつつありました。そして1847年、ソランジュの結婚に際してショパンが彼女に理解を示したことからサンドとの間に決定的な亀裂が生まれ、サンドはショパンに別離を告げることとなりました。

孤独な身となったショパンは招きに応じてイギリス・ロンドンに渡り、ヴィクトリア女王の御前で演奏会を催すなどの栄誉に浴しました。イギリスではロンドンのほかに、マンチェスター、グラスゴー、エディンバラなどでも演奏会を催しましたが、結核で身体が衰弱していたショパンにとって、この旅行は衰弱を加速させるものとなってしまいました。

パリに戻ったショパンは病床に伏し、大量に喀血してしまいました。姉ルドヴィカとの再会を望むショパンの求めに応じて1849年8月にルドヴィカがパリに到着しましたが、10月17日に姉ルドヴィカをはじめとした人々に看取られて亡くなりました(享年39)。


ショパンの葬儀は10月30日に、聖マドレーヌ教会で行われました。遺言によって葬儀の前に取り出されたショパンの心臓は姉のルドヴィカによって祖国に持ち帰られ、




クラコフスキ区の聖十字架教会柱に、アルコールに浸けられて収められています。


さて、そんなショパンの祥月命日の今日は《チェロ・ソナタ ト短調》をご紹介しようと思います。

人生の中心がピアノだったショパンは作品の殆どがピアノ曲ですが、わずかながら室内楽曲や歌曲も書いています。《チェロ・ソナタ ト短調》は、親友のチェリストで作曲家のオーギュスト・フランショーム(1808〜1884)のために書いたショパン晩年の作品で、同じ時期にヴァイオリン・ソナタにも着手していることから、ショパンがピアノ曲以外のジャンルにも積極的になっていたことが推測されています。

《チェロ・ソナタ ト短調》は、ショパンが36〜37歳の晩年に作られました。小品が多いショパンですが、この曲は大規模なソナタ形式楽曲で書かれていることからも、この曲に対するショパンの意欲の高さが窺い知れます。

構成的には《ピアノソナタ第3番》に似ているところが多く、全楽章にわたってチェロとピアノを対位法的に扱って協奏的にフレーズを展開しているのが大きな特色となっています。そのため『チェロ独奏+ピアノ伴奏』というスタイルにはならず、常にチェロとピアノが対等な関係て展開されています。

そんなわけで、ショパンの祥月命日である今日は《チェロ・ソナタ ト短調》をお聴きいただきたいと思います。ピアノの詩人ショパンの貴重な室内楽作品を、ヤーノシュ・シュタルケルのチェロ、ジェルジ・シェベックのピアノによる演奏でお楽しみください。



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