共 結 来 縁 ~ あるヴァイオリン&ヴィオラ講師の戯言 ~

山川異域、風月同天、寄諸仏子、共結来縁…山川の域異れど、風月は同天にあり、諸仏の縁に寄りたる者、来たれる縁を共に結ばむ

今日はペルゴレージな祥月命日〜バッハのモテット《我が罪を拭い去りたまえ、いと高き神よ》BWV1038

2024年03月16日 17時35分35秒 | 音楽
昨日の悪寒が覿面にきて、今日は一日寝ていました。喘息持ちの私としては少しの風邪でも致命的ですし、何しろ来週には小学校の卒業式も控えていますから、何としてでも治さなければなりません…。

ところで、今日3月16日はペルゴレージの祥月命日です。



ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージ(1710〜1736)は、イタリアのナポリ楽派オペラ作曲家です。

ペルゴレージはモーツァルトやロッシーニらに継がれるオペラ・ブッファの基礎を築き、甘美な旋律にあふれたオペラを作曲しました。26年という短い生涯であったのにも拘らず、古典派音楽の様式を最も早く示した人物として音楽史に名を遺しています。

1732年、オペラ・ブッファ《妹に恋した兄》を初演し最初の成功を収めたペルゴレージは、1733年8月28日、サン・バルトロメオ劇場でオペラ《誇り高き囚人》を初演しました。この公演自体は失敗に終わったにもかかわらず、この作品の幕間劇として作曲された《奥様女中(La Serva Padrona)》が歴史的な大成功を収め、オペラの歴史に大きな変革をもたらしました。

1735年、オペラ《オリンピアーデ》をローマで初演したものの失敗してナポリへ戻りましたが、この頃からペルゴレージは結核のため体調が悪化したこともあって宗教音楽の作曲に取り組むようになり、1736年には療養のためナポリ近郊ポッツオーリの聖フランチェスコ修道院に移りました。そこで、ナポリ在住貴族の集まり「悲しみの聖母騎士団」から委嘱された《スターバト・マーテル(Stabat Mater)》を余力を振り絞って書き上げてまもなく、26歳という若さで死去してしまいました。

さて、そんなペルゴレージの祥月命日に、その名曲中の名曲《スターバト・マーテル》をご紹介…してもいいのですが、今回はちょっと違った角度からご紹介しようと思います。それは、



ヨハン・セバスティアン・バッハのモテット『詩篇第51番《我が罪を拭い去りたまえ、いと高き神よ》』です。

26歳の若さで死の床にあったペルゴレージが書き上げた《スターバト・マーテル》は、どこまでも透明で至純な美しさに満たされた哀切極まりない名作ですが、これを晩年のバッハがドイツ語版に仕立てて更に細かな変更を加えて編曲したのがこの『詩篇第51番《我が罪を拭い去りたまえ、いと高き神よ》BWV1083』です。バッハの行った変更点は、

●歌詞をラテン語からドイツ語の旧約聖書の詩篇第51番に変更
●第12曲と第13曲の順番を入れ替え
●第2ヴァイオリンとヴィオラのパートを加筆
●声楽パートのリズム、装飾音、アーティキュレーションなどの細部にも手を加える
●最後のアーメン唱を倍に引き伸ばし、後半をヘ長調で終わる

といったもので、シンプルな《スターバト・マーテル》を、より教会風で聴き栄えのする雰囲気に仕上げたといった感じです。

ペルゴレージとバッハは25歳差ですが、自身よりも早く他界してしまった夭折の天才からバッハが感じとったものは大きかったのでしょう。だからこそ、ペルゴレージの絶筆ともいえる《スターバト・マーテル》を、リスペクトをこめて編曲したのだと思います。

そんなわけで、今日はペルゴレージの《スターバト・マーテル》を基にしたバッハのモテット《我が罪を拭い去りたまえ、いと高き神よ》をお聴きいただきたいと思います。決して相まみえることのなかったペルゴレージとバッハとの、国や宗派を越えた対話をお楽しみください。



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