硫黄ヶ丘周辺で、墓参訪島の1日目の、式典終了後は、それぞれが「出身集落を訪ねる」帰りの時間 です。
元山は、見る場所が少なく、自分の家の会った場所が現在の空港ということで、
昨年は、滑走路横の道を徒歩で天山慰霊碑まで行きました。父島の職員の方を含めて3人でした。
今年は、7人で、上った船見岩からレモングラス自生している方の下りたり
硫黄ヶ丘周辺を時間をかけて散策しました。それでも時間がかかりますので、
南北道路まで戻った箇所で、巡回して下さっているバスを、職員の方がトランシーバで呼んでくれたのを待って、宿泊場所である祈念館に戻りました。
この地図は、Google Earthをダウンロード
http://earth.google.com/intl/ja/tour/thanks-win-updater.html
して、
硫黄島を中心に拡大していき、目印を追加したものです。
「その地点から南側、滑走路の方向を見て、どのあたりだったのだろう?」
と思う時に、
「皆さんの話や、見せてもらった昔の地図だと、元山と南とは
そんなに近くはなく、くっついていたというような距離ではない。」
「この位置から、自衛隊の建物群が見える。厚生館の位置も分かる。
あの厚生館のある場所は、戦前の南に住んでいた人の家だった場所。
南の当時の古い地図は見せてもらった。」
「ここから滑走路越しに見ると、現在の厚生館、昔の南は、目と鼻の先に
見える。すぐ目の前が南
元山の人家があった場所が滑走路の中
という 話だと、矛盾するのではないか? もっと、南まで離れて
いないといけないはず。 ということは
元山市街地が
現在の滑走路ではなく、もっと北、滑走路から外れた森の方出ないと、話が合わないのでは
」 と思いました。
以前、いただいた、小笠原村発行のパンフレットにも、現在の地図が掲載されています。
そして、Google Earthの地図を見て、あらためて、気が付いたのは、
あの地点から平らな滑走路越しに、南の自衛隊施設群を見ると、
すぐ目の前にあるように見えますが、上空から見ると、相当な距離、
やっぱり、1キロ近くは離れていることが、分かってしまいました。
聞いていた話の、元山と南の距離の話と一致してしまいます。
やっぱり、皆さんというとおり、
そして、模型「戦前硫黄島地図と現況重ね」が示しているとおり、
太平館や元山の商店・家は、やっぱり、今の滑走路の中
ということのようです。
自分の祖父母が商店を営んでいて、母たちが生まれ育った家
戦前在住だった方は自分が住んでいた家
への、それがあった場所への こだわり、執着は、
帰って住むことが少なくめったに行くことができない島だけに
大きくなります。
家があった島に帰ってきていて、家があった近くにいているのですが、
家のあった場所は正確な位置は分からず、そこは、入ることができない、
自衛隊機や米軍機訓練離発着がある空港らしい。
他の出身の方は、 およその場所は特定できても家があった場所までは
探せない方、家のあった場所が現在の自衛隊の建物になっている方など
さまざまですが、「入ることができない場所」ではありません。
戦前の中心で最大人口だった元山からの硫黄島訪問への参加者は
昨年は、たった二人でした。今年は、6人と、それでも戦前の人口から
すると訪問する人の数が少ないです。
「ひょっとすると森の中なら、礎石のような、家の痕跡は探せるかもしれない」
という、薄い期待も持ちながら、
「あのあたりが、魚屋やっていて母が生まれた家ということらしい。」と
滑走路を眺めます。