OUR HOME ISLAND - いおうとう(硫黄島)

戦前に在住していた島民が、戦後の小笠原返還後も故郷に帰ることが許されていない硫黄島についての情報発信をいたします。

墓参日和(こちらのお墓参りに行ってきました。)

2007年10月22日 | 硫黄島・小笠原村
今日は、川崎の霊園にお墓参りに行ってきました。良い天気に恵まれました。
秋のお彼岸には、お墓参りに行けなかったので、祖父の命日に近い
今日行くことができて良かったです。

春には花見の名所にもなる見事な桜の木々が多い、広い霊園です。

硫黄島で店をやっていた祖父(私が10歳の時に逝きました。)、
その長男で母の兄弟姉妹の長兄(十数年前におがさわら丸で硫黄島に
一緒に行きました。2年半前に病気で亡くなりました。)と、母の一年下
の弟(祖父の三男、私が12歳の時に早世しました。硫黄島から疎開の
時には7歳。)が、入っているお墓です。

広い霊園の中の一角の、祖父たちが入っているお墓、
そこから、10メートル以内に、硫黄島に残って
死んでいった親戚のお墓が二つもあります。

その二人の名前は、硫黄島の旧島民墓地の碑にありますので、
硫黄島墓参の時には、そこで、手を合わせて拝んできました。

一人は、祖父のすぐ下の弟です。
もう一人は、祖父の兄弟姉妹の一番上の姉の息子です。

今日は川崎の霊園の、その二人のお墓に、線香を上げて手を合わせて、
「昨年9月と今年の6月に、硫黄島に行って見てきたこと」を、
報告することができました。

今日、一緒に墓参に行った母に、
「どうして、じいちゃんやおじさんの墓から、
すぐの場所に、硫黄島で死んだ、こんなに近い親戚の墓が二つもあるのか?
この、広い霊園の中で、偶然でこんなに近くになるのか?」と
質問したところ、答は、

「硫黄島から本土に来て、川崎に住むようになった後の
昭和20年代の同じ頃に、霊園の墓所を、それぞれが買ったから、近い。」
でした。

同じ霊園の、硫黄島関係の母方の墓がある場所からは、かなり離れた、
別の場所には、
父方の墓(私の姓の墓)もあります。祖父母(父の両親)が入っています。
私の家(父方)の墓と、硫黄島出身の母の実家方の墓が
同じ霊園にあるということは、とても、便利で、
お参りがしやすいです。

写真は祖父や、島に残って死んだ二人も上ったであろう船見岩を、
今年の6月に、近くから撮影したものです。
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硫黄島の隆起の速さを示すもの

2007年10月07日 | 硫黄島・小笠原村
リンクをして下さった、「硫黄島写真館」
http://sk-photo.main.jp/ioujima/main.htmlには、本当に多くの写真を掲載して下さっています。沈船群の写真もあります。

おがさわら丸での訪島では、繋留場所の目の前が沈船群ですので、到着直後に目にする硫黄島の前に沈船群が見えます。

昨年と今年2年連続で参加の方が、「昨年より、沈船群を見て、「あのコンクリート船がまた浮き上がって大きくなっている。」と言っていました。
島の隆起の速度が、浮き上がるものの大きさで1年で目で見て認識できる速さだということです。

沈船群以外にも島の隆起の速度を示すもは他にもあります。。
この写真の撮影場所は、このブログの最初の写真の摺鉢山を撮影したのと
同じ南海岸の浜で、撮影した場所から摺鉢山とちょうど逆の方向に
この岩があります。

鶉(うずら)石を拾った浜ですが、大きくてきれいなの鶉石を拾うのを
手伝ってくださった、戦前に住んでいらっしゃった大先輩の方が、
「あの岩も、戦前は海から先をだしているぐらいだった。」と
教えて下さいました。
今では写真のようにすっかり、浜から岩がはえているように
見えます。

戦前に比べると相当に浜の面積が(以前は海中だった)広くなった
ことを意味します。周囲全体の浜が広くなっているのですから、
硫黄島の面積は、戦後60年あまりの間に広くなったのでは、、。
コメント (1)
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