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OUR HOME ISLAND - いおうとう(硫黄島)

戦前に在住していた島民が、戦後の小笠原返還後も故郷に帰ることが許されていない硫黄島についての情報発信をいたします。

昨年と今年との違い 天山壕の入口

2008年09月25日 | 硫黄島・小笠原村
昨年も、同じこの天山壕の入口の場所に行きました。

天山慰霊碑の 手前の左側に
手すりがあって整備されたコンクリートの階段に
なっていて、それを下りた場所。

昨年は入口に近づくと
激しく白い水蒸気が出ていて、
熱と蒸気とで、あまり
近づけませんでしたが、
今年は、水蒸気がなくて壕の入り口の
写真を撮影することができました。

天山付近は、地熱が高く、活動が活発になってきている
場所のようです。
戦争の時にも、この壕のあたりが
同じような地熱が高い場所だったかは、分かりませんが、
兵士の人が入っていたのですから、
昨年のような、蒸気が出続けているような
状況ではなかったと思います。

手もとにある小笠原村発行のパンフレットの
天山慰霊碑の紹介の部分には、
「海軍北地区の指揮所であり、最後の拠点として組織的戦闘が
行われた天山壕の上に造られて」と、あります。
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天山慰霊碑 2008年

2008年09月24日 | 硫黄島・小笠原村
天山慰霊碑、正式名称は「硫黄島戦没者の碑」についても、
昨年の6月の訪問の時に撮影した写真で、そのユニークな
形についても紹介させていただきました。
(2007年7月投稿)

今年、案内をして下さった自衛隊の方の解説を聞いて、
初めて知ったことは、
この碑の土台部分のまわりに砂利がの部分があるのですが、
ある場所だけ、熱が高くて、
碑に水をかけると、その部分だけが、水蒸気を出すということでした。

これまで、知りませんでしたが、
確かに、この写真の部分、その1箇所だけが熱が高いことが分かりました。
正面側から見て、奥側の左の角の部分です。

どうしてその部分だけが熱が高いのかは不思議だとは思いましたが、
この辺りは地熱が高い場所ですので、
説明がつく範囲内の「不思議現象」だ、と思いました。
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硫黄島の隆起の速さを示すもの 2008年

2008年09月23日 | 硫黄島・小笠原村
鶉石がある、米軍が上陸した南海岸の写真です。

昨年も、この地点の岩の写真を紹介して、
「以前は、海から先が見えていたのが
全体が見えることからも、島が隆起していることが分かる。」という
内容を紹介いたしました。

同じ位置、同じ潮の干満、同じズーム、角度で撮影しないと
昨年の写真と比べて、
より、隆起したかどうかは、分かりませんでした。

小笠原丸係留場所の正面にあるコンクリート船も
観察しましたが、「明らかに一年で、隆起したと分かるぐらい
上がっている」とは、思いませんでした。

昨年の6月は、
雨の後で、一部、道が横に筋が入ったような陥没があって、
車では通れなくなっていて、車は海岸入り口の上側までで、
歩いて往復をしましたが、今年は、下まで車が通ることができました。

いずれにしましても、
一年で、明らかに違うと、実感できる速度の隆起では
ないにしても、海岸は毎年、隆起で面積を増やしているのは
確かなようです。
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戦前の元山部落のあたり

2008年09月23日 | 硫黄島・小笠原村
南北の道路が空港周回道路にぶつかる手前の地点から
撮影したものです。

空港の手前側は、このように道の両側が森です。

向こう側に移っている建物群より手前側に
滑走路があります。


このあたりが、向かって右側が村役場のあった場所で、
左側の少し後ろぐらいが、学校、さらに戻った地点に
硫黄島神社があります。

この撮影地点から右側に舗装されていない両側が同じような森の
道が、硫黄ヶ丘入り口まで通じています。

最初に硫黄島を訪れた時から、このあたりの
森(主に銀ネムの木です。)の中に分け入っていますが、
建物の跡らしき石などは、木々の中にあります。

この写真を撮影しているあたりから、向こう側が
元山だったことは確かのようです。
太平館だった場所も、この写真の正面の方角です。
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厚生館に展示の「戦前硫黄島地図と現況重ね」の全体

2008年09月20日 | 硫黄島・小笠原村
硫黄島の模型、の全体を撮影してきた写真です。

昨年の6月に訪問した時点では、
擂鉢山山頂に展示してくれていました。完成間近という
段階だったのだと思います。
その後に、いろいろと、付け加えて、
完成したものが、今、厚生館に展示されている
この模型です。
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硫黄島島民の集い 硫黄島模型 「うちはどこ?」の続き(2)現在の地図

2008年09月20日 | 硫黄島・小笠原村
硫黄ヶ丘周辺で、墓参訪島の1日目の、式典終了後は、それぞれが「出身集落を訪ねる」帰りの時間 です。

元山は、見る場所が少なく、自分の家の会った場所が現在の空港ということで、
昨年は、滑走路横の道を徒歩で天山慰霊碑まで行きました。父島の職員の方を含めて3人でした。

今年は、7人で、上った船見岩からレモングラス自生している方の下りたり
硫黄ヶ丘周辺を時間をかけて散策しました。それでも時間がかかりますので、
南北道路まで戻った箇所で、巡回して下さっているバスを、職員の方がトランシーバで呼んでくれたのを待って、宿泊場所である祈念館に戻りました。

この地図は、Google Earthをダウンロード
http://earth.google.com/intl/ja/tour/thanks-win-updater.html
して、
硫黄島を中心に拡大していき、目印を追加したものです。

「その地点から南側、滑走路の方向を見て、どのあたりだったのだろう?」
と思う時に、

「皆さんの話や、見せてもらった昔の地図だと、元山と南とは
そんなに近くはなく、くっついていたというような距離ではない。」
「この位置から、自衛隊の建物群が見える。厚生館の位置も分かる。
あの厚生館のある場所は、戦前の南に住んでいた人の家だった場所。
南の当時の古い地図は見せてもらった。」
「ここから滑走路越しに見ると、現在の厚生館、昔の南は、目と鼻の先に
見える。すぐ目の前が南  元山の人家があった場所が滑走路の中
 という 話だと、矛盾するのではないか? もっと、南まで離れて
いないといけないはず。 ということは  元山市街地が
現在の滑走路ではなく、もっと北、滑走路から外れた森の方出ないと、話が合わないのでは 」 と思いました。

以前、いただいた、小笠原村発行のパンフレットにも、現在の地図が掲載されています。
そして、Google Earthの地図を見て、あらためて、気が付いたのは、
あの地点から平らな滑走路越しに、南の自衛隊施設群を見ると、
すぐ目の前にあるように見えますが、上空から見ると、相当な距離、
やっぱり、1キロ近くは離れていることが、分かってしまいました。

聞いていた話の、元山と南の距離の話と一致してしまいます。
やっぱり、皆さんというとおり、
そして、模型「戦前硫黄島地図と現況重ね」が示しているとおり、
太平館や元山の商店・家は、やっぱり、今の滑走路の中  
ということのようです。

自分の祖父母が商店を営んでいて、母たちが生まれ育った家

戦前在住だった方は自分が住んでいた家

への、それがあった場所への こだわり、執着は、
帰って住むことが少なくめったに行くことができない島だけに
大きくなります。
家があった島に帰ってきていて、家があった近くにいているのですが、
家のあった場所は正確な位置は分からず、そこは、入ることができない、
自衛隊機や米軍機訓練離発着がある空港らしい。

他の出身の方は、 およその場所は特定できても家があった場所までは
探せない方、家のあった場所が現在の自衛隊の建物になっている方など
さまざまですが、「入ることができない場所」ではありません。

戦前の中心で最大人口だった元山からの硫黄島訪問への参加者は
昨年は、たった二人でした。今年は、6人と、それでも戦前の人口から
すると訪問する人の数が少ないです。

「ひょっとすると森の中なら、礎石のような、家の痕跡は探せるかもしれない」
という、薄い期待も持ちながら、
「あのあたりが、魚屋やっていて母が生まれた家ということらしい。」と
滑走路を眺めます。
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硫黄島島民の集い 「うちはどこ?」の続き 硫黄島の模型の元山部落

2008年09月20日 | 硫黄島・小笠原村
この写真は、今年の6月に、厚生館に
設置してあるのを撮影した硫黄島にある模型
「硫黄島戦前地図と現況重ね」の元山の辺りです。

昨年の6月の訪問の時には、擂鉢山山頂に置いて下さっていた段階で撮った写真
を紹介いたしました。

この模型の方には、主な建物も再現してくれていて、
学校、村役場、旅館の太平館 などが、あります。

白い滑走路は現在のもので、南北に平行にある(左右に伸びている)内の
南側の滑走路の白い場所にある建物が太平館です。

太平館から斜め左上に向かっている道沿いに「魚屋さん」と、呼ばれていた店舗でもあった祖父宅があったそうです。

太平館から北に向かって工場、村役場、大正小学校と、
建物が並んでいます。 村役場と小学校は現在の滑走路にかかっていない
北側にあります。

村役場を左側、小学校を右側にして、南北にこの模型にはない、
現在の道路が通っています。その南北の道から、左に入る道が
滑走路と平行に北側に出ていて、その道の突き当たりが、
硫黄ヶ丘の入り口部分になっています。

村役場や小学校よりは、祖父の店・家は南西にあったようです。
やはり、この模型でも、小学校がギリギリで滑走路にかかっていないので、
それより南だった場所は、「現在は滑走路になってしまっている」場所
ということになります。

現在の南北の道は滑走路にぶつかると右側に折れて滑走路に沿って、空港を
半周しています。

昨年の6月には、その道を歩いて東に向かってからから、空港の東端で
北側に向かって曲がり、天山慰霊碑まで、徒歩で行きました。

南北の道が滑走路にぶつかり右に折れる地点に、立て看板がありました。
「滑走路に物を投げないように」と、書いてありました。

「こんな場所に、来る人は、限られているだろうから、
ものを投げる人もいないだろうから、誰向けの注意なのだろうか?」と
不思議でした。

空港と周辺との間には、
立て看板のところを、そのまま、まっすぐ進めば
滑走路で、塀や有刺鉄線などへ出てている物はありません。

そこから滑走路とその向こう側の厚生館などの現在の自衛隊の
建物群を見ながら、
「どのあたりが、家だったのだろうか?」と、
この地点に来ると、「今の滑走路の中なのか、
このあたりの、ギリギリで滑走路にかかっていない北側の森の中
かもしれない。」と思ってしまいます。
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硫黄島島民の集い 今年も「故郷の廃家」を皆で歌いました。今年は2回歌いました。

2008年09月19日 | 硫黄島・小笠原村
「集い」の締めは、恒例の、参加者による歌です。
歌詞のプリントは、開始前に席に配っていただいてあります。

赤組、白組に分かれて、有志は演壇に上がり、それ以外の皆さんは
席で歌います。
鉢巻と赤白帽も用意してくれています。

昨年は、登壇はせずに、席にいましたが、
今年は、叔母たち、小学生の娘と壇に上がりました。

歌う曲は、
運動会の歌、赤組応援歌、白組応援歌、ふるさと、故郷の廃家 です。
歌詞のプリントを手に、上がりました。

故郷の廃家については、このブログで、
最初に昨年の訪問の式典で歌ったことを書かせていただき、
その後、昨年の「集い」、今年の6月の訪問の式典でも
歌ったと報告を書かせていただきました。

最後の部分の「ため」が難しいので、なかなか
皆が合わないことは、昨年もそうでしたので、
分かっていました。
「あれたる わがいえに」の部分の 「る」を
4分音符で5拍分伸ばすのすが、待ちきれずに
バラバラになってしまう部分が難しいところです。

硫黄島の式典の時には、しっかり覚えて下さっている
父島、母島の中学生の皆さんが歌って下さるので、
よく知らずに伸ばす箇所を待ちきれない人がいても
大きくバラバラに崩れることはありません。

今回は、「ここは、故郷の廃家 が、バラバラにずれないように
少しでも頑張ろう。できるだけの声で歌えば、少しは
早く出てしまう人がいても、何とかできるだろう。」と、
今年は壇に上がることにしました。

役員のお一人である、総合司会の方(以下、名司会役員の方)が、
リードして下さいます。

私たちは赤組に入り(たまたま席から近い方に上がった結果)
鉢巻を締めている時に、
役員の方のお一人で、赤組応援団長をつとめて下さる方が、
「故郷の廃家についてブログに書いてあるのを目にしました。」と
おっしゃるので、「それを、書いたのは私です。」と申し上げました。

故郷の廃家を歌う番が来ました。
その時に、赤組応援団長役員の方が、名司会役員の方に、
「この曲を歌うようになった経緯について、書いている参加者に
話をしてもらいましょう。」と持ちかけて下さって、
私がマイクを持たせていただきました。

準備ができていなくて、分かりにくい、下手な説明の
話になってしまいました。すいませんでした。
硫黄島に派遣された少年兵たちが歌った曲であることを
説明しました。

この歌の訳詩は、九州出身の唱歌の作詞家犬童球渓であること
も以前の記事に書いたところ、
鹿児島県在住で熊本県人吉市の犬童球渓の生家を訪ねられたというワシモ様から
コメントをいただき、ワシモ様のホームページにも、
「故郷の廃家」についての話を掲載していただきました。

(ワシモ様のホームページでは、歴史、文化、芸術、紀行文など、たくさんのコンテンツを読むことができます。また、掲示板には、いろいろな方々が、写真や記事を寄稿しています(私もその一人です。)が、ワシモ様のカバーしている範囲が広いので、様々な方が、興味深い味わいのある、写真やイラストなどを文章とともに
寄せています。 ワシモ様のホームページは、検索エンジンで、「ワシモ washimo」キーワードで検索すると、すぐに見つけれられます。)

「集い」での、故郷の廃家 のエピソードの紹介の説明の時には
ブログの記事を読んで下さってから調べて詳しくご存知の赤組応援団長役員の方
が、作曲者と訳詩者についてご質問して下さったのですが、

ブログに記事まで書いておきながら、勉強不足で知らなかった、私が
「犬童」を「いぬどう」と、言ってしまったところ、赤組応援団長役員の方が
すぐに、「いんどう」と訂正して下さいました。

犬童球渓 の縁で、ご自身のホームページにも このブログのことを
紹介して下さった、ワシモ様にも申し訳のない大失敗でした。

「故郷の廃家」を、皆で歌いましたが。
大きな声で頑張ったのですが、やはり、思っていたとおり、
長く伸ばす部分では「ため」を作りきれない人が多く、先に出てしまい、
ずれてしまいました。

名司会役員の方が、
小学生3人を真ん中に呼び集めて
まずは、「ふるさと」を
もう一度、小学生3人がマイクを持って、皆で歌いました。
こちらは、音程がむちゃくちゃなの(うちの娘。頑張っていましたが。)が
入ってしまっていたせいもあって、
リズムではなくメロディーの方がバラバラになってしまいましたが、
「92歳の方から小学生まで参加という年齢の幅の広さ」に
言及して下さる名司会ぶりに、会場は和みました。

最後に「故郷の廃家をもう一度」と、皆で歌いました。
この2度目の時には、「あれたる わがいえに」の
待ってためる部分で、名司会の役員の方が、リフレイン風に
伸ばす5拍分のところで、「あれたる」を入れて下さるという
臨機応変な対応ぶりで、1度目のようにバラバラにならずに
全員で歌うことができました。


開会の時には硫黄島で犠牲になった方への黙祷をしました。

あまりに多過ぎる貴い命が失われた悲惨な戦闘の犠牲者への
慰霊の思いで墓参帰島の式典で歌うのと同じ
この「故郷の廃家」の合唱で、楽しかった集いが、閉会となります。

年に一度、親交を深めて、自分たちが「硫黄島民であること」を
皆で確認し合う、この集いは、本当に貴重な機会であると思いました。
この「硫黄島民の集い」が、
これからも毎年ますます盛んに開催されることは、
非常に大切なことであると、思います。


写真は、希望者に配っていただいた 島唐辛子の木です。

硫黄島原産、父島育ちの木を取り寄せて下さった木だと思います。
帰ってすぐに、自宅の大きめのプランターに植え替えました。
たくさんなっている実は、硫黄島の祈念館近くの木で
摘んだ実よりも、「ふっくら」しています。


集いの会場で写真を撮影して下さっていた、 
コメントも送って下さった「硫黄島島民のつどい一役員」様から
当日の写真を送付していただきました。

その中に、
赤白帽で、マイクに向かって「ふるさと」を歌う、うちの娘
壇上のたすきを掛けた赤組応援団長役員の方と並んで鉢巻をしめた私
という写真もありました。ありがとうございました。
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硫黄島島民の集い 模型の元山部落 「うちはどこ?」

2008年09月18日 | 硫黄島・小笠原村
最初に硫黄島に行ったのが、1994年ぐらいでした。母の兄二人、母、妹の、
疎開前に島に生まれて子供時代を過ごした4人が一緒でした。

その時にも、「このあたりだったと思う。」「もっと、こっちだったような、、」と、戦前のご近所在住だった方たちとも一緒に、うろうろと、「我が家(祖父宅、母たちの生家)」を探しました。
その時には、伯父たちは、森のあたりを探していました。

その後、今年で、4回目の訪問でしたが、昨年と今年の訪問で
訪問回数が多く詳しい皆さんから、
「元山の中心、栄えていた場所は、今の空港の中」と、
教えてもらいました。

今年の「島民の集い」の会場に作って置いていただいた模型も、
昔の様子を知る人などのお話などから、手書きされた地図なども
参考にして作って下さっていると思うのですが、
かなり細かく当時の道が
再現されている精緻なものでした。

「うちはどこだったのだろう?」を
最初の訪問以来、硫黄島の現地付近(硫黄ヶ丘入り口付近)に
行っては、繰り返してきました。

祖父の名前の 幟 を用意して下さっていたのは、
会場に着いてすぐに私が、
学校、役場などの位置関係から、
「この辺りだ。」と思う場所に立てました。

「集い」で、楽しい宴会が親交している途中にも、
模型に何人かで集まっては、
「もっとこっち。いやあっち。」と盛り上がりました。
まるで、最初に伯父、叔母、母たちと
現地を訪問して、戦前とは変わってしまった場所で
探しまわった時のことを思い出しました。

村役場、学校、などの主要な場所は、最初から
模型に表示を立てて下さっていました。


会の途中で、模型の場所で、
戦前の硫黄島に一軒あった旅館の太平館のご主人
(正確には、年齢から、旅館だった太平館「ご主人」であったはずが
ありません。おじい様か、お父様が「ご主人」だった「旅館のご子息」)
が、「警察の場所は、学校と村役場との位置関係からは、もっと、
右だった。」と教えて下さったので、私が、表示場所を
変えてしまいました。

そして、「太平館ご子息」に、「我が家」の場所を質問して
教えていただいた結果で、会場に最初に着いた時に
私が立てた場所より、左に、祖父の名の 幟 を
変えて、私の「元山の「我が家の場所特定」」を
完成させたのが、この写真です。

結果、かなり舟見岩に近くなりました。
現地で、昨年と今年、
「空港になっていると教えてもらってもどうも、諦められない。
ぎりぎり、滑走路から外れた現在の森のこの辺りだったのではない
だろうか。」と、
思いながら、歩き回りました。 

皆さんが教えて下さったとおり「今の空港」で
滑走路にかかってしまっていたとしても、
旅館太平館のあった場所よりは北側で、村役場に近い場所で
あったのは確かなようです。
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2008年 硫黄島島民の集い 硫黄島の模型の展示

2008年09月17日 | 硫黄島・小笠原村
昨年は硫黄島の擂鉢山にあった
戦前の硫黄島の様子を復元した模型が、今年の6月に訪問した時には、
場所を移して、厚生館の中に展示したありました。

硫黄島にある模型を、ひとまわり、小さくした
当時の様子を再現してある模型を、
「硫黄島島民の集い」会場の真ん中に作って
設置してしまう、という、大掛かりな仕掛けを
実現していただきました。

硫黄島神社の鳥居、空港、当時の道、舟見岩の上にあった
半鐘、戦闘機、など、細部にも凝って作っていただいた
模型には、驚きました。 

これを作るのに、大変な手間と時間がかかったと思います。

さらに、模型を作って置いて下さっただけではなく、
凝った演出をして下さいました。

疎開当時のごとの世帯主名の名簿を、
置いて下さっていて、
それぞれの名前が書いた、ミニ幟 を、
一つずつ丁寧に作って下さったものが、
並んでいて、下はピンになっていて
それを、自分の家のあった場所に、刺すことが
できるようにして下さっていました。

私の場合には、戦前在住の世帯主は、祖父ですので、
祖父の名前の幟を、元山に立てました。

祖父の兄弟、3人の名前の幟もありました。
3人は元山以外に在住でした。
祖父の弟は、軍属として硫黄島に残り戦没した犠牲者の
一人です。

祖父の兄の 名前の 幟 のうちの
一人の娘(祖父の姪 = 母に従姉妹)の方が
いらっしゃっていて、
その方の疎開前の幼少の頃の記憶
「監獄岩と釜岩が正面に見えて、海岸まで近かった」や、
これまで聞いていた話、
会場の大先輩の戦前の様子を覚えていて下さっている方にも
教えてもらいながら、「東山(あずまやま)」の、
祖父と同じ姓の三人の兄弟の 幟 も立てました。
現在の旧島民墓地平和祈念公園から、平和祈念館の付近です。

「大阪山を越えて、あずまやまの 伯父の家に
遊びに行った」と、生前に言っていた母の記憶とも
一致する辺りです。

写真が、島民の集い役員の方々の力作、
会場の真ん中に置いていただいた、硫黄島模型です。



【いただいたコメントへのお礼】

「サルファー」さん、「硫黄島島民のつどい一役員」さん、
本日、ブログにコメントをいただき、本当にありがとうございました。


来年も、その次の年も、皆で楽しく集まれるようにと、
本当に楽しみに思っております。

数年のブランクがあって今年出席した、私の叔母三人も
「お腹を抱えて、笑った。本当に楽しかった。」と申しておりました。

昨年の小笠原丸での墓参帰島、昨年の集い、以来、
久しぶりにお会いできた方と、楽しく、話をさせていただくことも
できました。

また、今年の墓参帰島で、一緒だった方からは、撮影した写真などを
DVDにして下さったものをいただきました。
ありがとうございました。

本当は、皆様方とは、硫黄島で、お会いしたいです。

ですが、私は昨年と今年と2年続けて行きましたが、
お仕事のご都合などで、なかなか行くことができないのが
多くの皆様の現実だと思います。行きたいと思っても
6日間にわたる墓参帰島に参加できない方が大半だと思います。

この年に一度の9月の「島民の集い」は、 
帰ることが許されていない硫黄島への
「墓参帰島事業での故郷の島訪問」を、 川崎に集まることで、補完して
皆の親交を暖め合うことができる機会を、提供して下さっていると思います。

「本当の当時の島はないけれど模型に作って下さった」こと
のように、「墓参帰島で集まること」 を 川崎で別の形で実現して
いただいているのだと思いました。


昨年の墓参帰島の帰りの小笠原丸で、
「今回、撮影をした写真などを使って、硫黄島のブログを
立ち上げようと思い立った。ホームページよりも気軽に誰でも
すぐに解説できるブログというものがある。」と、
「島民の集い」の役員でもいらっしゃる方に、伝えました。

これまで、いろいろな方にご覧いただきましたが、
今回の集いの会場では、
役員の方から「ブログでの記事を読んだ」と
声をかけていただき、
そのうえ、このように
「硫黄島島民のつどい一役員」さんと
一緒に参加していた、「サルファー」さんからも、コメントを
いただくことができました。

「島民のコミュニティーの親交と交流を、これからも活発に存続させるため、に
何かできることがないだろうか?」と、考えて始めたのが
このブログでしたので、「島民仲間」の方から
コメントをいただくことができて、本当に嬉しく思っております。

ありがとうございました。
これからも、よろしくお願い申しあげます。
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