OUR HOME ISLAND - いおうとう(硫黄島)

戦前に在住していた島民が、戦後の小笠原返還後も故郷に帰ることが許されていない硫黄島についての情報発信をいたします。

昨年同様、南洋踊りで、おが丸出航を見送っていただきました。

2008年06月19日 | 硫黄島・小笠原村
ここにも紹介させていただいている「エンジョイ!島ライフ」で、私たちの硫黄島訪問のことを取り上げていただきました。ありがとうございます。
http://plaza.rakuten.co.jp/ladygray/

「青い鳥」さんには、父島から硫黄島に向かう時と、父島から東京に出航する時の、二度もお見送りいただき、二度とも、探させてしまって、本当に申し訳ないことをしてしまいました。

父島に到着した12日には、私には三度目の父島となる貴重な時間でしたので、硫黄島、母島などと小笠原村を構成する、父島のことも、できるだけ、この目で見て、経験して、知ることはとても重要ですので、精力的に動きました。同行の二人は初めての父島でした。

昨年は。村役場の職員の方がバス、車を出してくださっての父島一周(下半分ほどは車が通れる道路がないですが)参加させていただきましたが、今年は、
夜明道路などを通る、ほとんど同じコースを、レンタル・スクーターで三人で回りました。
スクーター含むオートバイの類を前に運転したのは、高校生の時ぐらいでした。レンタル・バイク屋さんで、「3台、お願いします。」と言うと、「スクーター初心者は?」と訊かれました。50ccスクーターにも初心者用と普通の2種類があるのに感心させられました。

あまりに久しぶりでしたので、最初だけ、初心者用の50ccスクーターでも多少まごつきましたが、すぐに慣れて、風が気持ちよく感じました。
坂が多いので、自転車、健脚 では、よほどの域に達していないと、太刀打ちできない島だと思います。

この到着日の島内での活動については、また、先々、紹介したいと思います。

島内を回ってから夕食(去年と同じお店でしたが、美味しかったです。)をして、
集合時間ギリギリ近くに、発着場に着きました。

「青い鳥」さんが、いろいろな人に訊いて探して下さったので、
お会いすることができて、お供えのお酒と差し入れのキャンディーを
いただきました。お忙しいお時間だったのに、すいませんでした。
ありがとうございました。


父島から東京竹芝に向かう時に、南洋踊りでお見送りいただいた
昨年のことは、「ビデオに録画(録音)できなかった。」と、
以前の投稿記事で紹介しました。

今年こそは、抜かりなく、撮影・録音をさせていただこうと
準備万端で臨もうと思っておりました。

その帰路の父島の日にも、これも昨年と同じ、
「午前の半日コース
ドルフィンスイム 南島上陸 兄島海中公園」で、
エコツーリズムと海洋についての勉強に余念なく
出かけていて戻ってから、お土産を買って、
集合時間の13:00の5分前に発着場に着きました。

南洋踊りの準備をなさっている方々はすぐに見つけることが
できましたが、その時には、「青い鳥さん」はいらっしゃらなくて、
今年、初めて、ご参加の方がいらっしゃったのでしょうか、
直前まで、踊りのステップの練習をなさっている方がいらっしゃいました。

乗船の準備、出航日開設のお土産店を見たりなどしている
うちに、乗船が開始されました。同行の二人には
「先に乗っていてくれ。大事な撮影をしたい。」と言って、
その時点では、乗船しないで下で録画(録音)をさせてもらう
つもりでいました。

南洋踊りをして下さる場所も分かっていました。

そのうちに、
「全員が乗船が終わらないと、南洋踊りが始まらないのかもしれない。」
「昨年も南洋踊りの時間には、おが丸の着岸している側のデッキが大混雑
だった。早く乗ってよい場所を探すほうが賢明かも。」と思うようになり、
「乗船してデッキから撮影しよう。」と、方針転換をしました。
(結果は、南洋踊りが終わった時点で、まだ、乗船は続いていました。)

デッキで、デジカメとビデオカメラを構えていると、
皆さんが出てきて下さって、マイクでの開始の放送をして下さってから
あの、大好きな「夜明け前」のメロディーが流れ始めて
踊りが始まりました。

三回目でしたが、昨年は乗船直後にバタバタしてしまって、
「気がついたら終りだった。」のであまり良く見ることができませんでした。
が、今年は最初から最後まで、見ることができました。
ステップは難しそうでした。

カカの乾いて、遠くまでよくとおるリズムと、あのメロディー、
歌詞の歌に合わせての踊り。
昨年CDも買って歌は覚えています。本当に好きな曲ですので、
録画(録音)をさせていただいている時に、思わず、
自分でも口ずさみそうになってしまったのを、
「雑音が入ってしまう。」と慌てて、思いとどまりました。

もう硫黄島訪問回数が何回という桁ではない、訪島大ベテランの方が
近くで見学していましたが、終わり近くにその方が周りの人に
「これは東京都指定無形文化財です。」と解説した声が、
入ってしまった雑音といえば雑音の唯一で、
ライブの音も撮ることができました。
最初の時の大神山公園での歓迎会で披露いただいた時には
テープが切れて途中までしか撮れず、昨年は最後だけしか間に合わず
でしたので、始めて、全曲を通して撮れました。

曲が良いのですが、くどいですが、歌、カカのリズムが本当に素晴らしいです。
CDではない、ライブで聴く曲には、ゾクゾクしました。嬉しかったです。

拍手喝さいの後で、
デッキからは「青い鳥」さんが、誰かを探しているようなご様子を
見ることができました。

それから、デッキに近づいて来てくれましたので、こちらもデッキの真上で
気がついてもらおうといたしました。
視力も悪く人を探すのも苦手な私が逆だったら絶対に
できないことだと思うのですが、
デッキ上にいる私を見つけて下さって、下から声をかけて下さいました。
「レイを作って持ってきましたので、渡せる、下まで降りて来れますか。」と
おっしゃって下さっているのが聞こえましたので、
急いで、まだ、遅れていよいよ最後の乗船をしている人たちがいる
タラップに降りました。

「最初考えていたとおり、下にいれば良かったのに。」と後悔しました。

同行者の分も含めた三つのレイを受け取ることができ、
お礼を申しあげて、お別れの挨拶をすることができました。
「三人で首にかけてデッキに。岸を離れたら、海に投げて下さい。」と
教えていただいて、受け取りました。

急いで、同行者の二人を呼んで、デッキに出ましたが、
大混雑でした。

「投げるように。」とは、おっしゃっていましたが、
せっかく作っていただいた、きれいな赤いレイだったので、
「投げたらもったいないから、持って帰りたい。」と思いましたが、
おが丸が岸を離れて、向きを少し変えたあたりで、他の乗客が
勢いよく投げたので、直後に思い切り、海に投げました。

「エンジョイ!島ライフ」には、
「帆船あこがれ」の記事、私たちの1日目の硫黄島の気温が35度だったこと、
などとあわせて、踊りの練習や、レイ作りのことなど、
いろいろと忙しく、活動をなさっている様子を書いて下さっています。

戦前の硫黄島での生活も、
タコッパ(タコの実がなるタコの木の葉)で何かを作ったり、
踊ったり、実を採ったり、硫黄島内で遠足やらハイキングをしたりと、
「エンジョイ!島ライフ」で、紹介していただいている様子と通じるような、
いろいろと活動することがある、豊かな自然に恵まれての、充実した
豊かな生活だったのでは、と、記事を読ませていただいて感じました。

12日に「バイクで走ると熱風が」と書いていらしゃいますので、
私たちがスクーターで風を受けている時にバイクに乗っていらっしゃっただろう
ことも分かります。

「日本で一番高いガソリンスタンド」とテレビで紹介された(276円/リッターでした。)スタンドで、スクーターのタンクを満タンにしても、
初心者用は0.5リッター減っていませんでしたので、スクーター、バイクは燃費の良いエコな乗り物だなと思いました。

「青い鳥」さん、
コメントもいただきありがとうございました。
気温がどれぐらいか意識しませんでしたが、暑かったです。
式典から始まっての二日間、元気に有意義に過ごすことができました。
ありがとうございました。

写真は、いただいたレイです。投げる前に慌てて撮影しました。

次回以降記事投稿の予告
昨年の訪問の様子を紹介させていただいたのに、対応する
「島を離れる時」「タコの身」「式典」など、2007年と2008年を
対象させるものに、今年、初めてだったこと、場所、写真を
混ぜて紹介したいと思っています。
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お礼、2008年墓参帰島 終了報告

2008年06月17日 | 硫黄島・小笠原村
昨年よりもさらに天気に恵まれてました。
無事に二日間を硫黄島で過ごせることがなによりありがたいことです。
今年は、行き帰りで寄らせていただいた父島も晴天でした。
全行程を通して、ほとんど晴れでした。
往路は船が少し揺れましたが、帰りの小笠原丸は、揺れませんでした。

昨年と同様に、
小笠原村の村長、副議長、議員の方々、村役場職員の方々に、
自衛隊の皆様、鹿島の皆様、
艀で硫黄島へ上陸、小笠原丸へ乗船させて下さった父島の方々、
おが丸・小笠原海運の方々
など本当に多くの皆様の一生懸命で暖かいご支援があって、
今年も墓参帰島に参加させていただくことができました。

皆様、本当にどうもありがとうございました。

天気に恵まれましたので、硫黄島で有意義に活動することが
できました。

いつも、いろいろと教えていただきお世話になっている
管理人の「青い鳥」さんには、ブログ「エンジョイ!島ライフ」で、
私たちの硫黄島への旅を応援していただいただけではなく、
二度、見送っていただきました。本当に暖かくお見送りいただき
ありがとうございました。

多くの皆様のお力添えがあって、
今年も参加することができ、
昨年11月に永眠した母が生まれて子供時代をすごした硫黄島に
言って、親戚を含む軍属として島に残って死んだ人、
若い兵士の方々も含む本当に数多くの戦争の犠牲で
あの島で命を落とした人たちに手を合わせて
お祈りをしてくることができました。

硫黄島に帰れるようにはどうすれば良いのかを
考えるためには、もっともっと島の昔と今を知る必要があります。
私たちが訪問することの意義の一つだと思います。

有意義な硫黄島と父島に上がった小笠原村訪問を終えて
戻ったことを、報告いたします。

写真は、
「青い鳥」さんから、硫黄島に向かう私たちを見送って下さった時に
「お供えして下さい」と下さったお酒と一緒にいただいた差し入れ。
お心遣いの数々、本当にありがとうございました。
お酒は式典が行われた硫黄島旧島民平和祈念墓地公園に
お供えさせていただきました。
去年も喜ばれた、父島の塩をお土産に買って来ました。
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天気は、このままもちそうだと思います。

2008年06月11日 | 硫黄島・小笠原村
金曜日の明け方には、硫黄島に着いているはずです。
昨年と同様に予定どおりに進めば、
湿度の高い朝もやの中、沈潜群が目の前という繋留場所から、擂鉢山を
望みながら、上陸のための準備を開始しているはずです。
もうすぐ、また、硫黄島に帰れます。
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星条旗の意味

2008年06月10日 | 硫黄島・小笠原村
もう相当に長いこと、「父親たちの星条旗」の原作ペイパーバックを読んでいます。(500ページをこえるペイパーバックは、ゆっくりとしか読めないので、時間がかかります。)

有名な写真に参加した(フラッグレイザーズと呼ばれる6人)それぞれの生い立ち、硫黄島戦参加までの準備、戦闘開始から、星条旗の場面、その後の戦闘継続の様子、生き残った3人のその後、という順番で書かれています。
原作者の父親だったブラッドレー氏は、帰国後に、ヒーローにまつりあげられられても、「この写真のおかげで、こんなに有名になってしまうと分かっていたら、旗を立てるのに加わらなかっただろう。」などという発言をしていたようで、
星条旗の写真では、多くの兵が散った戦争のすさまじさは語れない、と思っていた人だったようです。家族にも、あまり、語らずにいたそうです。

擂鉢山の山頂は、太平洋でのアメリカの戦闘を大きく左右する硫黄島戦の記念の場所として、米軍の記念碑もあります。アメリカにとって記念すべき土地になっています。

しかし、「あの星条旗を立てたことに、どれほどの意味があったのだろうか?」というブラッドレーの考え方には共感できます。旗を立てた後も、多くの日米の将兵が死に続けたのですから、あの写真の時間をもって、硫黄島戦は終わっていません。擂鉢山山頂争奪戦 ではなかったのですから、あの写真を、殊更、画期的なものとする意味はあまり感じられません。

今、読んでいる箇所は、「生き残った3人(一人はアルコール中毒で脱落)による、戦時国債集めのための全米各地行脚(興行)」の場面が終わったところです。
米軍も、あの写真を利用しましたし、米国民も、あの写真に舞い上がってしまった様子が、本からよく伝わってきます。

日本軍にとっても山腹には砲台がありましたし、重要拠点の一つでは
あったでしょうが、島で一番高い場所、以上の意味があるようにはあまり
思えません。

「パイプに、遠足に行った。」という、故人になった母の
言葉が思い出されます。島の小学生にとっては、遠足に行く場所だったようです。

私が住んでいるあたりでは、小学校5年生の遠足は高尾山です。
高尾山も高くはないですが、かなり歩ける遊歩道があります。
擂鉢山は、高尾山よりもはるかに低い山です。
母は8歳で島を離れましたので、小学校低学年の遠足で、
パイプ 擂鉢山に行ったのだと思います。

この写真の場所が、星条旗が立てられた場所として記念の地点になっています。
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ゆで卵とふかし芋

2008年06月09日 | 硫黄島・小笠原村
小笠原村の生徒が遠足で訪れると、硫黄ヶ丘で、持参した生卵をゆで卵にするそうです。同じような、硫黄噴出の熱で作るゆで卵は、箱根の大涌谷で紙袋に入れられて売っている黒卵が有名で、観光で大涌谷に行くと、多くの人は買って食べた経験があると思います。

戦前に島で子供時代を過ごした方から、お聞きした話です。

小学校があった本山集落以外から歩いて登校してくる子供たちの
一人だったそうです。

登校時に、硫黄ヶ丘の、ちょうど良さそうな場所、深さに
持ってきたサツマイモを埋めておくと、
学校が終わって帰る頃には、美味しくふかし芋が出来上がっていて、
それを掘り起こすのが楽しいで、食べながら帰ったそうです。
ところが、ある日、年長の子供に、埋めておいた場所を
探り当てられて先に堀されてしまい、とても、悔しい思いを
したそうです。
楽しみしていた ふかし芋 を取られてしまい、悔し涙を
浮かべている情景が多い浮かぶ、お話です。

学校が終わって、帰路に着く前に
元山集落の祖父母宅に、立ち寄ってから帰ったことがあった
と聞きました。「食べるものをもらったりしていた。」
そうです。
サツマイモが見つけられなかった日には寄ったのかもしれません。


いつの時代にも年長者は狡賢く、年下を出し抜くものです。

同じような話は私にも経験があります。
このあたりは、今では住宅地になってしまっていますが、子供の頃には
田んぼが多くて。ザリガニがたくさん取れました。田んぼで過ごす時間が
多かったです。

その日は、学校が終わって一度家に帰ってから田んぼに行って、
既にかなり多く取って、バケツに入れていました。
その時、下校時間が遅い6年生がとおりかかり、
「秘密にしていたが、いいことをを教えてやる。
あのあたりに行くと、もっと、いっぱいいる。」と十数メートル先の
場所を探すようにと言いました。
「いいことをを教えてもらった」と、友人と二人で夢中になって探して、
つかまえたのをバケツに入れようとして、道端に置いていた、収獲を入れていたバケツの方を向くと、あったはずの場所にありません。
だまされた、と気が付いた時には後の祭りでした。
同じ6年生には、年少で学習能力が無かったので、
何度か出し抜かれた記憶があります。

サツマイモの場所がばれて先に掘られたしまったお話を聞きながら、
小学校の時の体験を思い出しました。

写真は硫黄ヶ丘の硫黄が噴出している場所。
風向きで、硫黄含む噴出蒸気の熱風が顔に当たると、かなり熱いです。
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帰島促進について 「夢」(5) 

2008年06月08日 | 硫黄島・小笠原村
天気予報によると小笠原村は日曜までは雨マークはありません。
http://www.ogasawara-channel.com/weather/

昨年の6月の墓参、訪島に参加したことが、このブログの開設のきっかけ
でした。

一昨年秋に入間からの日帰りが、久しぶりに2度目の硫黄島でしたが、
飛行機日帰りと、おが丸での墓参帰島との、一番大きな違いは、
いろいろな関係者の皆様と、話をすることができ、硫黄島と同じ
小笠村の父島にも寄ることができたりする点です。

昨年、参加して、
「帰島促進の活動をなさっている方々がいる。
祖父母が暮らし、母たちが生まれた島という在住島民の
一族の者として、これからの「硫黄島帰島」を考えるにあたっては
もっと、多くのことを知らないといけない。
単純な話ではないので、きちんと理解するためには、毎年参加して、
見て聞いて考えないといけない。」と思いました。

「時間がない。」とも思いましたし、
「二世、三世の時代にも、じっくり引き継がれて活動
していかなければならないことだ。」とも思いました。

豊かな自然に恵まれた東京都小笠村硫黄島に
住めるようになることを、希望しています。


「11日に出発で、今年も硫黄島行きに参加するよ」という
挨拶を

近所に住んでいる今年96歳の祖母と、
祖母の部屋の仏壇の
祖父(1973年他界)、昭和12年生まれの伯父(1975年他界)、
一緒に硫黄島に行ったことおある、昭和8年生まれの伯父(3年前の春に他界)

と、

墓で、昨年の11月に他界したに

しました。

元気な祖母は「しっかり、お参りしてきて、
お水をお供えしてきて。」と、言っていました。


先日の記事にコメントで、
ご親切なアドバイスをありがとうございました。心よりお礼申しあげます。

帽子による直射日光対策と、
UVクリームも忘れないようにいたします。

一昨年の入間からの参加の時には「お供えには水」と
大量に500mlボトルを持って行きました。
いろいろな場所でお供えして、自分でも飲みましたが、
余らせて持ち帰りました。

開催にご協力いただいている方々が、
島内にいる間の飲料水など、十分に手配して下さって、
本当にありがたく思います。

真夏のランニングもしましたが、
関東のこの辺りの暑さと、硫黄島の暑さとでは、湿度、日射の強さなどが
全く違いますので、十分に注意するようにいたします。

もしも、少しの時間でもジョギングなどできる時間があれば、
日射よけ帽子、紫外線対策クリーム、水分補給に十分に
注意するようにいたします。

ランニング、トレーニングなどの雑誌記事からの知識で、
・のどが渇いたと思う前に補給を。のどが渇いた時には、
脱水症状が始まっていて、ランニング、トレーニングの
パフォーマンス低下も始まっている。
少量ずつ、こまめに給水を
が大事だということは知っています。

以前、陸上競技短距離をやっていました。短距離、トラック競技では
給水がなかったので、今でも、トレーニングで、5キロから時には15キロ近く
走るのですが、給水は苦手で、していません。

3月に参加した10キロのロードレースでも2箇所、給水所がありましたが、
取りませんでした。
給水は、今後ランニング、トレーニングでの課題です。

酷暑の環境などで走る時には特に、速く走ろうとなどせずに、
安全に、代謝のパフォーマンス良く走るように心がけたいと
思います。
(水分補給をせずに走り続けると、軽い脱水が始まり、
故障していないのに、
筋肉、腱、関節が痛み始めるので、トレーニングの効果にも
良くないので、日ごろから気をつけるようにしたいです。)

写真は昨年撮影した、擂鉢山の裏側の様子です。
この海側の形状が、山の名前の由来だそうです。
島の住民は、「パイプ」と呼ぶことが一般的だったそうです。

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「夢」(4) ランニング・ブーム

2008年06月01日 | 硫黄島・小笠原村
このところの、ランニング・ブームには、目を瞠るものがあります。

私も、一昨年ぐらいから、走るのが面白くなり、時間を見つけられれば
走るようにしています。
長距離は苦手で嫌いでしたが、トレーニングの結果で、長い距離、
速く、走れるようになってくると、ますます面白くなってきます。

私がよく走っている場所は、文字通り老若男女、いろいろな
人が本当に多く走っています。

ランニング・ウェアやシューズも新しい物が多くでていますし、
雑誌でも特集されたりするなど、未曾有のランニング・ブーム、
マラソン・ブームになっています。
市民マラソンは以前からありましたが、フルマラソンを完走する
一般のランナーは特殊な人だと思っていましたが、今では、普通の人が
数多く、フルマラソンを走るようになりました。

10キロ、ハーフマラソンなどのロードレースも数多く、各地で開催されています。

このランニング・ブームは、東京マラソンの話題性と人気で、
ピークに達した感があります。

ジョギング、ランニングの良いところは、
誰でも気軽に、自分に合った、距離、速度で始められることだと
思います。その人なりのペース、距離で、ウォーキングから
ジョギング、スピード・トレーニングと、いった具合に
様々な負荷、時間で楽しく有酸素運動ができます。
フォームや、身体のウォーミング・アップ、怪我をしないための安全な走り方に
ついての知識と、ウェアとシューズがあれば、誰でも始められます。

今年の3月に、10キロのロード・レースに出場した頃から、
「昨年、自衛隊の人が走っているを目にした、硫黄島を
走ってみたい。」と思うようになりました。

暑いので水分補給とペース配分には十分に気をつけないと
いけませんし、一人での行動は控えないといけませんので、
伴走車(者)が必要です。今年は、妹が一緒に行く予定ですので、
自転車、バイク、車などを、お借りできる時間があれば、伴走を
頼んで、走れないだろうか、と、思っています。

宿泊する祈念館から擂鉢山までは、地図で調べると4キロほどの
ようですから、擂鉢山折り返し往復をすると、
折り返しの山のアップダウンも距離はさほど、ありませんし、それ以外は
平らなコースです。ゆっくり走っても1時間あれば楽に往復できます。

祈念館から擂鉢山往復などという、まとまった距離を走れる時間が取れなくても、
時間が見つけられれば、走ってみたいと思っています。

いつか、
「東京マラソン 硫黄島特別大会」といったような、
フルマラソン、ハーフマラソン、10キロロードレース、
市民駅伝大会などが、硫黄島で開催できたら、楽しいだろうと思います。
1年を通して日が高く暑いので、暑さ対策が重要になりますが、
景色が良い、素晴らしい、ランニング・コースが作れそうだと
思います。

写真は擂鉢山から、島の東側半分です。
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「夢」(3) エコツーリズム

2008年06月01日 | 硫黄島・小笠原村
エコツーリズムという言葉は、まだ、聞き慣れない言葉、または、
やっと、最近になって耳にするようになった言葉という
印象があるかも知れませんが、かなり前から、私はよく聞いていた用語でした。

大好きで以前から聴いていたNHKラジオの英語番組、
講師 杉田敏 先生で、長く続いている、
この4月からの現在の番組名「実践ビジネス英語」、3月までは「ビジネス英会話」
以前の番組名は「やさしいビジネス英語」で、
かなり前から、各シリーズで、「エコツーリズム」が取り上げられていたからです。

このシリーズはNHKのラジオ英語番組の中では難易度レベルが一番高いシリーズです。
シリーズごとに、 番組の内容を、登場人物などの設定を変えながら、
(シリーズ名は主人公の名前で呼ばれます。今の主人公が志賀洋。
前回が、高橋修三シリーズ、という具合です。)
実際のビジネスのシーンで使われる最先端の話題やフレーズなど、各シリーズで最新のものを加えてくれていますが、核となる話題は以前からの各シリーズでも繰り返し、取り扱ってくれています。 「仕事と家庭のバランス」「高齢化社会」
ネットワーク社会での諸問題 等の話題とともに、
既に「やさしいビジネス英語」の頃の、宮川輝行シリーズの当時に
「エコツーリズム」というタイトルで、取り上げられていました。
放送されたのが10年以上前です。

インターネットで検索して、調べてみますと、いくつかの協会が
「エコツーリズムの定義」を、ホームページに掲載してくれています。http://www.nacsj.or.jp/old_database/ecotourism/ecotourism-940801-3.html
などです。

・自然環境への配慮 (悪影響の排除、保全)
・少人数
・地域経済への貢献(対象地域への利益還元)
・実施(企画)者、参加者、受け入れ(地元)の合意と協力
などがキーワードのようです。

小笠原の生態系はとりわけ特殊で配慮を要することから、
昨年行きました父島からの南島ツアーは厳格な「自然環境保全、生態系への配慮を
条件に実施されていました。船への乗り降りの時に靴についた土を水で落とします。

「もっと手軽に多くの人が訪問できる硫黄島に。」という考え方には、
「まだ、現実的ではない」という私が私の見解であると前回、書きましたが、
将来の可能性の一つとしては、この「エコツーリズム」の考え方を、硫黄島訪問に
応用させることは、できるようになるという期待はしたいと思います。

いずれ、今よりも、もっと多くの人たちが、訪問できる島になるといいと思いますが、その前に現在の時点では、「もっと、島民が戻れる機会を増やして欲しい。」
という段階です。

多くの先輩の方々の長年にわたる、活動の結果で、
たとえば、私たちが宿泊できる施設として「平和祈念館」を
作ってもらうことができるなど、着実に成果を出してきて
いただけていると思いますが、
一方で、戦前に住んでいた年代の高齢化が、進んでいるという
問題は切実です。元気に歩ける人でないと船(年1回)、
飛行機(年2回)に参加することはできませんので、
「戻りたいねぇ。もう一度、この目でみたいねぇ。」が、
適わない夢になってしまっている年齢の方が多くいるという現実があります。

写真は硫黄島で撮影した花です。(名前は分かりません。すいません。)
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