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OUR HOME ISLAND - いおうとう(硫黄島)

戦前に在住していた島民が、戦後の小笠原返還後も故郷に帰ることが許されていない硫黄島についての情報発信をいたします。

釣果(2)

2008年11月24日 | 硫黄島・小笠原村
こちらは、「うめいろ」という名前の魚だと思います。
一緒だった「釣りキチ」もそう言っていました。
食べられる魚だそうでで、見た目も、いかにもおいしそうでした。

硫黄島に向けて、小笠原丸が出航する前の時間には、
船で食べる食料などを買ったりしながら、
夕食にレストランに入りました。
昨年は、一人で入ったのですが、島の食材を使った
料理が気に入ったので、今年も行きました。

そのお店で、「うめいろのさつま揚げ」をいただきましたが、
美味しかったです。
これまで食べたことがありませんでしたが、さつま揚げに向く
白身の魚なのだと思います。

ほとんど釣りはしたことがありませんので、
同行「釣りキチ」に、面倒を見てもらわないと竿の
セットアップもできません。幸い、餌を釣り針につけることは
いやではないので、何度も餌を取られても、また、付けてトライしました。

おそらく、カワハギと思われる強い引きもありましたが、
堤防の下にもぐってしまい、上げることはできませんでした。

前に一度、釣りファンの同僚に誘われて、神奈川県、相模湾の腰越海岸から
船で、江ノ島近くで、「キス狙い」の釣りをしたことがありました。
キスを釣ることはできませんでしたが、メゴチとカワハギを釣って、
持ち帰りメゴチはてんぷら、カワハギは刺身で食べました。

父島での釣りは、釣果はともかく、堤防からの海水の透明度も高く、
目に見えるところにたくさん集まっている魚たちを見ながら、
餌をとられないようにある程度まで針を沈めて狙うという釣りで、
楽しかったです。
徒歩ですぐの場所で、あのようなきれいな海で、釣りをしたという
貴重な体験でした。
すぐ、目の前には、小笠原丸が、停泊していました。
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釣果(1)

2008年11月24日 | 硫黄島・小笠原村
竿を持って、堤防の一番さきの灯台付近へ。
近くの堤防外側に、水泳(学校の授業の一環なのか)練習をしているらしい
小学生達がいました。

「どのあたりが釣れる?」と質問したら、「あっち。」と、灯台の方を指で閉めてして教えてくれました。

泳いでいる魚たちが見えます。

かなり、餌を取られまくりましたが、最初に釣り上げたのが、
この写真の魚です。
名前は分かりません。
食べられる魚なのでしょうか?

エイが泳いでいるのも見えました。
水族館以外で泳いでいるエイを見るのは初めてなので、
驚きました。

小学生たちの方からは、さほど、驚いた様子でもなく、
のんびりとした声で、「エイが泳いでる。」「ほんとだ。」という
声が聞こえてきました。声の様子から、島の子供達にとっては
珍しくもない見慣れたものだということが分かりました。

父島の小学生以外で、海を泳いでいるエイを見ても驚かない子供というのは
いないだろうな、と思いました。

やがて、立派な若者に成長して、こっちに出てきたら、父島との違いに驚きながら、父島の自然の豊かさとありがたさを実感して懐かしく思うのだろう、
などと考えながら、釣りを続けました。
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ハーフマラソン初出場結果

2008年11月22日 | ランニング
11月16日の「2008川崎国際多摩川マラソン」
ハーフマラソンに出場しました。(長距離の大会出場は2度目で、ハーフマラソンは初出場でした。)

記録証は後日郵送ですが、手元計測の結果は、
1時間41分17秒でした。

(記録証が届きました。
種目名 :ハーフ男子36~49歳
記録  :1:42:18 (ネットタイム1:41:16)
順位  :259位・975人中) )

     


前回の出場大会と記録 :
第27回2008多摩ロードレース大会 10KM
記録 44分25秒


次回の出場予定大会
2008年12月7日(日)
中原区民多摩川ロードレース「マイペース大会」
(参加対象は川崎市中原区民のみ、
11月16日のハーフマラソンと同じ
多摩川河川敷の多摩川ハーフマラソンを使用する大会です。)


写真は今年、うちで咲いた朝顔の中で、
気に入ったもの。
いろいろな色、タイプを、ここ数年咲かせております。
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父島の釣具屋さん 小笠原釣具センター

2008年11月22日 | 硫黄島・小笠原村
「東京から南に連なる島同士の、つながりは強い。」と、感じることがあります。

祖父はケータ島(婿(「むこ」は婿の俗字の方の「知」のしたに「耳」)島)の出身です。父島の北方の島で、小笠原丸の到着の前に見ることができますし、父島からのツアーでも行くことができる島のようです。現在は人は住んでいません。

96歳の祖母は、八丈島から、硫黄島の祖父に嫁ぎました。

硫黄島には、八丈島に多い姓の人が多く住んでいて、
今も硫黄島在住だった方で、、親類が伊豆諸島に住んでいる人が多くいます。
私の祖母の親類も八丈島に多く住んでいます。

戦前、同じ小笠原村の父島、母島と、硫黄島との人の移動、交流が多かった
ことは地理的に、当然のことと思われます。
父島と硫黄島民との、親戚、姻戚関係が多く、
風土や文化もかなりの部分が共通しているのは、近くて移動が楽だったから
でしょう。


地図を見て、ふと、不思議に思いました。
疑問に思ったのは、
父島、母島などの小笠原諸島と、
硫黄島(北硫黄島、南硫黄島と火山列島を構成しています。)との
距離は比較的近いですが、
八丈島、大島など伊豆諸島までの距離は、極めて遠いということです。
関東と伊豆諸島というまとまり と
小笠原諸島と火山列島というまとまり の間の距離があまりに離れているのに、
伊豆諸島と、小笠原諸島、硫黄島との間に、親戚、姻戚関係、食文化などの
共通点が多いのは、なぜなのか、ということでした。

伊豆諸島、小笠原諸島、それぞれに歴史があって、距離が離れているだけでなく
民俗学的な差異も大きいと思うのですが、
きっと、舟で移動する「島民」という共通点があるために、
八丈島から硫黄島に嫁いだり、という人的交流が盛んだったのでは
ないかと思います。大島や八丈島は、関東地方、東京に近いですから、
距離だけで考えると、小笠原諸島、硫黄島との関わりの深さ、濃さが、
伊豆諸島と東京とで、そんなに差がないのではと思われるのですが、
やはり、「島同士」という、つながりが、関係の濃密さの違いに
現れたのでないか、と推論をしました。


今年は小笠原返還40周年でした。
「1968年に、返還されて、日系一般住民の小笠原への帰島が始まった。」
そうです。

戦前、父島や母島に住んでいた人たちも、
1968年までは、戦争によって疎開させられ、
故郷を離れていたのです。

1968年の返還で、父島、母島には、帰ることが許されましたが、
同じ小笠原村でも硫黄島には、帰ることが許されませんでした。

戦前に硫黄島に住んでいた方の中には、小笠原返還後に、
硫黄島には戻れなかったので、父島に戻った方がいらっしゃいます。

今年の6月の硫黄島訪問の時に同行していたNHKが取材して、
首都圏ネットワークのシリーズの最終回(6月27日放送)で、
父島に戻られた方を紹介していました。
(前にこのブログの中の記事で、「自衛隊輸送機で行った回に、
厚生館での昼食の時に、甘い果実、アナナを差し入れて下さった。」
と書きましたが、その差し入れをして下さった方です。)



今年の6月の硫黄島訪問について、
昨年との違いなどを中心に、「島民の集い」の紹介もはさんで
気まぐれな更新頻度で、紹介させていただいてきましたが、
行きと帰りに寄った父島について、
何回か紹介させていただきたいと思います。

父島と硫黄島、伊豆諸島などの位置関係などについての
前置きが長くなりましたが、
父島で過ごした時間も、今年は昨年とは違うところがありました。

今年一緒に行った親類に「釣りきち」がいたので、
私自身はほとんど、釣りはしないのですが、父島で釣りをする
ことになりました。

小笠原は、釣りファンたちの憧れの場所でもあることが、
小笠原丸に乗り込む乗客に、立派な道具を持ち込んでいる方々がいる
ことからも分かります。

前に行った時にも、父島や、昨年の兄島近くへのツアーの船上から、
最初に硫黄島に行った時に停泊小笠原丸で宿泊した夜に、
船の灯りに集まる魚の多さに驚いたこと、などから、美しい魚たちが豊富な
ことは知っていましたし、お刺身でいただいたりもしていました。

釣り好きと同行ではありましたが、
硫黄島墓参・帰島目的ですので、竿を持ち込むほどまでに釣りを目的に
してはいませんでしたので、現地で竿を借りれるお店を、
インターネット検索で、調べてありました。
「小笠原釣具センター」が、「ボニンコーヒー友の会」と一緒であることも
知っていました。

行きの父島停泊で、島についてすぐに、釣具屋さんに行きました。
本格的に船を出したり、島の特別なポイントに移動したりする時間
はありませんでしたので、釣具店の方々と話して、
村役場からも近い、大神山公園(お祭り広場)を抜けた先の
青灯台の堤防 と決めました。
竿もレンタルより、堤防で釣り糸を垂れるのでしたら、
買った方が安いという物がありましたので、人数分の3本購入しました。

釣具屋のお二方とお話をした時に、
硫黄島出身の方だとお聞きしました。

私どもが、硫黄島に行くこと、祖父の名前や戦前の場所などを
お伝えしたりして、お話をしました。

「墓参訪問の結果、様子を、帰りに寄った時に知らせる。」と、
申し上げておきながら、
帰りには、乗船のための集合ギリギリまで、別のアクティビティで
過ごしてしまい、立ち寄ることができずに、失礼をしてしまい
本当に申し訳なく思っております。

もっと、硫黄島の話をしたり、コーヒーも飲ませてもらったり、
買ったりしたかったです。
来年、寄ってお話できることを、今から楽しみにしております。


しばらく、「エンジョイ!島ライフ」さん日記を
見に行っていなかったら(こちらも、大変失礼なことをしてしまい
申し訳ございません)、たくさん記事更新をしてもらっていて

・明日と明後日(11月22日、23日)、
池袋サンシャインシティ文化会館で、アイランダー2008という
イベント
http://www.i-lander.com/index2008.html
があり、小笠原からフラと南洋踊りが出演するという情報

・第17回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品
『戦後は終らない ~硫黄島・日米元兵士たちの証言~』
(制作:長野放送)という番組が11月15日の深夜に放送されたという
情報 (硫黄島の番組なのに、全然知らずに、すっかり見逃してしまい
お恥ずかしい限りです。再放送されますよう期待します。)

を載せて下さっているのを読みました。テレビは間に合いませんでしたが、
サンシャインには行って、大好きな南洋踊りを見たいです。

(池袋サンシャインシティでは、ナンジャタウンには、何度も行っていますが、
これまでには、餃子スタジアムにばかり行っていましたが、
先日、「りらくの森」の中に初めて入って、どれも、個性的なマッサージ
の中からハワイアンの「アロハガーデン」というのを見つけたので、
15分コースの頭と肩のマッサージをしてもらいました。
心地よくて寝そうになりました。)
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飛行機利用のトーチカの入り口

2008年11月02日 | 硫黄島・小笠原村
このトーチカも、訪問すると見るコースに入っています。

飛行機の機体の胴体部分を使って、
周りを固めたものです。

中に入ることができます。
かなり頑丈な作りだと思います。

中に入ると元の飛行機だった時の機体の形そのもの
が分かります。

通り抜けできます。

写真の手前側に近い方の内部は、湾曲している元も
機体だった部分で、奥は鉄筋むき出しの四角い高さも
湾曲部より高い空間になっています。

地下に、壕をはりめぐらせる一方で、
地上では、廃物利用、エコの先駆け の、
防御施設をこのように作っていたことが分かります。

上陸前に、あれだけ、爆撃、艦砲射撃の攻撃を
受けたのに、このように、今でも形をとどめています。

擂鉢山攻撃の時に、このあたりで攻防があったはずの
位置だと思います。
硫黄島が一番南北に細くなっているくびれの部分のほぼ真ん中、
米軍が上陸した地点の北がこのトーチカのある場所で、真西が
擂鉢山山頂という位置関係です。
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擂鉢山の麓付近にある水平砲

2008年11月01日 | 硫黄島・小笠原村
一昨年も、去年も、この砲台には訪れていて
写真を撮影しましたが、
一緒に行った皆さんが砲の周りに集まっているのが
多く写ってしまっていて、掲載できませんでした。

今年は、周りに人がいない、砲身の写真を撮影できました。

ホームページやブログなどで、いろいろな方々が、
硫黄島の戦跡などの写真を紹介して下さっていますが、
「他の人がうつってしまっている。」写真は少ないです。

それは、紹介して下さっている方々が、
私のように墓参で行っている人ではなく、
自衛隊の関係や、行事などで、比較的、少人数で
ゆっくり、見てまわれるスケジュールの中で撮影なさった
写真を掲載してくれているからだと思います。
「仕事で硫黄島に」という方によって写真が紹介されているのが
多く見られます。


島で一泊する小笠原丸での年に1度実施の墓参訪島の
動き、スケジュールをおさらいしますと

1日目 : 慰霊式典
      祈念館到着、宿泊する私たちは荷物を部屋に運んで、お弁当昼食
      戦前の出身ごとにグループ行動、バスで、それぞれの
      出身に連れて行ってもらう「里帰り」。
      巡回バスで祈念館へ。
     
2日目 : 島内の戦跡などを、硫黄島協会の方、父島・母島から参加の
      中学生などを含めて、いくつかの班ごとに分かれて、バスで
移動して回る。昼食は、厚生館でお弁当。

この2日目に行く場所は、毎年、およそ、順番も含めて同じです。
入間からの日帰りでの時も、島にいられる時間が2,3時間と短くなりますので、
ぎゅっと圧縮されて場所も減りますが、基本的には、回る場所は一緒です。

この2日目に、いろいろな場所に回る時に、場所によっては、他の班が
バスに戻ろうとしている時間であったりもします。

何度も行かれている方々、ベテランの方々の中には、
同じ場所を何度も見ているので、戦跡の見学場所では、降りずに
バスに残られる方もいらっしゃいます。
お祈りをするスポットではない場合に、同じ場所を毎年見ても
仕方ないので、暑い中を、バスから降りて、行って戻るより
バスの中で過ごされます。

このようにグループで、バスから降りて、見る場所まで行って、
自衛隊の方による解説を聞いたり、碑では、お供えやお祈りをしたり
などをしながら、回ります。

ほとんどの場所で、同じ場所に、班のメンバーの方々が集まりますので、
他の方が入らない写真を撮るのは難しくなります。

なので、私は、バスから降りると、走ります。
引率の自衛隊の方を抜かして、先に到着して、写真撮影。

または、皆さんが、バスに戻るために歩いて移動開始した
後まで残って撮影してから、走って追いつきます。

「いつもパタパタして落ち着かないの」という異名を
頂戴してしまうことに、なってしまいました。

できるだけ多くを見て、多くを写真とビデオに収めようと
すると、ついつい欲張って、走りまわることに
なってしまいます。

何人かの解説、引率に慣れている自衛隊の方が同行して下さるのですが、
長年これらの戦跡などで解説をして下さっていた
自衛隊員の方が、昨年が最後で、定年で退官なさるとご挨拶されました。
今年は、やはり顔見知りの別の隊員の方が解説して下さいました。

その、昨年退官のベテランの方の 水平砲 での解説も、
三回、聞きました。

「早くに発砲してしまったことから、米軍に場所特定されて、
集中攻撃されて、使えなくなったことから、別名「勇み足砲」とも
呼ばれますが、私は、この砲がが「勇み足」で活躍しなかったかというと
そう思っていません。」という内容の説明をなさって下さっていました。

大阪山砲台の砲身のように、砲身に銃撃痕はなく、
きれいな巨大な砲身を見せてくれています。

元は、コンクリート壁に覆われていて、そこから砲身をのぞかせて
いたそうで、まわりに、壁跡が少し残っています。
隣にも、砲があって、その隣の砲は、いまでも、コンクリート壁に
覆われています。

場所が、擂鉢山の正面麓という、
米軍が上陸してから、擂鉢山を目指して星条旗を掲げるまでに
激戦になった地域にあります。

上陸戦での早い段階で、破壊されて、使えなくなったのは
確かだと思います。この砲群が、どれぐらい活躍したかは
分かりませんが、最初の砲撃が「勇み足」だったということは
ないと思います。すぐにこの砲の場所が敵に知れたとの
ことですが、
あれだけ囲まれて、この場所にあったのですが、どっちにしても
早い段階に破壊されるべき運命だったのだと思います。

「このタイプはもっと遠くを狙う砲で、眼下の
米軍が上陸した浜を狙うタイプではない。」とも、説明して
もらった記憶があります。


かなり時代の隔たりがあり映画二作ですが、
1962年の映画「史上最大の作戦」で、ロバート・ミッチャム演じる
コータ准将たちが、ノルマンディー上陸をする場面も
迫力があります。(ジョン・ウェインは、この映画では、
内陸に下りる空挺団を指揮する役でした。)

「史上最大の作戦」から遡ること13年の1949年の
ジョン・ウェイン主演の「硫黄島の砂」の、
上陸場面も、上陸戦の激戦ぶりの迫力では負けていません。
「硫黄島の砂」では、一部、報道が撮影した
実際の記録映画の映像も使われています。
(見比べると分かるのですが、艦上から、犠牲者の
棺を弔砲で海に送る場面など。)

多くの西部劇などで大スターになったジョン・ウェインは、
1949年の「硫黄島の砂」で、アカデミー賞主演男優賞ノミネートされましたが、
主演男優賞受賞作となったのは、実に20年の歳月を経ての、
もちろん、カラー作品の、「勇気ある追跡」でした。

「硫黄島の砂」には、星条旗を掲げた6人の中で、
生き残った3人も、宣伝効果を高めるために呼ばれて、
出演(「父親たちの星条旗」の原作本を読んで知りました。)
しているそうですが、どれが、そのジョン・ブラッドリー
(「父親たちの星条旗」原作者、ジェイムズ・ブラッドリーの父)
達3人だか、少しだけしか映っていないので、私には分かりませんでした。
(本には、ジョン・ウエィンと、三人が一緒に映っている
写真が載せられています。)

映画「硫黄島の砂」には、上陸を狙われて、激しい
銃撃を受けている場面があります。
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