OUR HOME ISLAND - いおうとう(硫黄島)

戦前に在住していた島民が、戦後の小笠原返還後も故郷に帰ることが許されていない硫黄島についての情報発信をいたします。

2010年6月硫黄島慰霊墓参  慰霊式典(3)

2010年06月27日 | 硫黄島・小笠原村
写真は、硫黄島島民平和祈念墓地公園の旧島民石碑です。ここにお参りすることが、慰霊墓参の目的の一つです。ここには、硫黄島に在住していて軍属として島に残り戦争で命を落とした82人の名前が書かれた石碑のオリジナルの物(灰色の石碑です。公園入り口近くには、同じく82人の名前が彫られた黒い石の大きい新しい石碑もあります。)もあります。

慰霊式典で、中学生の代表が「戦争についての記述はあるが、戦前の生活についての物がない。」と指摘してくれましたが、本当にそのとおりです。
私の親戚でも、戦前の生活について話を聞かせてくれる人の数も減ってきていて、当時の様子について聞く機会も減りました。
豊かで、生活が楽だったという話はよく聞きました。魚と果実が特に豊富だったそうです。
米は作られていなくて定期船で送られてきていました。

小笠原村職員の方がPCに保存して下さっている、戦前の硫黄島の白黒の写真を、硫黄島を出て父島に帰る時に船内でプロジェクターで映写会をして下さいます。今年は、船内Cデッキの船室を広々と使って行われた映写会に、いつもの年よりもかなり多くの方が集まって、家族の写真、力士、野球大会、テニスなどの先進的だった島の様子が分かる写真の数々を一緒に見ました。旧島民の参加者以外の、小笠原村から村民一般枠で参加(硫黄島在住や遺族などではない小笠原村民の方々からの参加者)の方々なども、見にきてくれていたようでした。

容易ではありませんが、戦前の島での生活について、より多くの人に知られるようにしていく必要があると思っております。

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6月27日 第155回 TOEICを受けてきました。

2010年06月27日 | TOEIC
投稿記事内容の前に、まず、この写真の説明をいたします。
これは、今年の硫黄島から離れる時に小笠原丸が一周している時に太平洋に沈む夕日を撮影したもでのす。時間は、もうすぐ船上からの慰霊の献花が行われるという時で、小笠原丸と硫黄島、夕日の位置関係は、小笠原丸が硫黄島の西南端にある擂鉢山(すりばちやま 
*注)の南側を回り終わろうとしている時、小笠原丸の左側に擂鉢山の南西側が見える時間帯に、船のデッキの左側から左前方の西空を撮影しました。

( *注 : 「「擂鉢山」と書いても知っている人は読めるだろうが知らない人は読めないと思う。)というご指摘をいただきましたので、読み仮名を入れました。)

「夕日」で思い出しましたが、小笠原村発行のパンフレットに、「夕日に向かって少年兵たちが「故郷の廃家」を合唱する姿を陰から見ていた市丸少将が涙した。」というエピソードが載っています。(最初に「故郷の廃家」について書いた時にもそのエピソードを紹介しました。)

今回の硫黄島訪問の二日目のお昼、厚生館で昼食を取ったあとの休憩時間に、すぐ隣の資料館を見学できるように開いて下さった時に、流してくれていたビデオは初めて見るものでした。その中で、生還なさった方が、「市丸少将が少年兵達が唱歌を歌うの聞いているところに行ったら、「これ以上、先に進むな。」という合図を受けた。市丸少将は、とても心配そうにしていたが、歌い終わって出てきた少年兵達の顔が笑顔だったのを見て安堵していたようだった。」という証言を話してくれていました。
この島で「こんなに多くの年少の兵士達を死なせてしまうのか。」ということに思いを至らせた将官たちの気持ちはいかばかりだったでしょうか。



6月27日 第155回 TOEICの結果について


TOEICは体調、始まってからのリズムがとても重要ですが、会場の環境にも大きく影響されます。大きなくくりでは会場の運営全体(監督者がスムーズに運営しているかどうか)の一部だと思いますが、音声が聞こえやすい音響設備であるかどうか、座りやすいか、机の面積や高さは十分・適切か。咳払いやその他の騒音をたてる人はどうしても混ざるので大教室すぎないかどうか、などです。

本日の会場は、前回と同じ、神奈川県横浜市鶴見区にある大学の校舎でした。これまでに、TOEIC会場に選ばれた回数はそれほど多くはなく、私が数年、受け続けている中では、今回の二回連続の前には二回ぐらい会場となったことがありました。
同じ大学でしたが、先月と比べると本日の方が、全然、良い教室環境でした。先月は大教室で、椅子は机と一体となっていて引き出して座るタイプで座りにくく、机の面も奥行きが短くて不十分でした。今日の教室は、普通のセパレートの机に椅子が三脚ずつで、真ん中の一つを空けて両側に座る配置でした。「同じ会場なのに、環境が良いかどうか、かなりの差があるな。」と思いました。 (幸い、選挙公報カーに妨害されることはありませんでした。)

結果は、これまでのに数年、数十回受験した中でも、後半のReadingのパートで最も多くのやり残しを出す時間不足で終わってしまいました。先月は、ぴったり、時間内に終わらせましたので対照的でした。

前半のListeningでは、いつものように、「かなり聴き取りにくいアメリカ以外の発音」が含まれていて少し苦しめられました。前半の最後のパートのⅣは、リズムよく、「先へ先へと問題文を読む」ことができたせいもあったと思いますが、いつもより難易度が低かったと思います。

大きな時間不足になってしまった後半のReadingは、PartⅤはいつもより難易度が高く「見てすぐに正解が分かる問題」が少なく時間がかかってしまいました。PartⅥは基本的な問題でしたので全問正解できたと思いますが、正解として選ぶ単語としてはやや難易度が高い、
commendを選ぶ問題がありました。その問題の選択肢には admonishという単語もあり、「知っている人は違うと正解候補から外せても知らない人ではひっかかってしまいそう。」という問題がありました。
PartⅦは、前半から、「時間を使わせる問題」が多く、「こんなので引っかかっていたら最後まで行けないので、どれでもマークして先に行かないと。」を分かってはいても、止まってしまう問題が多かったです。まだ、30マーク分ぐらい残っているところで、「これは今日は最後まで行くのは無理。ここで焦るとさらにひどい結果になる。」と、全問をやりきることを諦めるほどでした。


今回の受験より先に、先月の第154回の結果が送られて着ました。
前半Listening415、後半Reading475の890でした。
これまででは、後半Readingでの最高スコア485(一度)、二番目は455(二度)でしたので、歴代二番目の好スコアでした。ところが、前半が415とかなり不本意な出来(あまり自信はなかってですが)でした。
TOIECのスコアリング方法は、正解数(素点)の数を偏差値化してからスコア換算する方法で、平均でも、前半(Listening)の方が、後半(Reading)より高くなります。例えば、同じ85問正解でしたら、前半(Listening)の方が後半(Reading)より高スコアになります。後半で高い点数を取るのはかなり難しいです。
私の場合には文法問題には自信がありますので、「時間内に終わるかどうかの勝負」なのですが、前回はうまく終わらせることができて、手ごたえどおりの高い点が取れたのですが、今回は、あれだけ時間不足だったので、さんざんなスコアだと思います。前半と後半の両方をそろえることが至難であることを含めて、TOEICは「奥が深いな。」と思います。その思いがある限りは、TOEICを受験し続けようと思っています。7月は休むことにしましたので、次回は9月の第157回です。
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2010年6月硫黄島慰霊墓参  慰霊式典(2) 「故郷の廃家」を皆で歌いました。

2010年06月26日 | 硫黄島・小笠原村
写真は 慰霊式典が開催される硫黄島島民平和祈念墓地公園の入り口です。
タコの木になるタコの実が見えています。ここのタコの木は、硫黄ヶ丘のタコの木が低いところに実を付けていたのと対照的に、高い木で高いところに大きな実をいくつもつけています。

慰霊式典で、中学生代表の挨拶に続いて、今年も、参加者全員で、「故郷の廃家」を声を合わせて歌いました。

「故郷の廃家」は、作曲 ヘイズ、作詞 犬童球渓 の、唱歌です。
当ブログを始めて間もない頃にその曲について紹介した記事に反響があり、印象に残っている投稿です。

慰霊式典で歌う「故郷の廃家」は、年々、うまく歌えるようになってきているように思えます。リズムを合わせるのが難しい箇所でもずれることが少なくなってきています。中学生はきちんと練習してきているので毎年、上手に歌えます。それ以外の出席者である遺族(硫黄島協会)の方々や、私ども旧島民の参加者メンバーも、初参加ではない人が多く、特に、旧島民のメンバーは、9月の「硫黄島島民の集い」でも歌っているので、歌い慣れてきたからではないかと思います。

私にとっては、この曲を、慰霊式典で歌うということはいろいろな意味で、重要だと思います。硫黄島について学習してきた中学生や、親類を硫黄島戦で亡くした遺族の方と、
「戦前は豊かな生活を営んでいたのに帰ることが許されていないまま今にいたっている旧島民 (戦前に硫黄島で生まれて住んでいた方々に、戦後生まれのメンバーも加わっています。)」
とが声を合わせて、この曲を歌います。

この曲の歌詞は、長い期間を経て戻った荒廃ぶりを嘆き(いくぶん諦めの境地も入っているように思われます。)ながらも、昔の故郷の姿を懐かしく思い出しているという内容です。

南方に遠く離れた硫黄島に派兵され、懐かしく思い出される故郷に帰ることはできそうにないと分かり始めていただろう少年兵たちが夕日に向かって歌ったという、この曲「故郷の廃家」を、

戦後日本に返還されて東京都小笠原村の一部になった後にも、帰島することができない、硫黄島旧島民の我々が歌うということに思いを至らせると感慨深いものがあります。
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2010年6月硫黄島慰霊墓参  慰霊式典(1)

2010年06月25日 | 硫黄島・小笠原村
6月16日(水)と17日(木)が、今年の硫黄島慰霊墓参の、硫黄島に上陸して滞在した二日間でしたが、16日(水)に小笠原丸を下船して艀で硫黄島の釜岩付近から島に上陸、バスで移動して最初にあったのが慰霊式典でした。
硫黄島島民平和祈念墓地公園という場所で、慰霊墓参への参加者全員列席で行われます。

写真は、式典が終わった後の、千羽鶴と皆で献花した花が供えられて台です。例年、この場面の写真を紹介しています。毎年、参加している皆と、千羽鶴を折って下さった皆さんの気持ちがこもっているのが、この台だと思います。

小笠原村の村長、村議会の副議長((議長の代読) 毎年参加してくださっている副議長とは今年も島での二日間にバスでも一緒で、いろいろと話をしました。)、硫黄島戦での犠牲者のご遺族の方々の硫黄島協会の代表の方、父島在住の旧島民の代表の弔意を述べるお言葉がありました。年少の兵たちが故郷の父母のことを思いながら無念の最後を遂げたことについての言葉の時には、出席者の中には涙を誘われる人たちもいました。

続いて、毎年中学二年生で硫黄島に訪島して慰霊式典に参加している父島と母島の中学生の代表の方の言葉ありました。毎年、「中学生の皆さんが、硫黄島について、よく勉強して来ていて、平和の尊さを、しっかりと述べてくれているな。」と感心させられます。今年の中学生代表の言葉も、本当にしっかりと事前学習をしてきてくれたことが分かる素晴らしい内容でした。
中学生代表の人の一人の言葉に、強い印象を受けました。
「硫黄島について勉強をインターネットで検索などでしてきたが、結果は、戦争に関する情報ばかりで戦前の生活についての情報は、ほとんどありませんでした。」という内容だったからです。真剣に勉強しよと情報を探してくれた結果、非常に良いポイントに気づいてくれたなと思います。

私がこのブログを始めた動機が、「今後も長く、硫黄島に人が住んでいたということが忘れられずに、帰りたくても帰ることが許されなかった故郷の島に戻って住みたいと長年願いながら夢を実現させることができなかった人たちがいたことが語り継がれるように。世代が変わっても、住民が平和に暮らしていた島のことが忘れられないように。島に戻りたいという願いを実現させようとする運動が続くように。」との思いでした。

このブログの開設から1000日あまり経過しましたが、「戦前に住民が生活していた島だったということを、多くの人に知ってもらいたい。」という願いを実現させるのには、あまり役立てていませんが、
「第二次大戦の日米の戦争での壮絶な激戦があって多すぎる犠牲者が出てしまった島であるという記録は多く残り、長く人々の記憶にも残り語り継がれるだろうが、平和で豊かな戦前の島民の生活があった島という点は、時間の経過とともに、風化して、人々の記憶から薄れていってしわないだろうか。」ということを強く心配しています。

「硫黄島の戦争についての記録は多いが、住民の生活についての記録はほとんどない。」という、まさしく、いつも私が感じていたことを、中学二年生の代表の方に、慰霊式典の場で
代弁してもらえました。

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2010年6月硫黄島慰霊墓参 擂鉢山(1)

2010年06月24日 | 硫黄島・小笠原村
硫黄島らしい写真を紹介したいと思います。アップの擂鉢山の写真です。

今、「6/22日のおすすめブログ」に選んでいただいて(コータ君の記事)、gooブログのトップページでご紹介いただいていますので、かなりの数の方に、ご訪問いただいてご覧いただいています。昨年の皆既日食の硫黄島からの中継があった時に記事を更新した時依頼のアクセス数です。
せっかく多くの方にお越しいただいているのですから、硫黄島だと分かる硫黄島らしい写真ということではやはり、この擂鉢山だと思いますので、載せます。

この写真は島の一番南側にある擂鉢山の、北側の麓近くにある「飛行機利用のトーチカ」という戦跡としての見学ポイントから撮影したものです。一番、擂鉢山に近い場所からアップの写真を撮れるのがこの場所です。
これが今年撮影してきた擂鉢山の写真のベストショットかどうかは分かりませんが、初めて、硫黄島の画像をご覧いただく方にも、真正面からアップの写真ですので向いているのではと思いました。

撮影した時刻は、滞在二日目の午後、もうすぐ、二日にわたる硫黄島での日程も終わりも近づいている時間帯でした。
この写真撮影の数時間前の午前中に別の離れた場所から擂鉢山を見た時には、擂鉢山だけをすっぽりとガス(薄い雲)がベールのように覆っている時間帯がありました。また、私たちが島を離れた後に、小笠原丸で硫黄島一周をしている時にも、同じように擂鉢山が覆われている写真を撮影しました。
今後、他の今年撮影してきた擂鉢山の写真も載せていくつもりですので、それらの写真も紹介いたします。

この写真撮影の時間帯は雲が少し見えますがかなり青空が見えていました。ご覧いただけるように、島内(擂鉢山からみると北方、より正確には、北東側)から見る擂鉢山は緑に覆われています。
擂鉢山の裏側は、噴火口跡もあり、戦時の米軍からの艦砲射撃など爆撃で「擂鉢山の形が変わった」と言われるのを聞くこともありますが、形が大きく変わるまでにはなっていないように見えるのですが、斜面ががむき出しになっている部分が多くなっています。裏側から見た擂鉢山の様子は、硫黄島を離れる時に島を一周する時に船上から見ることができます。今年撮影した擂鉢山裏側の写真を、追って、掲載して紹介しますが、2008年6月に行った時に撮影した写真を以前に、このブログに掲載していたのが、こちらです。http://blog.goo.ne.jp/admin.php?fid=editentry&eid=8098cc2070b6721f1855f41ff937b12a

昨年、紹介した写真で評判が良買った写真が、米軍が上陸した、世界でここ以外にはイタリアに一箇所しかない鶉石がある南側の海岸から撮影したものでした。
その写真は、9月に川崎に島民関係者が川崎に集う「硫黄島島民の集い」の会長のご子息で会の様子の写真撮影スタッフをして下さっている方が撮影した写真のDVDを作成して下さったのですが、そのDVDのケースの写真に使っていただきました。
その写真が載っている当ブログ記事のURLはこちら。http://blog.goo.ne.jp/joe_and_mick/d/20090711
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2010年6月硫黄島慰霊墓参 父島からのお見送り(2)

2010年06月23日 | 硫黄島・小笠原村
父島に行ったことがある方ならよくご存知の、ツアーのボートの一団による、小笠原丸出航のお見送りの写真です。
最初に父島に行った時に、この光景を見た時にはびっくりしました。何度、見ても、感動的なこの光景は、人気が高い父島名物です。
今回の小笠原丸便では、高校の修学旅行のグループが一緒でした。高校生たちは、南洋踊りでの見送りと、このボートによるお見送りを喜んでいて、さかんにデッキから桟橋に見送りに来てくれている人や、見送りのボートに向けて声をかけていました。
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緊急特別投稿! 6/22のおすすめブログとしてgooブログトップページに! やったね、コータ君!

2010年06月22日 | 硫黄島・小笠原村
「最新のトラックバック」にある、「gooブログ ピックアップブログ」からのトラックバックで知ったのですが、6/22のおすすめブログに、このブログが、コータ君の記事で、選んでいただきました。

今のこの時間、
gooブログのトップページに「今年も父島でコータ君に会ってきました」の記事で紹介したコータ君の写真が出ています。

140万以上あるgooブログの中で、「おすすめブログ」に選んでいただけたのですから、たいしたものだと思います。選んでいただき、本当にありがとうございました!
今の時点では、おすすめに選んでいただいてトップページに載せてもらったことで、どれぐらいアクセスが増えるのか分かっていません(日付が変わって、明け方には、アクセス数情報が更新されて分かります。)が、これをきっかけに、ブログを見ていただく人が増えて、硫黄島、小笠原に興味を持って下さる方が一人でも増えてくれれば、こんなに嬉しいことはありません。

「おすすめブログ」に選んでいただき、本当にありがとうございました。

選んで下さったスタッフの方が、おすすめ として下さっている、gooブログ ピックアップブログ http://blog.goo.ne.jp/pickup_goo/e/dd25c63fce7be48dcc52d949e83b97e8?st=0
の中で、コータ君の写真について、「手をふってるみたい」とコメントして下さっていますが、「みたい」ではなく、この写真を撮った時のコータ君は、文字通り、激しくばしゃばしゃと水を打ちながら、手をふって、餌としてあげれる1カップ、100円です。)キャベツをねだって、「ちょうだい!ちょうだい!ダンス」を踊っていました。

手を振っている様子が分かる写真を、おすすめブログに選んでもらったコータ君の大殊勲を記念して、もう1枚、掲載いたします。

コータ君の写真を撮影した日の様子を、もう少し紹介しますと、小笠原海洋センターに着くとすぐに、スタッフの方に、「去年も来た者です。ここのウミガメの里親にもなっています。(里親になった記事はこのブログに昨年掲載しているのをご覧下さい。) コータ君は
元気ですか?」と自己紹介しながら質問をしたところ、スタッフの方が、「はい、今年も、きゃぴきゃぴと元気ですよ。」と教えてくれました。急いで、コータ君の水槽に行きました。私が受けた印象では、コータ君は、1年で成長して大人になったな、と感じました。今年も、にぎやかで元気で食いしん坊なコータ君でしたが、去年よりは、少し、落ち着いて大人びてきたな、という印象を受けました。

人気者のコータ君がずっと元気で、海洋センターのウミガメ保護活動の成果が出て、小笠原の豊かな自然がいつまでも続きますように。
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2010年6月硫黄島慰霊墓参 父島からのお見送り(1)

2010年06月21日 | 硫黄島・小笠原村
小笠原への硫黄島慰霊墓参の旅の全体が終わり、小笠原から離れる時間が、小笠原丸へ乗り組んで出航を見送ってもらう時間です。
今年も、出迎えもして下さった、 「青い鳥@小笠原」さん からは、一昨年、昨年とお見送りの心のこもった手作りのレイを下さいましたが、今年は、愛らしいお花を使ってきれいに作って下さった、花の冠を、私と同行者の二人に下さいました。本当に、素晴らしいティアラ(冠)をどうもありがとうございました。

乗船して乗り込むと、昨年の小笠原丸父島出航の時にはなかったのですが、今年は復活の南洋踊りを、「青い鳥@小笠原」さんのグループが披露してくれました。曲は、大好きなおなじみの「ウラメ」でした。デッキで口ずさみながら見ました。

レイをいただいた時にも、もったいなくて海に投げるのが惜しいと思いましたが、今年の特別な花の冠は、もっと長く見ていたいし、かぶって自慢をしていたい絶品でしたが、岸壁を離れて間もなくの時間には、海に投げないといけないならわしです。二つの冠を同行者と二人でタイミングを合わせて、思い切り、海に向かって投げました。

写真は、乗り組んでデッキに上がった時に、いただいた花の冠を、かぶっていた硫黄島キャップに載せて撮影したものです。(逆光の写真になってしまっていてすいません。)

本当に、心をこめて作っていただいた冠をいただき、お見送りをして下さって、ありがとうございました。
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今年も父島で コータ君に会ってきました。

2010年06月20日 | 硫黄島・小笠原村
4年続けての硫黄島慰霊墓参への参加でしたので例年と同じ場所をまわりましたので新しい場所の写真などはあまり撮れませんでしたが、追って、今年の様子をお知らせします。その前に例年どおり行きと帰りに寄った父島に関して紹介をいたします。

今年は、硫黄島から戻った、6月18日(金)に、昨年に続いて父島の小笠原海洋センター見学に行きました。昨年、その元気で活発な様子で驚かせてくれた、ウミガメのコータ君は、今年も元気でした。昨年に比べると、食いしん坊ながっつきぶりは少しおとなしめになっていたように感じましたが、キャベツをねだって、手足をバタバタさせて、歓迎してくれました。

コータ君のアップの写真です。
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2010年 硫黄島 慰霊墓参の旅から本日戻りました。

2010年06月19日 | 硫黄島・小笠原村
お天気に恵まれて、16日(水)17日(木)とも硫黄島に上陸できました。昨年より暑さは厳しくなかったと感じました。
行きと帰りに寄った父島、行きの15日(水)には、雲とガスが多かったです。

生き帰りの小笠原丸の航行(特に行き)は、これまでになく揺れました。夜間以外でも揺れが大きかったので、Aデッキから上部甲板に出られない時間が多かったです。

写真は、本場の硫黄島で摘んできた硫黄島島唐辛子です。
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