OUR HOME ISLAND - いおうとう(硫黄島)

戦前に在住していた島民が、戦後の小笠原返還後も故郷に帰ることが許されていない硫黄島についての情報発信をいたします。

初フルマラソン挑戦、完走の報告

2009年09月27日 | ランニング
9月26日(土)、3時起床、4時台の電車に乗り込んで、会場に6時頃到着、午前7時スタートの「第15回小金井公園5時間走フルマラソン大会」のフルマラソンの部に
出て、完走しました。
初のフルマラソンのタイムは、4時間6分2秒でした。

公園内の1周5キロのコースを8周と、スタートとゴール部分というフルマラソンコースでした。公園内でカーブが多くてかなり入り組んでいた点では、横田駅伝の5キロと似ているコース作りだなと思いましたが、緑が多くて、とても気持良く走れる景色が良いので周回でも飽きないコースでした。ただし、後半ばててくると、1週がとても長く感じられました。アップダウンもほとんどなくて、1箇所短いなだらかな下りと、もっと短いやや斜度のある、50メートルもないぐらいの上りがあるだけでした。

1周に2箇所、給水があって、スタート、ゴール地点に近い方(以下、エイド)と、水を出してくれる場所がありました。
エイドが充実していて、水に、薄めたポカリスエット(粉末から作ってくれていたと思います。ポカリスエット、アクエリアスのペットボトル市販のものは、そのままではランナーには濃すぎて咽る原因にもなるので、薄めて飲むのが良いとされています。ちょうど良い濃さでした。)以外に、1時間経過の8時からは、バナナ、キャンディー(「いちごみるく」でした。これには助けられました。)、その後、あんぱん、バームクーヘン、梨、レモンなども登場、という豪華さでした。ボランティアの皆様、本当にありがとうございました。

最初の5キロが終わってのエイドまでは、「4時間完走ペースメーカー」の方がひっぱってくれていた一団で走りましたが、エイドに人が集中して時間がかかっている間に、先に飛び出てしまいました。

気温も上がらず、足脚腰の調子も思ったより良い感じで、ペース良く走れてしまったので、5キロ26分台のペースで25キロまで行ってしまいました。
公園正面の長い直線の後半、27キロ地点で前触れもなく、左大腿裏(ハムストリングス)が攣りました。急いで止まったら、右のふくらはぎも攣りました。脂汗が出ましたが、10秒ほど止まって、ストレッチをしてどうにか、痙攣はおさまりました。そこからは、何とか攣らないようにという恐怖と、じわじわ増してくる疲労によるばてとの闘いでした。それでも、30キロまでの5キロは30分2秒、35キロまでの5キロも31分30秒でしたので、残りをキロ7分ペースで走れば余裕で4時間を切れるペースでした。 が、やはり、35キロ過ぎにペースダウン(世間で言われているとおりでした。)、35キロ過ぎのエイドで、4時間ペースメーカーさん集団に抜かれて、40キロ地点からゴールまでのラストは17分もかかってしまいました。

それでも完走できたのは、エイドのおかげでした。給水と食べ物以外に「掛け水」を用意して下さっていたのです。大きなビニールプールに大量の水とたくさんのスポンジ、攣った次のエイドから、両足に大量に水をまぶして走りました。さらに大きな氷の浮いたバケツと手桶、最後近くのエイドでは、手桶で脚全体に冷水をじゃぶじゃぶかけました。この、「掛け水」を用意してもらっていなかったら、きっと、何度も、「攣っては止まっての繰り返し」だったはずだと思います。ピクピクはしてましてが、止まってストレッチしたのは27キロ地点の最初の痙攣だけだったので、何度も歩くようなことがなく、完走できました。

25キロまでは、快調なペースで気持よく走れて、35キロからは、「いつまでたったら、5キロラップのストップウォッチを押せるのだろうか。」という辛さでした。これまでの練習で走った距離も33.6キロが最高でしたが、フルマラソンを走り終えることができました。

振り返ってみると、ご指導くださっているトップギアのコーチ陣に、いつも言われている、「今後の10キロ、ハーフ、フルに挑戦する時もおそらく、前半つっこんで後半ばてる走りをするタイプだろうが、ラストでスピードアップできるペース配分にできるように気をつけて。」というアドバイスの、コーチの皆さんの予想したとおりの、「いつもどおりのペース配分でラストばてばて」の走りになってしまいました。ずっと、4時間ペース集団に入れば、ラストまで痙攣や疲労によるスピードダウンがなくもったのかどうか、ラスト、上げられたのかどうかは分かりません。
5キロ26分台ペースで行ってもラストでスピードアップできる地力(筋力、持久力、心肺能力)をつけられるようなトレーニングができれば、もっと、いいのに、と思いました。

本当にすばらしい大会で、来年もまた、ぜひ出たいと思いました。気温、湿度も絶好のコンディションでした。


青い硫黄島のキャップをかぶって走りました。


写真は今月11日の日帰り墓参帰島の時に撮影した、硫黄島貨物廠跡近くのがじゅまるの木です。小金井公園にはカメラをもって行くのを忘れてしまって記事の内容に関係のない写真ですいません。小金井公園には、また、花がきれいな季節に遊びに行きたいと思います。




フルマラソン翌日の9月27日(日)には、川崎市古市場トラックがスタート、ゴールで多摩川河川敷コースを会場とする、月例川崎マラソンに行ってきました。以前から知り合いから勧められていましたが、別の知人の「ランニング大会デビュー」で、「1キロ6分ペース、10キロ1時間」のペースメーカーを依頼されました。

10キロは9:30スタートで、スタート直後に陽射しが出て暑くなりました。筋肉痛が残っていましたが、キロ6分のペースでは走れるところまで回復していました。「依頼人」のペースは、上がったり下がったり一定ではありませんでしたが、1キロごと表示の無いコースでしたが、運にもめぐまれて、無事に、10キロを59分50秒台でゴールさせることができました。

同じコースの同じ場所は、昨年の、川崎国際多摩川マラソン(ハーフ)、今年4月のパラカップ2009ハーフに続いて3度目、同じコースの別の丸子橋-二子橋間は、昨年の12月の区民ロードレースでも走っています。今年も、11月15日の川崎国際多摩川マラソンで走る予定です。細かい砂が気になるコースの川崎月例10キロは、多摩川大橋と新幹線橋の間に三つの折り返し点がある設定でした。コースとフォームを確認しながら、前日のフルマラソンのリハビリができたので良かったです。
貴重品預かりサービスがあったのが良かったですし、伝統のある月例ですので運営もしっかりしていました。多くの皆さんが、3キロ、5キロ、10キロとも走っているのにびっくりしました。5キロを22分で走ったとして、8分後には10キロのスタートなのですから、5キロでばてていたら、まだ、脚もパンパンで呼吸がやっと戻ったぐらいの時間に10キロスタートするのですから、すごい人たちだと思いました。

前にこのブログに、今年の秋に「フルマラソン(小金井公園と11月1日の静岡県島田大井川)二つと、11月15日の川崎国際多摩川(ハーフ)とフル、フル、ハーフと
申込み登録をしたという記事で、「人気大会(特に東京マラソン)に、あまりに人が集まり過ぎではないか。探せば、いろいろな良い大会があるのに。東京マラソンなど人気大会ばかりに申込み殺到し過ぎだと思う。」という内容のことを書きましたが、今回、手作り色が強く、地元の走友会、クラブの主催で、多くの地元ボランティアの方々のご協力で運営されている大会に二日続けて出場して、ますます、「探せば、地味でも、すばらしいランニング経験ができる大会が多い。」という前に書いた意見を再確認できました。

多くの出会いがあった、今年4月開催のパラカップ2009も、主催団体は国際支援活動をなさっている複数団体の人を中心とするボランティア・スタッフの方々という、規模は大きいですが、手作り色の強い大会でした。
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擂鉢山の山頂の様子 今年の6月訪問の時から変わった点

2009年09月19日 | 硫黄島・小笠原村
6月に小笠原丸で父島経由で慰霊墓参に硫黄島を訪ねて、9月11日(金)に入間基地から日帰りで慰霊墓参に行きましたので、今年は2回、硫黄島に行きました。年に二回訪島は初めてです。

3ヶ月弱の間に、擂鉢山で、様子が変わっている部分がありました。アメリカ軍の記念碑の様子です。

記念碑がすっきりしました。
変わった点は、前回訪問の時までは、碑の左右にドッサリと、詰まれるように掛けられてあった銀の金属が、碑の前面の左右に、掛ける場所新設されてそちらに移されていたことでした。かなり、白い碑が、これですっきりした印象になったと思います。

あの銀色の金属版が鎖につながれた物が、アメリカからの訪問の人が「この慰霊碑に来たこと」を示すためにかけていったものであることは知っていましたし、軍人の認識の札のようなものであることも知っていました。
同じような形状のお土産品を買ったこともありました。

が、「あの楕円形というか小判形というか、小プレートは何と呼ばれる物か。」がすぐに分かりませんでしたので、調べてみましたところ、日本語では「認識票」、英語では Identification Tag(アイデンティフィケーション・タグ)と呼ばれるものだと分かりました。
各国のそれぞれの時代の軍に、形状やデザインの差がありますが、認識票があって、通称では、ドッグ・タグ ( Dog Tag )と呼ばれているようです。

これまでのこの記念碑には、多くの認識票(ドッグ・タグ)が無造作に置かれたり
左右端に掛けられたりし、雑然とした感じでした。 この碑に訪問したアメリカの人が掛けたものですが、一人の軍人に一つしかない認識票を、ある退役軍人の人は、たとえば、いくつかの慰霊の碑や墓地公園を訪問するでとして、いくつもの場所には置けないのですから、硫黄島との縁が強い人が置いたものだと思います。硫黄島戦に参加して生還した退役軍人とか、硫黄島で犠牲になった兵士の兄弟など肉親の人とかが残したものではないでしょうか。
雑然としていたのが、このようにすっきりとなったのは、最近のことだと思いますので、この写真は、「特ダネ写真」かもしれないと思います。

2009年9月11日の慰霊墓参訪問で、擂鉢山の、ドッグタグを掛ける場所が新たに前面に設置されたアメリカ軍の記念碑です。


入間基地から硫黄島への自衛隊輸送機での日帰り墓参は、自衛隊の輸送の仕組みをご提供いただいて実施されているものですので、通常の航空機便のようなチケットもチェックインもありません。チェックインにあたるのは、機内で首からかける認識票の受け取りです。この認識票はアメリカの軍の物のような銀色の金属ではなく、鎖部分は似ていますが、番号が書いてある白いプラスチックがついているものです。着陸後に機体が止まるまでの時間に回収されます。
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硫黄島は特攻隊が出撃した島でもあります。

2009年09月18日 | 硫黄島・小笠原村
特攻隊、特別攻撃隊による作戦を、皆さんご存知だと思いますし、多くの方が、「特攻隊出撃」で、鹿児島県の知覧を思い起こされることと思います。

硫黄島からも特攻隊による特攻作戦攻撃の出撃があったことはあまり知られていないと思います。

隊の名前は、第一御楯特別攻撃隊と、第二御楯特別攻撃隊です。この二つ隊の慰霊碑が擂鉢山山頂に建立されているのは、何度も写真に撮影をしていましたし、この写真の建物も何度も見て写真を撮っていました。

今回の9月の訪問で、随行してくださった自衛隊員の方に詳しく解説していただくまでは、硫黄島と特攻作戦とを結びつけて思い起こすことはなく、両隊の名前を知っている程度でした。

硫黄島と戦争を思い起こす時には、米軍による上陸作戦に対する激烈を極めた守備隊攻防戦が、あまりに特別な戦いで、思い起こされるために、本当でしたら人々の記憶に強く残るはずの「特攻隊が硫黄島から出撃した。」ことが、語られたり思い起こされたりすることは、非常にまれだと思います。

この写真の建物後は、一部くずれていますが、がっちりした造りの外観を今も留めています。
私どもの慰霊墓参訪島の時に、昼食休憩をしたり、自衛隊の売店や隊員向け理髪店などがある厚生館(戦前の南部落の中心地)から、海側にゆるい坂を30メートルも下るとこの建物があります。必ず休憩を取る場所からあまりにも近いために、建物と碑文があることは知っていても、あまり意識することがありませんでした。

特攻出撃前夜の作戦会議が行われたのがこの建物だそうです。明日には片道燃料で飛び立つ隊員たちがいらっしゃった建物が、今もこのように残っています。

硫黄島は日米両軍にとって戦略上、非常に重要な位置にあり、上陸米軍と迎撃日本軍との激戦の前に、特攻出撃という、太平洋戦争でも特殊な作戦の拠点であったことも記憶にとどめ、慰霊と平和祈念の気持をさらに強く持ちたいと思いました。

米軍大規模上陸作戦より前の、まだ、住民が住んでいる時に、米軍艦隊から艦砲射撃があったことは、戦前に子供だった、私の母や親類もよく覚えているそうで、話を聞くことが多いです。
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粟津壕 入り口 訂正

2009年09月17日 | 硫黄島・小笠原村
写真が、鎮魂の丘から少し下った道を入った場所にある、粟津壕の入り口のうちの一つの写真です。9月11日の日帰り慰霊墓参で撮影しました。この近辺は、硫黄島戦の中でも、最大の激戦地に近い場所の一つだそうです。

以前の記事で、正しくは「天山壕入り口」の写真を、取り違えて、「粟津壕入り口」としてしまっていたものがありました。ミスがありましたことを、お詫び申しあげます。

8月26日に投稿の記事「「島民の集い」の日が近づいてきました。」の写真が、
「天山壕入り口」写真でしたが、「粟津壕入り口」としていたものを、訂正いたしました。


粟津壕の入り口の写真を撮影したのは、これまでの訪問の中で初めてでした。
どの壕も複雑に入り組んであって、出入り口が複数あったりします。

鎮魂の丘については、一昨年に「供物を捧げないのはなぜか。」という内容の記事を載せましたし、写真もこれまでに多く載せています。



「天山壕」と「粟津壕」の取り違えている記事が昨年のものとかでもあるかどうか、調べて、訂正するようにいたします。
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硫黄島運航隊の建物のメジロ

2009年09月16日 | 硫黄島・小笠原村
9月11日(金)の、入間基地から自衛隊輸送機での日帰り慰霊墓参帰島で、輸送機が硫黄島空港に着陸後、すぐに入った建物が、「硫黄島運航隊」と表示板がある
建物でした。3年前の輸送機日帰り墓参に参加の時には、この建物に入ったかどうか覚えていません。徒歩で厚生館か別の航空自衛隊で「入島確認手続き」をしたのだったかもしれません。

写真は、その建物にある観葉植物に、外から飛んできたメジロが飛んできて止まった様子です。
大きさや色などが、こちらで見るのと違う動植物が多い(黄色みがかった巨大むかでなど)硫黄島で、普通の生物を見ると、何となく安心します。

が、外から飛んできて人がいる屋内の観葉植物の枝に止まって羽を休めるメジロ、という光景は、「あまり、こちらでは見ないなぁ。」と思いました。


島のいたるところにネコがいるのが、目につきました。
6月に行った時にもネコは見ていますので知ってましたが、多くのネコは、丸々と太っています。同行して解説をしてくださった自衛隊の方の説明によれば、「ネコたちは、ネズミや、鳥を捕食していると思われます。この島の鳥は、他に天敵がいないために、警戒心が弱いので、ネコが取りやすいのでしょう。」とのことでした。

祈念館(小笠原丸での訪島では宿泊する施設)にいた黒ネコだけは、やせ細っていました。出産直後らしく近くにやせた子猫もいました。

私の推測ですが、祈念館には、「訪問者が宿泊に来る以外にも、設備保全などの作業などの用事で、硫黄島に駐在している人たちが来ることが多いので、どなたかから餌をもらうことを覚えてしまったのかもしれない。一度、楽な餌をもらうことを覚えてしまったネコは、近くに、取りやすい獲物がいても、面倒くさがって、餌を獲らなくなったためにやせたのかもしれないな。」と思いました。

あくまでも、私がそう思っただけですが、「飼いならされると自分で餌を獲らなくなり、生存競争でのパワーが落ちる。」というのは自然界全般、その自然界の一部とも考えられる私ども人間の社会生活にもあてはまると、思いました。


このメジロは、数メートル先のもう一本の観葉植物の枝に飛んで休んでから、やがて、また飛び立っていきました。


今回の硫黄島慰霊墓参は、東京都職員の方や、同行してくださった医師と看護士のお二方や、入間基地と硫黄島の自衛隊の方々、父島の小笠原村約場から来て下さった職員の方など、大勢の方のご支援とご協力があって、実現した訪島でした。
皆様、本当にありがとうございました。
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第38回「硫黄島島民の集い」での 平和への祈りをこめた 献鶴

2009年09月15日 | 硫黄島・小笠原村
今年の「硫黄島島民の集い」では、参加者の席に、開場前に、折鶴を置いて下さっていました。

昨年の集いで、初めて開場中央に設置してもらった、当時の島の模型の横の籠に、
テーブル番号1番の席のメンバーから順番に、「献鶴」をして、平和を祈るという
趣向でした。

「島に帰ろう!」という思いの私たち島民一同ですが、82人という若い尊い命が、戦前に在住していた島民で軍属として残って犠牲になりました。残って犠牲になった親類たち、兄弟だったり父親だったりに、参加メンバーは思いを寄せているとともに、「戦後、戻ることができない故郷の島」が、特別な激戦の島となり日米両軍の多くの兵士の命が失われた島であることも、決して忘れることはできません。

幹事の皆様が、「献鶴」という素晴らしいアイディアを出して下さったことに本当に感謝いたします。
6月の慰霊墓参では、上陸をして最初に、平和祈念旧島民墓地公園で慰霊祭が行われます。その時に、全員で、献花をしますが、それを模して、「鶴」を用意して下さいました。硫黄島での献花の時のように、鶴を籠に入れながら手を合わせて平和を祈りました。私たちの平和祈念の思いが届き、尊い命が失われる戦争がなくなりますようにと、心から祈りたいと思います。

この写真で鶴を入れる籠がある位置が、小笠原丸から上陸する釜岩の付近です。
平和祈念旧島民墓地公園から、私たちが宿泊できる平和祈念館にかけてが手前側です。

写真左側が、学校、村役場、警察署、太平館(旅館)などがあった、元山部落一帯です。

この模型初登場だった昨年は、「自分の家の場所に、名前の札を立てよう」という趣向で、「ここだろうか、あそこだろうか。」と、皆で場所を迷っていましたが
今年は、あらかじめ、分かる限りの正確な位置に、名前の札を立てて下さっていたようでした。
6月に、元山出身の皆さんのおかげで再確認することができた位置関係、お豆腐やさんと、魚屋(雑貨なども扱っていた祖父母宅、母の生家)が隣同士で、立ててありました。船見岩にあった、当時の船の入港を知らせる半鐘も、船見岩がある硫黄ヶ丘のあたりに立ててもらっているのが写っています。

アウトリガー模型がある場所から写真右側にかけてが、米軍が上陸した、鶉石がある海岸で、この写真の右端写っていないところが擂鉢山という位置関係です。
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第38回「硫黄島島民の集い」(2009年9月13日)に参加しました。

2009年09月14日 | 硫黄島・小笠原村
川崎で開催の第38回「硫黄島島民の集い」に参加しました。

今年は系図で祖父からの直系のグループでは私ども家族だけの参加と少なかったですが、曽祖父からの家系ツリーの中という範囲に広げると、大勢の親類が参加していました。

また、6月(小笠原丸)、9月11日(金)(入間から日帰り)の、小笠原村主催と東京都主催の両方の慰霊墓参で硫黄島に行ったこともあって、例年よりも多くの皆さんに、お声がけいただいたり、ご挨拶をさせていただいたり、参加者の大勢の方と話をすることができました。

「集い」にも、一時期出ていなかったことがありましあが、ここ数年は続けて参加させていただいています。「続けて、皆で集まり続けること。その場に顔を出し続けること。」が、どれだけ大事かを、実感できた今年の「島民の集い」への参加でした。

戦前に硫黄島在住だった大先輩世代の方々が、踊りや、マジックなどを披露してくれたりしました。


例年どおり、会長と幹事の皆様が、手間隙をかけて準備と当日の進行をして下さいました。本当にありがとうございました。

「硫黄島(しま)へ帰ろう!」が、テーマだった今年の集いでは、中央に昨年からお目見えした島の模型が置かれ、舞台上部からは五色のテープを伸ばしてくれているという演出でした。

最後には、この写真の下の舞台に有志一同が上がって、会場全体で「故郷の廃家」を合唱しました。
これも、毎年、どんどん、私たちの合唱のレベルが上がっています。リズムが外れることがなくなり、キーがばらばらということもなくなりました。幹事の方の「もっと大きな声で、もう一度、歌いましょう。」の声に対して、「もう少し、キーを上げよう。」とリコーダーを持って舞台に上がってくださっていた方が、キーの音を下さって、3度ほど一度めより高い音程で、歌いました。
会長のご子息で幹事として撮影を担当してくださっている方が、この2度目の「故郷の廃家」合唱には参加、舞台中央近くで歌っていた私の隣に来て、一緒に歌ってくださいました。
私は、2度とも、硫黄島6月の慰霊祭の時同様に、できるだけ大きい声で歌うように心がけましたが、頑張っても大きな声量が出せずに、応援で参加の、お隣の幹事の方には、はりあえませんでした。

こうして年に一度、集まって、皆に硫黄島に思いを寄せ、この曲を歌うことの意義は本当に大きいと思いました。

「父母が戦前在住」「祖父母が在住」という私のような住んだ経験はない世代から、その次の世代のメンバーの参加も目立ち、参加者の年齢の幅が広かったこともこの集いが、「世代の壁を越えて、硫黄島島民であること。硫黄島は人が住んでいた島だったことを、皆で共有して、いつまでも伝え思いを一緒にしていこう。」という観点からも、素晴らしいことだったと思います。

来年の9月第二日曜日に同じ会場で開催されることが発表され、散会となりました。参加できた充実感が大きかった今年の「硫黄島島民の集い」でした。
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硫黄島資料館に展示してある機関銃

2009年09月13日 | 硫黄島・小笠原村
2009年9月11日(金)、3年ぶりの日帰りでの硫黄島でした。
硫黄島滞在の時間は5時間近くと、前回よりやや長かったですが、それでも日帰り慰霊墓参は強行軍です。限られた時間の中で次々の回っていきます。

これまでの硫黄島訪問の中で最も天気が良く、空と海が美しいと感じましたが、
太平洋戦争での劇戦のあった特別な島への慰霊墓参ですので、戦争について考えささせられながらの行程でした。

この写真は、小笠原丸で行く時にも昼食場所となる厚生館のすぐ後側にある建物資料館に展示されている、粟津壕で発見させた機関銃です。
資料館見学はこれで3度目でした。
昼食後の集合までの時間に、初めての硫黄島訪問だった従兄弟の長男と、一緒に見学をしました。

広い建物ではありませんが、資料館には、発見された様々な資料、遺品などが展示されています。


・お詫び訂正
また、前の投稿記事の記述ミスのお詫びです。申し訳ございません。過去の時期については、追って、訂正いたしますが、先にミスの内容をお知らせいたします。
「天山慰霊碑から下りた壕の入り口」を「粟津壕」と、間違えて書いてしまっていましたが、正しくは、粟津壕は「鎮魂の丘」の近くに複数箇所の入り口がある壕です。天山慰霊碑の下の壕は、粟津壕ではなく、天山壕です。

本日、9月13日には、「硫黄島島民の集い」が開催されます。1年ぶりお会いする皆さんも大勢いますので、楽しみです。
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2009年 9月11日 硫黄島日帰り墓参の報告写真第一弾

2009年09月12日 | 硫黄島・小笠原村
2009年9月11日(金)に、入間基地から自衛隊の輸送機で硫黄島に日帰り慰霊墓参に行ってまいりました。入間からのメンバーに加えて、父島からも役場職員の方と旧島民の方がヘリコプターで参加、アナナ(前に紹介したことがある固有の果物です。)を差し入れてくれました。

気温は31度でしたがとても暑く感じました。今年の硫黄島の最高気温は31.8度だそうです。にもかかわらず、もっと高い最高気温を記録している関東に比べて、6月に行った時も、31度台とは思えないほど暑く感じるのは、本土の30倍とも言われる紫外線量のせいだと説明してもらいました。

小笠原丸でこれまでに4回、入間基地から輸送機では今回が3年ぶりの2回目で、合計6回目も硫黄島訪問でしたが、
これまでで一番、天気が良かった思います。
また、参加者に占める一族親戚(はとこが二人と従兄弟の子が一人もいました。)参加者の割合が一番高かったです。

写真は撮影したての、擂鉢山からの島全景です。このブログで紹介した写真の中にこれまで島の左右全体を1枚に撮ったものを載せたことはなかったので、これが初めてだと思います。
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2009 南島(5) シャコ貝

2009年09月11日 | 硫黄島・小笠原村
蟹を見つけて写真を撮った近く、南島の扇池の白い砂浜と海の間に、平らな岩になっている部分があって、そこで、見つけたのがこの写真の水棲生物です。

同行者が見つけて、一緒に観察しました。何だろう?
イソギンチャクの一種か、などとも思ったのですが、岩の中にいる、この生き物が何だか分かりませんでしたので、ガイドの「まりさん」を呼んで、訊いたところ、
「シャコガイ。シャコガイが岩に固定されて動けなくなってそのまま生きているという珍しい例だと思う。」と、教えてくれました。

江戸前寿司で有名な シャコ は 甲殻類で、「シャコ」(蝦蛄)。
このシャコガイは、マルスダレガイ目の二枚貝である「シャコ」(硨磲) だそうです。

移動できる二枚貝のシャコガイが、岩に取り込まれて動けなくなるケースというのがどれぐらいの珍しさなのか分かりませんが、沈水カルスト地形ということとも関係があるのかもしれない(素人の推測ですが、他の岩よりは、石灰岩質でやわらかく侵食作用などを受けやすいのかも。)のかもしれないです。

珍しい、写真であるのは間違いないと思います。



この夏に行った、伊豆下田の田牛(とうじ)の民宿「硫黄島」の、母の従兄弟は
長男で、その末弟が、水棲生物の研究者で、親戚連中では「博士」と、呼ばれていました。(若くしてなくなりました。)
民宿「硫黄島」の初代女将から、その「博士」と私が似ている、と言われました。子供の頃に会った記憶がありましたが、額が広い、いかにも研究者というような風貌の人でした。

早起きして、本日は、「稲荷山公園駅」集合で、入間基地から、硫黄島に日帰りで、行ってきます。
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