OUR HOME ISLAND - いおうとう(硫黄島)

戦前に在住していた島民が、戦後の小笠原返還後も故郷に帰ることが許されていない硫黄島についての情報発信をいたします。

父島 海洋センターでウミガメと会いました(1) コータくん

2009年06月30日 | 硫黄島・小笠原村
今年の6月の硫黄島訪問の
硫黄島のタコの実と、凧まで、紹介しました。

父島を硫黄島紹介し終わってからにしますと
まだずっと先になってしまいそうですので、
ウミガメについて、先に紹介したいと思います。


一昨年と昨年の小笠原・硫黄島の行き帰りに寄った父島で、
村役場の方の車で案内してもらったり、スクーターで島を
まわったり、釣りをしたり、パパヤ号で南島に行ったりなど、
いろいろと小笠原を見ましたが、まだ、見学していないところも
たくさんありました。

今年はぜひ、海洋センターを見学したいと思っていました。

とは言っても、海洋センターのある場所をだいたい
知っている程度でした。
最初の小笠原・硫黄島だった1994年に、
親戚一同で、遠縁のやっている食堂(か民宿?)に、
お風呂を入らせてもらいながら休憩に行ったのですが、
一緒に行った親戚が休んでいる間に、一人で、海洋センターの
あたりを歩いたことがありました。

ブログでの交流から、お出迎えとお見送りなど、本当にいろいろと
お世話になっている

「エンジョイ!島ライフ」の「青い鳥@小笠原」さんに、
海洋センターを見学したいと伝えると、
ご親切にもガイドをして下さるとおっしゃっていただき、
お言葉に甘えて、海洋センターを案内していただきました。
海洋センターのウミガメたちなどを紹介してもらいながら、
保護や教育についての現状も教えてもらうことできて
ウミガメについての理解を深めることができました。
ありがとうございました。


6月16日、硫黄島から父島に戻って、レンタルスクーターを
借りて、海洋センターに行きました。
まだ、海洋センターが開いたばかりの時間でした。

ウミガメを見ることができる以外にも、いろいろと
戦前の生活や、自然などについての展示もありました。


進むと、最初のでっかい水槽にいるのが、コータくんでした。

「ウミガメのおやつ100円」で、キャベツの大きい葉数枚が
紙コップに入れて、置いてあります。


犬、猫など、ペットや、動物園などでも餌を上げることができる
動物などが、餌を欲しがる様子は、かわいらしいものですが、
コータくん、には、びっくりしました。

コータくんの、水槽の縁に寄って来て、手(前足?)を「バンザイ」から
左右に振っての、「ちょうだい!ちょうだい!」アピールの
様子は、本当に動きが早く激しく水をバチャバチャと叩く動きで、
「くれくれくれくれくれ くれー!」と言っているようでした!

その仕草の愛くるしさに、しばらくは呆然となりました。

あの、「くれくれ」ポーズの かわいらしさ は、
実際にコウタくんを見たことがない人に、言葉で説明するのは
なかなか、難しいな、と思います。

ねだり上手のコータ君は、また、くいしんぼうでもあり、
かなり上げても、何度も繰り返して、「くれくれ」ポーズで
アピールしてきます。

何人かでコータ君の水槽の縁にいても、
キャベツの紙コップを持っている人間の所にしか近づかないので、
誰にアピールすればもらえるのかも、しっかり、分かっていました。

コータ君は、子ガメではないので、
キャベツの葉を持った指を近づけすぎると危険ですが、かなり近いところから
水に落としてあげると、大喜びで、次々と食べていました。
私たちより後から見学に来た、別のお客さんにも、同じように
ねだって、もらっていました。

写真では「えさ おねだり アピール」が、どれぐらい
かわいかったかを、伝えられないのがもどかしいぐらいです。

本当にかわいいので、父島に行く皆さんは、ぜひ、
コータくんたちにに会いに、海洋センターを訪れて欲しいと
思います。

小笠原海洋センター ホームページのURLです。
http://bonin-ocean.net/

(投稿時点では「コウタくん」と書いていましたが、
7月3日に「コータくん」と訂正書換えしました。)
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私たちの硫黄島到着、上陸を歓迎してくれる凧

2009年06月28日 | 硫黄島・小笠原村
写真で紹介するのは初めてですが、これも毎年恒例で、上陸後、間もなくの
バスに乗って慰霊祭会場の平和祈念旧島民墓地公園にバスで向かう時に、
上陸場所近くで、自衛隊の方が、凧揚げをして歓迎してくれます。

これまでは写真に撮れませんでしたが、バスの窓越しに、
高く揚げて下さっている凧を撮影することができました。


昨年の記事で紹介の川崎日航ホテルでの「島民の集い」会場に
作って置いて下さった、「硫黄島大模型」も、細部も細かく作られていて、
「凧」も作りこまれていました。


硫黄島では、戦前、他の場所よりも特に凧揚げが盛んだったそうです。
自衛隊の方が、凧揚げで歓迎をしてくれます。

戦前に作られた、立派な凧の写真も残っていて、
当時の凧の写真も、一昨年と今年の、船内の戦前写真上映会で
見せてもらいました。
その写真を見ながら、一昨年の上映会の時には、
「よく揚がる工夫をどうしたか。」を、当時をご存知の人が
話してくれました。

硫黄島では、
風があればどこまででも凧が揚がっていきそうだな、と思いながら、
この、歓迎の凧を見ると、「島に着いた。これから、
慰霊祭から今年の墓参帰島もいよいよ本番だ。」と身が引き締まります。
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タコの実2009

2009年06月27日 | 硫黄島・小笠原村
例年、硫黄島から戻ると紹介しているタコの実です。

この写真のタコの実は、慰霊祭が行われる平和祈念旧島民墓地公園下の
いくつも実をつけた立派な木になっていたものです。

昨年は、硫黄ヶ丘のタコの実で、実が食べられた跡が空間になっている
様子が分かる写真を紹介いたしましたが、
今年は、実が食べられているタコの実は、一つも、見かけませんでした。

この写真のタコの実は、立派に十分に熟しているように見えますが、
まだ、食べられていません。

今年も、何人かの方(理科の先生を含めて)に質問しましたが、
「食べるのはコウモリ。」という答えでした。

タコの実は、熟れてくると、いかにも「お酒を醸造できそうなような
種類の甘い匂い」を出します。
昨年持ち帰ったタコの実が、時間経過すると、どんどん、
強い匂いを出すようになりました。

今年、一つもタコの実が食べられいてなかったのは、
・熟しているように見えるが、まだ、匂いでコウモリを呼ぶのには
ちょっと若い
・苦労して、あんなに硬い房を噛んでまで、タコの実を食べる
努力をしなくても、他の食べ物が昨年より豊富にある。
・タコの実を食べる側のコウモリが減った。
などが、理由の候補として考えられるのではないかと、
思いました。

今年、平和祈念館での楽しい夕食の時に、出していただいた
タコの実鉄火味噌は、これまで、いただいた中で、
一番大きな実で作られていて、とても美味しかったです。

硫黄島・父島 訪問回数が数え切れないほどのベテランの
大先輩の方が、
「房の外見の大きさでは、中の実がどれぐらい大きいか
分からない。この鉄火味噌に使われているぐらい大きい
実が入っているものもあれば、小さいのもある。」
と教えてくれました。

「でしたら、実が大きい房は、
実を取った後や、コウモリに食べられた跡の
穴の部分が大きくなりますね。」と、確認しました。

そういえば、昨年のコウモリに食べられてしまった跡の穴は
大きかったような気がします。同じ苦労をして硬い房を
実にたどりつくまで、齧るのでしたら、実が大きい方が
良いに決まっています。コウモリたちは、実の大小が分かるのかも
しれません。

タコの実は、硫黄島に固有ではなく、父島、母島にもあります。
タコの実入りの、「島唐辛子味噌」が、お土産で売っています。
インターネットで取り寄せることもできます。


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硫黄島に到着、繋留前の夜明けの硫黄島(2)

2009年06月26日 | 硫黄島・小笠原村
いよいよ、日の出の時間直前の写真です。

硫黄島の北側(この写真のずっと右側の端が擂鉢山という位置)の地点を
撮影しています。
この時の小笠原丸の位置からは、この写真の左側に
上陸地点である釜岩の沖の監獄岩が見えました。

この後、いよいよ、繋留場所に入って(非常に難しい操船だと
聞きました。)繋留作業が始まります。
私たちは、下船・上陸の準備に取り掛かります。

今年は、硫黄島平和祈念館に宿泊するメンバーと、
船に戻って小笠原丸宿泊するメンバーに島民が分かれましたので、
船に戻るメンバーは、硫黄島1日目に必要な荷物だけを、
平和祈念館に泊まるメンバーは一泊分の荷物を持っての上陸でした。
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硫黄島に到着、繋留前の夜明けの硫黄島(1)

2009年06月26日 | 硫黄島・小笠原村
今年も、昨年と同様に、2009年6月の硫黄島・小笠原(父島、南島、兄島海中
公園)訪問の様子を、昨年との違いなどを中心に、紹介してまいります。
よろしくお願いいたします。

一昨年、昨年は、寝坊して、目が覚めてデッキに上がると
繋留場所に小笠原丸が入っていて、目の前「沈船群」という風景でした。
今年は、同行者の「朝焼けだ。」という声で起きて、デッキに上ると
これから、太陽が昇ってくるところでした。

まだ、明るくなりきっていない時点の擂鉢山の写真です。
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2009年 今年の硫黄島を去る時の島一周(3)

2009年06月25日 | 硫黄島・小笠原村
小笠原丸が島の北東側をまわって、また、南の擂鉢山に近づく時間帯が
日没で、船から西側になる島に沈む夕日が見える頃なのですが、
今年は、だんだんと、厚くなる雲にさえぎられて、
空を染める夕日が落ちるところを見ることができませんでした。

その時間帯に擂鉢山が左に写る写真を撮ったのがこれです。

左から、擂鉢山の左側と右側から、島の高台にかけて、
スコールになっている様子が、分かると思います。

この後、小笠原丸は擂鉢山の裏側、島のすぐ南を通過して、
それから北上して、硫黄島を離れます。

この写真でスコールになっている場所に、近づいていく
ということです。
「スコールも動くだろうし、小笠原丸がコースを変えて
昨年より擂鉢山から離れたところをまわるのかもしれない。」
と、思っていた時間帯です。

結果としては、昨年と同じ、擂鉢山裏側すぐのところを
回りました。その時には、スコールは、もっと北側に移動していて、
雨がぱらつく程度の時間に、島の南を回りました。

空もだんだんと暗さを増して、島を離れる時が近づいてきました。
皆での海への献花は、予定されていた18:30から10分遅れて
18:40とアナウンスされました。
スコールに突入して、かなりの雨が降り始めたのは、
小笠原丸が、また島の西側に回りこんだ位置の18:35頃でした。

献花の時間には雨でした。
虹から始まって、スコールに入り雨の中での献花で終わった
硫黄島を離れる1周でした。

毎年、この、1周には、いろいろなドラマがあります。
献花が終わると、雨に急かされて、皆、デッキから船内に入り、
すっかり暗くなった海の上を小笠原丸は北上し始めました。

今年の島とのお別れの雨は、
戻れずに島で果てた兵士たちの無念の涙だったと感じましたが、
私たちが、全日程を終えるまでは、待ってくれました。


硫黄島を離れる時点での天気予報では、
翌日の父島は前線の影響で雨という予報でした。
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2009年 今年の硫黄島を去る時の島一周(2)

2009年06月24日 | 硫黄島・小笠原村
硫黄島を離れる時、
艀に乗る時も、小笠原丸に乗り移る時も、揺れはあまりなかったです。
私たちが島を離れるまでは、天気はもってくれました。


船に乗り込み終わって、小笠原丸がアンカー固定を解いて
動くのを待っている時間がかなりありますが、その頃になって
硫黄島の上に雲がかかってきて、みるみる空が暗くなってきました。

青空が見えなくなり、
気温も急に下がりました。あんなに暑い一日をさっきまで
硫黄島で過ごしていたのがうそのようです。


動き始めた小笠原丸は、繋留場所の釜岩沖を離れて、
まずは、南下して監獄岩沖を通ります。

昨年のこのブログで詳しく紹介いたしましたが、
繋留場所から、平和祈念旧島民墓地公園の、特徴のあるとがった
白い建物屋根は見えます。

監獄岩を回り込むあたりになると、
宿泊した平和祈念館が見えてきます。
ちょうど、その頃だったと思いますが、
硫黄島の上は黒い雲に覆われ、そして、
島の上に昨年もかかった虹が、また、かかりました。

二年続けて、墓参慰霊訪島の私たちを
島の上にかかる虹が見送ってくれました。


お天気が崩れるタイミングは、
私たちが島での二日の活動を終えるのをちょうど
待ってくれていたかのようでした。

この後、船は、この虹が写っている写真の左、一番島の北東側を回ります。
その時には、右側に見えていた、擂鉢山が見えなくなる角度に船が来て、
それから、今度は左側に擂鉢山が見える方向に船がまわっていきます。
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2009年 今年の硫黄島を去る時の島一周(1)

2009年06月23日 | 硫黄島・小笠原村
二日とも上陸できて予定どおり硫黄島で過ごせるかが、
一時、危ぶまれた、今年の訪問でしたが、無事に二日とも
予定どおりに過ごすことができました。

二日目も暑くて、びしょ濡れになりながらの行程でした。

私たちが島にいた間は、好天に恵まれました。

写真は、釜岩から小笠原丸に戻る、艀から、
擂鉢山を背景に小笠原丸も撮影したものです。
青空が見えていますが、擂鉢山の上には、巨大な雲が
出始めています。


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パラファーム2009 「田植え」に参加

2009年06月22日 | 植物栽培
「パラファーム」とは、「自分たちで、田植えから収穫まで、自分たちでお米を作って秋に食べよう。」というイベントです。

昨日、パラファーム2009の最初の「田植えに」に参加してきました。

パラファームを主催している団体は、パラカップ主催の中心団体と同じ「パラサイヨ」です。
パラサイヨは、「「FOR YOU」を理念に、さまざまなチャリティーイベントを運営」してフィリピンの子供たちを支援する団体です。
パラサイヨのホームページをブックマークいたしましたので、ぜひ、ご覧下さい。

4月29日のパラカップ2009 ハーフマラソン に参加して、その後、案内をもらった「裏パラカップ」の時に、「パラファームというイベントもある。」と教えてもらって、「裏パラカップ参加者」に案内をしてもらって、今回、パラファームへも参加することになりました。


このブログには「カテゴリー」と、「ジャンル」という記事分類があるのですが、
「カテゴリー」の方は、自分でタイトルを作るもので、ジャンルの方は、gooブログ側で分類用意しているものから選びます。

この記事の「カテゴリー」と「ジャンル」をどうしようか、かなり考えました。
「パラカップからのつながりは、これまで、「ランニング」というカテゴリーにしてきたが、「田植え」は、田んぼを走るのではないから、ランニングではない。
ちょうど、島唐辛子、マイクロトマト栽培、の記事の時に「植物栽培」という「カテゴリー」を作ったので、稲を育てるのだから、それがぴったりだろう。」と
考えて、次に、

「 前の「植物栽培」カテゴリーは、「ガーデニング」ジャンルにしていて、
「ランニング」を「トレーニング・フィットネス」と、していたが、
「稲を栽培するのはガーデニングとは違うな。かなり、体力を使いそうなので、
「トレーニング・フィットネス」にしておこう。」と思いました。


パラサイヨのホームページに「パラファーム」情報がありますが、
田植えをする田んぼは、高崎線の岡部駅が最寄駅の埼玉県本庄市に
ある農家の金井國夫の田んぼをお借りしています。

朝、早起きして、岡部駅に向かいました。

田植え足袋も履いて、作業できるかっこうになって田んぼに行きました。

小学校の時に「田んぼ」とも呼べない小さな一角で稲栽培というのが
あって以来、本格的な手植え「田植え」作業は、初めてでした。


作業開始頃には、曇りで気温もそれほど上がらずに、過ごしやすい
天気でしたが、昼頃から、日差しが出て、暑くなってきました。

みんなで一列になって、数ラインをそれぞれがカバーして、進んでいくのですが
性格が出て、きっちりまっすぐに植えている人と、そうでない人の
差が大きかったです。私が植えたラインは、もちろん完璧! (?)

苗の塊から、植える単位の「2,3本ぐらいでいい」を、ちぎり分ける(?)のを
すばやくやるのが、大変でした。多くなりすぎたり、手間取ったりしました。
また、脚が泥に埋没したのを抜いて移動させるのには、かなりのバランス力と
筋力が必要でした。バランスくずして、両手をついたり田んぼ中に転んだり
はありませんでしたが、危うく、という場面はいくつかありました。


今後、パラファームは、草取り、収穫、脱穀(食べる日)と、続きます。

「種籾かを苗にして、それを田植えして、そこからも、農家の皆さんは
水の具合や雑草の具合、台風などの大風が吹く年もあるでしょうから、
いろいろと気を使って丹精込めて、育てていかれるのでしょうが、
こうして植えると田んぼにイネとう植物が寝を張って、穂を伸ばして、
秋には、米が実り、それを脱穀して、精米、炊いて食べる、という生活を
人間が世界の各地で、長い期間にわたって行ってきているのは
不思議なことだな。」と思いながら、植えました。

足袋を履いて、脱いで(履くよりかなり、脱ぐのは大変)、それを洗って、
というのが大変だったし、休憩の度に、一度、田んぼから出るのが面倒かな、
と思いましたが、作業はきついとか辛いとかは思いませんでした。
人数も十分にいたからだと思います。もっと少ない人数で、もっと広い
面積を手植えしたら、うんざり、だったと思います。

いまどき人数が出て一列に手植えしている光景は珍しいのか、
通りかかった車から、見学・応援の人が出てきたりしました。


田植え作業終了後は、
食事準備隊の皆さんが作ってくださった、楽しみなお昼。
生野菜、じゃがいも、バジルとトマトとモッツァレラのサラダ、
夏野菜(ズッキーニ、ナスなど)のラタトゥユ。

夏野菜が美味でした。ラタトゥユも野菜の甘みを活かす調理で
抜群でした。

ちょうど小笠原で買った「小笠原の塩(大木さんのお塩)」と
島味噌を持っていきました。じゃがいもも、にんじんも
獲れたて新鮮だったので、美味しくいただきました。

私は、「変な屁理屈をこねまわす。(本人はまったくそう思っていませんが)」
と言われることがあります。
カレーの具は、「肉とたまねぎ、にんじんが正解で、ジャガイモはダメ」派です。
ジャガイモが煮崩れるとあんまり、、という結果になりますし、
何よりの根拠は、「炭水化物・主食であるご飯(米)を食べるためのおかずの
カレールーに炭水化物(でんぷん)のじゃがいもは、炭水化物がかぶっておかしい。」というものです。

具にジャガイモが入ったカレーライスは嫌いなのですが、昨日、田植え後に
いただいたのは、美味しくて、おかわり しました。
じゃがいも、が新鮮で味が濃くしっかり力強くて、カレールーのジャガイモ
部分だけで、立派なご馳走 だったからです。

愉快な仲間の皆さんの自己紹介もあって、楽しく、
昼食の時間を過ごしました。


田んぼ で過ごした日、夜は、すぐに眠くなりたっぷり眠れました。

次は、7月5日の草取りです。
自分の手で植えたので、これから、この夏、「あのイネたちは元気だろうか」
と心配もしながら、収穫して食べるのを楽しみに過ごすことになります。

パラカップから、パラファームと、楽しいイベントに続けて参加できる
縁にめぐり合えたことに感謝しています。


写真は、最後の休憩の時の「ここまで、植えて、あともうすぐのところ」です。

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2009年 の 硫黄島での慰霊祭

2009年06月20日 | 硫黄島・小笠原村
今年も硫黄島に上陸して最初に、訪島者全員での慰霊祭が、平和祈念墓地公園で
行われました。

上陸して到着したのが、早い順番でしたので、慰霊祭が始まるまで
かなりの時間がありましたので、旧島民墓地碑にお参りしたり、
周囲の写真を撮ったりしながら、待ちました。

昨年より少し風があり、気温も低かったかもしれませんが、
それでも暑かったです。

一番前のテントが、代表して挨拶する方などが最前列で
2列目途中からが私たち島民です。
3年続けて同じような席で、2列目の一番左に座りました。

父島と母島の中学校二年生の代表の言葉は、素晴らしかったです。
この訪島のために、何を勉強したか、も話してくれますし、
戦争が激しかった島であることだけでなく、
住民が平和に暮らしていた島でもあったこと
にも、皆さん、ふれてくれていました。
とても、しっかりした、「しっかり勉強してくれた
こういう中学生たちがいることは将来、心強い。」と
思える言葉でした。

「硫黄島も小笠原村」「帰れない、生活していた人がいた島」
であることを、きちんと、勉強して理解してくれていました。
嬉しいことです。

中学生の皆さんは、その後、1日半かけて、島内の
各所を硫黄島協会の方の案内や、先生に先導されて
回ったと思います。
二日目に、舟見岩や、壕の入り口で、一緒になりました。

皆さんが、島の風景、壕の様子などを見て感じたことを
これらかも大切に、いろいろな角度から物を見る勉強を
続けて欲しいと思います。

式典での挨拶で、遺骨収集について、多くの人が
話していました。
「現実が、難しい事業が遺骨収集」だと思いますので、
複雑な気持ちで聞いていました。


中学生代表が千羽鶴を上げてくださいましたが、
今年は、小笠原高校の皆さんの千羽鶴も加わりました。

小笠原高校の皆さんが文化祭「ビーデ祭」に、
硫黄島へ届ける千羽鶴を折るコーナーを設けて下さっていたことは
「エンジョイ!島ライフ」 2009.06.07 「雨のビーデ祭2009」
に紹介してもらっていたので知っていました。
中学二年で訪問しただけではなく高校に入っても
硫黄島の慰霊祭を覚えてくれていて、硫黄島への千羽鶴を
届ける工夫をしてくれました。素晴らしいです。
ありがとうございました。


中学生代表の言葉の後、参加者全員での献花がありました。
それに続いて、全員での、「故郷の廃家」斉唱です。
今年は、島民参加者45人とこれまでで最多でした。
9月の「集い」で集まって、「故郷の廃家」を歌っている
人も多く参加していましたし、昨年と続けて慰霊祭に
参加の人もいました。
「集い」の司会者、「故郷の廃家」を歌う時には、
指揮者と、「間違えそうになる時に合いの手を入れる役」も
今年はいました。

中学生のテントだけに頼らずに、私たち島民のテントも
かなり、きちんと、「故郷の廃家」を歌えていたと
思いました。一昨年、昨年からの進歩が著しかったです。

一昨年は、ひどいもので、歌っていないか、
歌っていても、「荒れたる わが家に」の部分に
4拍休み(全休符)がある部分を先に出てしまって
リズムが合わなくなる人が続出で、
聴くに耐えない、私たち島民テントの歌でした。
私も、まだ、このブログを始める前で、
「故郷の廃家」のメロディーとリズムも知らず、
作詞者の名前、犬童球渓 も、初めて見たのが
2年前の慰霊祭の時点でした。


3年連続になると、写真は同じ場所で撮ったものが
多くなってしまいます。
この写真は今年の慰霊祭の献花、千羽鶴です。

昨年の同じ場面写真を確認しましたが、
昨年のは両側にしか千羽鶴がありませんが、
今年はこの写真の中央に近い部分にも献じられています。
それが小笠原高校からの千羽鶴です。
前に載せたのと似た写真ですが、千羽鶴が一つ多く加わっているというのが
ポイントです。
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