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OUR HOME ISLAND - いおうとう(硫黄島)

戦前に在住していた島民が、戦後の小笠原返還後も故郷に帰ることが許されていない硫黄島についての情報発信をいたします。

貨物廠

2008年07月31日 | 硫黄島・小笠原村
軍属として、
硫黄島から、本土に疎開させてもらえずに
残された人が82人、戦死しています。

12名の旧島民の尊い命が失われたのが、
この陸軍野戦貨物廠という場所です。
林の中の小道になっている場所を進むと、上が
垂直の岩壁になっている場所に、
写真の貨物廠の壕があります。

慰霊墓参訪島では、毎回、この貨物廠にも
皆で来ます。

島中で水のない、壕に隠れての、
凄惨な恐怖の激戦が行われた島です。
島全体が、一つまるまる、慰霊碑 という印象を受けます。

旧島民が82人、犠牲になりました。
親、兄弟姉妹、子供など家族と別れて、島に残って死にました。

また、多くの、島に派遣されてきた、日本とアメリカの
両国の兵士たちが、この島で戦死しました。

「安らかに」と、お祈りする以外にできることはありません。
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硫黄島の夕焼け

2008年07月30日 | 硫黄島・小笠原村
今年の硫黄島の1日目の日没の頃、
祈念館から夕焼けで茜色に染まった海の方角を
撮影した写真の1枚です。

次の日に島を1周してから離れていく時に撮影した
写真の空の色は、オレンジ色の夕暮れの色でしたが、

島から海の夕焼けを撮影した写真の夕焼けは赤い夕焼けでした。

この晩の夜空は、晴れて星がきれいに見えたのですが、
やや南に大きく明るく出てしまっていた月が
近くの星の光を隠してしまっていました。

写真、海に岬のように細く見えているのは、監獄岩です。
監獄岩は地続きになっていません。
この写真で、もっと左の方が、上陸地点の、
かつては島で現在は地続きになっている釜岩で、
さらに左、沖合いに、小笠原丸が繋留されています。
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祈念館(2)

2008年07月29日 | 硫黄島・小笠原村
この写真の木が、先輩の方々によって、6年前に、祈念館前に植樹された
がじゅまるの木です。
昨年、「5年前に植えた がじゅまる」と、教えてもらいましたが、
写真を撮影し忘れて、今年、撮って来ました。

野生のがじゅまるに比べると、まだまだ、子供の木 という感じでは
ありますが、すくすくと育っている様子です。

祈念館正面、がじゅまるの木を覆うようにテントが張られていますが、
1日目の上陸して最初の、平和祈念墓地公園での慰霊式典が終わると、
この祈念館に寄って、私達は荷物を部屋に運んで、部屋で用意して
いただいているお弁当を食べます。
中学生の人たちなど宿泊しない他の参加者の人たちも、祈念館に
用意されているお弁当でお昼なのですが、建物に入りきれません。
太陽が一番高い昼の時間ですので、テントで、陽射しを遮ってある
場所が昼食場所というわけです。

祈念館ができた6年前に植えられた、若い木です。
人間が作った建物である祈念館は、時間が経って古くなります。
あるいは、私達の願いがかなって、もっと拡張の建て直しを
してもらえるかもしれません。
ひょっとすると、いつの日にか、
宿泊施設は、もっと規模が大きい建物を別の場所に
建ててもらい、祈念館は、今の役割を終えている日が
きているかもしれません。
そんな未来には、この木が、たくましく育っているだろう姿が
目に浮かぶ気がします。

「故郷の島に帰って住みたい。」
「慰霊、墓参に島に戻った時には、宿泊できる施設ができた
という、足がかりを持つことができた。」

この、がじゅまるの木には、「どんどん大きく育て!」という
島民一同の願いがこめられていると思います。
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祈念館(1)

2008年07月28日 | 硫黄島・小笠原村
祈念館です。

できたのは平成14年です。
できる前は、旧島民も、年に一度の小笠原丸での墓参帰島では、
船に戻って一泊、翌日、上陸していました。

私も最初の硫黄島の時には、まだ、祈念館がありませんでしたので、
釜岩沖に繋留中の小笠原丸に一泊したことがあります。

船での宿泊も貴重な経験で面白いものでした。
灯りを目指して集まる魚の数に驚きました。

ですが、祈念館での一夜は、
皆で親交を深めることができますし、
自衛隊や鹿島の方もゲストとして、来て下さいます。
有意義な時間を過ごすことができるようになった点で
祈念館ができたことの意義は大きいと思います。

食堂、厨房、シャワー室に、洗濯室があります。
乾燥機も置いてもらっている洗濯室が便利で、
ありがたいです。
泥まみれ、汗まみれ、の衣類を洗って乾かし翌日に
また着ることができます。

島での活動では、紫外線対策と、擦り傷やひっかき傷防止のために
長袖が必須です。

去年と今年で同じジャケットで、
洗って、二日目も着ました。

去年は戻ってから、
近所の腕の良い、職人クリーニング屋が、去年は
きれいに洗ってくれました。
今年は、
「何のしみだか分からない。調べながら、
落とすので、まだ。」と、なかなか、受け取れず、
いろいろとやってもらった結果、
結局は何のしみだか分からずじまいで、
薄緑色の生地に、オレンジ色と肌色の中間の色の
斑点しみが残ってしまいました。
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ヨコハマ・ハワイイ・フェスティバル - 父島からの皆様

2008年07月26日 | 硫黄島・小笠原村
今年で7回目となるという、
大きなイベント

ヨコハマ・ハワイイ・フェスティバル
http://www.hawaiifes.com/artist-3.php
の会場に行って、
父島からの皆様 Na pua nani o makua
の皆さんの
 踊り、歌、演奏を 見てきました。

出演メンバーは父島から来てくださった高校生の皆さんでした。

小笠原古謡 「丸木舟」でのフラや
オリジナルの曲でのフラ、
男子による、漁の様子の踊りも迫力たっぷり、
演奏と歌も、
リズム、ハーモニーも素晴らしかったです。

「出会いと別れ」という テーマを
中心になさっていましたが、

「父島に住むことを誇りに思い、
自然を愛する。」という、
司会の人の言葉も、印象に残りました。

とても暑い日が続く中での練習と、
特に暑かった今日からの本番では会場も数ヶ所にまががるので
本番間の移動もあって、体力勝負で、大変だと思いますが、
本当に、皆さん、よく頑張っていらっしゃいました。

明日は、もっと多くの人出になるでしょうし、
父島から、就職や進学で、内地に出てきている人たちも
踊りに加わるそうです。

フラと、父島の音楽、南洋踊り と
ルーツが共通していることを、あらためて実感しました。



私たち、同じ小笠原村の硫黄島の旧島民には、
1年に1度、皆が川崎の毎年同じ会場に集まる、「集い」の
案内の葉書が届きました。

写真は、フェスティバル会場の大さん橋から
氷川丸と山下公園方面。
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204設営隊 の釜場跡

2008年07月18日 | 硫黄島・小笠原村
この場所は、何とも、コメントがしにくい場所です。

墓参で訪問すると、毎回、ここに来ます。

一昨年も昨年もこの場所の写真を撮影しましたが、
これまで、何と書いていいのか分からずに、
紹介しませんでした。



軍属として、残された島民の多くが、この隊にいたことは
分かっています。この隊に所属した旧島民軍属の70人が
戦士したそうです。
戦争のどんな段階で、正確にどの場所で犠牲になったかは
分かりません。
この場所から、食事を配給できていたのも、戦いの激しさが
本格的になる前までだったでしょう。

もう一箇所、貨物廠という場所では旧島民12名の方が
玉砕なさったという記録があります。

2006年の秋の日帰りの時に、ボトルの水をお供えしたのが、
昨年の6月の訪問の時にも、釜のところにありました。
私の親類の軍属で残された5人は、この204設営隊に所属でした。
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好天に恵まれ、見ることができました。南硫黄島

2008年07月14日 | 硫黄島・小笠原村
今年の6月の硫黄島は、二日間とも本当に好天に恵まれました。
暑かったのですが、不思議と暑さが辛いとは感じませんでした。

南硫黄島を見ることができました。
写真では、ぼんやりとしか確認できませんが、
標高が916メートルあり、大島の三原山の764メートルより高く、
伊豆諸島・小笠原諸島を合わせた中でも、一番の高さです。
山が多区複雑に入り組んでかなり高く感じられるの父島の
最高標高でも326メートルです。

硫黄島からは南方に見事な、均整のとれた、形を見ることが
できました。
お椀を伏せたような形です。

戦前から通して、定住者がいたことのない島なので、
地続きになったことがない、小笠原の島の中でも
とりわけ独自の自然環境を残しているようです。
硫黄島には銀ネムが、米軍により、増やされてしまったりなど
戦後に植生が変えられてしまっております。

島の形状からも、火山がそのまま、頭頂部を海上に現している
島であることが分かります。

これまでに「天気が良いと、南硫黄が、見えます。」と解説されるを
聞いたのと、
今年「南硫黄えるほど、今日は好天です。」と聞きながら、
この目で見ることができたのとでは、大違いでした。
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走りました。

2008年07月13日 | 硫黄島・小笠原村
硫黄島での1日目、
式典が終わってからの午後の「里帰り」の時のバスでの移動でも、
ランニングをしている自衛隊隊員の方を、見かけました。

硫黄ヶ丘から、元山あたりを見てから、
その日、二度目となる、旧島民墓地平和祈念公園に行って、
徒歩で、宿泊する祈念館に戻ってきたのは、16:00前頃でした。

同行者は、暑さの中の徒歩で、ぐったりでしたので、
伴走を頼めるような様子ではない、どころか、
「こんな日に走るのは正気とも思えない。」と言いました。

車かバイクがないと、そもそも伴走は頼めなかったのですが、
皆さん、その時間は、里帰りから帰ったあとのいろいろな用事での移動や、
祈念館へ宿泊組の私達以外を、おが丸へ乗船させる移動などの時間だった
と思うのですが、
「使わせて欲しい」とお願いできそうな、車両はありませんでした。
あったとしても、同行者二人は、「一刻も早くシャワーを浴びたい。」
だったので、伴走運転はしてくれなかったでしょう。

一人で走る、となると、
慎重にも慎重を期さないといけませんので、
祈念館から、遠く離れることはできません。
擂鉢山往復などという野望は捨てて、近くを走ってみようと、
ウェアに着替えました。


身に着けたもの :

デサントの長袖ランニング用シャツ(速乾素材)
アンダーアーマーのタイツ、ニューバランスの短パン、
一番走りなれているアシックスのシューズ、
ヘッドバンド。
いつもよりの大きめのスポーツタオル。

帽子はかぶりませんでした。
自衛隊員の方でかぶらずに走っている人を見ていましたし、
陽射しと紫外線の強いのは気になりましたが、
帽子を気にすると思い切って走れないからです。

まだ、太陽は高い位置にありました。
(その日は35度ぐらいだったと、後からの、
「エンジョイ!島ライフ」を読ませてもらって知りました。)

「おさピー」様から、「暑さで水分消耗するので」と
ご注意のアドバイスをいただいておりました。

いつものトレーニングで走る時にも、飲んでいるVAAM缶を飲んでスタート。
ランニングの時にたまに飲み忘れてスタートしてしまうことがありますが、
飲まないと、後半ばてます。


いつもの練習では、、10キロとか14キロとかトレーニングで走りますが、
途中での水分補給はしていません。持って走るのが煩わしいのと、
走っている中での給水で、ペースを乱さないか心配だからです。
本当は15分ごととかに給水をするのが良い、と、されています。

3月30日に出場した10キロのロードレースでも
3キロ地点と7キロ地点に給水がありましたが、取りませんでした。
ということで、これまで走りながら「給水」はしたことがありませんでした。

しかし、今回は、普通の暑さではなく日射も非常にきつかったので、
「脱水(気がついた時には遅く、体の熱を外に逃がせなくなってしまいます。
エリートランナーでも大会でスローダウンしてしまったりする選手の多くが、
脱水による熱中症だそうです。)になる危険だけは避けないといけない。
一人で走るのだし。」とアミノバリュー(BCAA4000の方)500mlボトルを持って、走りました。
走り終わるまでには、3、4回に分けて、飲みきりました。

走った時間は
30分でした。
距離は、およそ、6キロぐらいだと思いますので、
1キロ5分の、ゆったりめのペースでした。
無理な、ペースで飛ばそうとするのも、我慢しました。
オーバーペースでは、あの暑さだったら、もたなかっただろうと思います。


「祈念館から離れないようにしよう。」と気をつけました。
「祈念館前の直線を何往復も」とも考えたのですが、
それでは、面白くないですし、
他の人からも、「行ったり来たり何してるんだ?」と
不審に思われそうなのもいやでした。

あまり遠くまで行かずに折り返し と決めて、スタートしました。

最初は、擂鉢山のある南を背中に北に向かいました。
スタートして、すぐに、向かって右に入れる
トレイル (芝生、土などの、走れるオフロードのこと。
「小道」の意味。海外では自然を満喫できるトレイル・ランニングが
盛ん。日本でも、尾根や森の中に整備されたトレイルを走る、
トレランのファンが増えて来ているようです。私は、ロードばかりで、
本格的なトレランはまだ挑戦、経験していません。 )
があるのに気がつきましたので

迷わず入っていきました。ふかふか芝の良い道です。少し登ると
左側に入れましたが、壕の入り口が二個あって、行き止まり。
壕の前で、手を合わせて、戻って登って行きました。

多少、旧な、岩っぽい坂が急になってきました。
登りきったところが開けていて、
砲台でした。
「これが話に聞いていた大阪山砲台か。」と思い、
引き返して下りました。下り途中にの左方向に入れる道があったので、
入っていくと、また、壕の入り口が、二つありました。
止まって、手を合わせて、進みましたが、
アスファルトで固められたやや広い場所があって、そこで、行き止まりでした。
引き換えして、芝の道を下って、元の外周道路にでました。

外周道路をそのまま北に進みました。舗装されて走りやすい、
軽いアップダウンのある道でした。
自衛隊の方とすれ違いました。

「どこで引き返そうか。」と考え始め、
「あの見える、あそこまで。」などと思いながら進んでいくと、
「壁画」という 道標がありました。 そこを右に入ると、
壁画 という場所です。
かなり大きな、分かりやすい、道標でした。
壁画方面には入らずに、直進して、
ゆるい坂を上りきったところで引き返しました。

引き返して、祈念館まで戻ったところで、
20分経過でした。おそらく、4キロちょっと、走っていたと思います。

祈念館を通り過ぎて、
その日に2度行った、平和祈念公園に向かいました。
外周道路は、舗装状態が荒くきれいなアスファルト舗装道路では
ないです。

ゆるい下りになっていて、繋留されている おが丸 の姿が見えました。
道がゆるく左カーブになっていて、曲がると、前方に
擂鉢山が見えました。

最初は擂鉢山山頂往復したい、と思っていたぐらいですから、
およその距離が頭にありましたが、
実際に見えた擂鉢山は、とても遠くに感じられました。
「こんなに、擂鉢山まで、距離があるのか!はるか前方だな。」
と驚きました。

3月に出場した10キロロードレースのコースも
アップダウンにつれて、目標になる建物が見えるコースでしたので、
「まだ、あんな先に見える建物を越した、その先が折り返しか。」と
思いながら走ったのですが、擂鉢山が遠いのは意外でした。

そのあたりで、暑くて、持って行ったスポーツタオルを、
かぶりました。
それより前に、汗でびしょぬれになったヘッドバンドははずしていました。

平和祈念公園で、墓碑に手を合わせて、戻ってきました。
祈念館と平和祈念公園の往復の距離は分かっています。1.8キロです。
ストップウォッチと、祈念館前通過の時に、ラップで止めたので、
その1・8キロにかかった時間を計できましたが、ちょうど、10分でした。

やや上りの道を、ラスト・スパートすることもなく
マイ・ペースで帰ってきました。
祈念館と平和祈念公園の間で、何かの工事作業をなさっていた方がいて、
それを、一木議員が見学なさっていました。

暑さによる消耗は、思っていた以上でしたので、
500ml給水がなかったら、動けなくなっていたと思います。
が、ペースをあげなかったので、やや余力を残しての
祈念館でのフィニッシュ、入念にクーリング・ダウンのストレッチを
しました。


次の日に、皆でバスで回るコースの終わり近くで、例年どおり、
擂鉢山に登りました。
4回目ですが、これまでの、3回は、「ここを走りたい」などと
意識したことがなかったのですが、
今回は、そういう意識で、バスの中で道の様子について考えていました。

「祈念館からの距離があるのに驚いた擂鉢山。
そのラストにこれだけの斜度と長さの登りがあるとは!」
と驚きました。

前にこのブログで、「ゆっくりでも1時間で往復できる。」などと、
楽なコースのような書き方をしてしまいましたが、
「甘かった。この登りの距離の長さでは、最後は
ほとんど、足は止まるし、心肺も限界に達するだろう。
下りも、ブレーキをかけないようにペースをあげて、
かつ、ショックを吸収して故障しないようにうまく走るのは
非常に難しい。」と、思いました。


いつもは、家の前の川沿い遊歩道のロードで、ランニングをすることが
多いのですが、3月のロードレース出場の前には、
坂道を含む別のコースで練習をしていました。

今回、戻ってきてから、
また、その坂のあるコースでのランニング、トレーニングを
中心のメニューに戻しました。
11・5キロの3周コースです。
擂鉢山ほどの斜度と坂の長さではありませんが、
フォームに気をつけて、走っています。

わずか標高169メートルしかない擂鉢山ですが、
南端にそびえていることもあって、目立ちます。
山頂までバスで行ける道を整備して下さっているのですから、
蛇行させていて距離はかなりあります。


今回は、「硫黄島を走りたい。」という、夢はかなえることができました。

自衛隊の方は、多くの人が走っています。
暑さと直射日光(紫外線)がすさまじいですが、
外周道路は、本当に良い、ランニング・ロードです。
今回は、祈念館周辺だけでしたが、空港周辺など気持ち良さそうな道路が
いっぱいです。
また、見学場所へ入るため、遺骨収集作業のためなどに
整えていただいたのでしょうが、ところどころに、
足への負担が少なそうな、フカフカのトレイル(山、森などの間の小道)
があることも分かりました。
トレイルがつながるように整備されれば、
ロードとトレイルが連続する、素晴らしい、ランニング・コースを
作れる島だと思いました。

擂鉢山、
機会があれば、いずれ、走ってみたいです。

ホームページ、ブログなどを検索すると、
過去に「18キロ外周道路ロードレース」が実施されたことが
あったようです。

「待ってろよ!擂鉢山」
と、トレーニングに励みたいと思っています。

写真は、祈念館前の外周道路。南側を見る方向。
左にカーブをすると擂鉢山が目に飛び込んできます。

(2009年5月14日に、一部修正をしました。)
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大阪山砲台

2008年07月12日 | 硫黄島・小笠原村
昨年、祈念館で「この、上に、敵の砲弾を受けた痕が残っている砲がある。」と
教えてもらいました。

砲身に砲弾が命中するというのは、確率的にはとても珍しいことか、
砲弾が相当に多かったかのどちらかですので、その話を聞いて
驚きました。

砲の位置が、敵にわかって、集中的に攻撃をされて、
相当数の砲弾が打たれて破壊されたとしても、それほど太くはないだろう
砲身に弾痕が残るということは、よほどのことだと思いました。

おそらく、敵の砲弾数が想像を絶する数だったのでしょう。

硫黄島の戦跡で、これまでの訪問では見ていなくて、
今年、初めて見たのが、
その大阪山砲台と、壁画(星条旗を掲げたモニュメントが題材)でした。

例年どおり、二日目にバスで、戦跡、慰霊碑などを回りましたが、
予定の場所を回り終わって、祈念館を後に船に戻るまでに
少し時間があったので、希望者が、その2箇所に連れて行ってもらい
ました。
鯰江議員と一木議員のお二人も一緒で、他の場所のように、
自衛隊の方が、解説をしてくれました。

砲身にくらった、砲弾数は1個ではなく、砲身をかすっているもの
穴を開けたものなど、数弾があたった痕があったのには驚きました。

硫黄島に設置された砲の中でも最大級だそうです。
米軍が上陸した南海岸ではなく、北側の沿岸を向いています。
これだけ大きな砲をこの高さに設置するのも大変だったろうと
見学した皆さんと話しました。

また、この砲の近くには、いくつもの壕の入り口が
外から見て分かりやすい場所にあったのが目立ちました。

今回の硫黄島の訪問で最後に見たのが、この大阪山砲台でした。

実は、私は、その前の日にも、一人で、この砲のところに
行って、少しですが、見ていました。
なぜ、一人で行ったのかは、次回。

生前、母はよく、「元山から、大阪山を越えて ”あずま” の、
親戚の家に行ったのを覚えている。」と、言っていました。
私は、「地図によると、”あずま” という名はないよ。
そう、呼んでいたのかもしれないけれど、”あずまやま(東山)”
のことだと思う。」と、伝えました。

祖父の兄弟は、元山ではなく、別のにそれぞれ分かれて住んでいたそうです。

地図によりますと、
東山(あずまやま)だった場所が、旧島民墓地平和祈念公園のあたり
のようです。

砲身の弾痕の写真です。
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旧島民墓地

2008年07月09日 | 硫黄島・小笠原村
硫黄島での1日目は、午前中が、慰霊祭式典への参加で、
午後は、旧在住場所ごとのグループに分かれての、
「里帰り」です。

昨年は、戦前の繁華街で人口が一番多かった、元山集落の人は、
私と、もうお一人の二人でした。
今年も少なくて、うち(三人)以外に、二世帯三名の、
合計三世帯六人でした。

戦前の集落は、空港になってしまっていますので、近くの硫黄ヶ丘を
見て、往時を偲ぶぐらいしか、することがありません。
二日目にも硫黄ヶ丘には寄るのは知っていましたが、
舟見岩に登ったりして、過ごしました。

昨年は、その後で、滑走路沿いを歩いて天山記念碑まで
もう一人の方と同行の村役場職員の方と三人で行ったのですが、
今年の、同行者は、徒歩が苦手(好きでない)でしたし、
天山も二日目に行きますので、里帰りの私達用の巡回バスに乗り、
他の皆さんと、祈念館に戻りました。
同行者二人と私とは、祈念館を通り過ぎて近くの
慰霊祭があった旧島民墓地平和祈念公園まで、もう一度、
バスに乗せていってもらい行きました。

式典で使った、テントや椅子などの片付けがちょうど終わったところで、
数台のトラックで、自衛隊の方々が、運び出すところでした。
式典に参加した方々がいない静かになった島民墓地で、
ゆっくりとお祈りをしました。

母島と父島の中学生の方が、献花台に捧げて下さった、
千羽鶴は、旧島民墓地の墓碑の両側に、架けてもらっていました。
千羽鶴二つのバランスが、写真のように、とても良かったです。

この墓碑の近くに古い、灰色の軍属で残り硫黄島で戦没した
82人の名前の碑のオリジナルがあります。古いので
名前は読みにくいです。
もっと、入り口に近い場所には、同じ82人の
もっと大きい黒い石の碑を後から立ててもらっています。

慰霊祭のための設営と片付け、運搬をして下さった皆様、
ありがとうございました。

この後、さらにもう一度、同じ日に三度目の、
この旧島民墓地平和祈念公園に行きました。
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