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OUR HOME ISLAND - いおうとう(硫黄島)

戦前に在住していた島民が、戦後の小笠原返還後も故郷に帰ることが許されていない硫黄島についての情報発信をいたします。

2010年3月 硫黄島 慰霊墓参訪問(10) 厚生館近くから、とっくりやしもどきの木と擂鉢山

2010年03月31日 | 硫黄島・小笠原村
昨年の6月に訪問した時には、とっくりやしもどきの木の写真は、平和祈念旧島民墓地公園のものを載せました。

この写真は、厚生館から降りていった場所、前回投稿記事の写真の建物、「第一御盾特攻隊出撃前夜会議室」の場所から擂鉢山方面を撮影したところです。

この辺りは、戦前の名では「南」です。
私の祖父母の家、学校や役場があった元山だった場所とは、今は、ちょうど空港の滑走路で隔てられているという位置関係にある場所です。

擂鉢山の山頂からの写真に、今の自衛隊基地の建物群が遠くに見えますが、逆にこの、厚生館など施設群建物が集まっている地帯からの擂鉢山も、この写真のように、かなり、離れた場所に見えます。

この写真を撮影した直後に、私を見かけた駐在自衛官の方が、ご親切に「シャッターを押しましょうか。」と、声をかけてくださって、同じバックで私を撮影してくれました。
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2010年3月 硫黄島 慰霊墓参訪問(9) 第一御盾隊出撃前夜会議室

2010年03月30日 | 硫黄島・小笠原村
前回の訪問(9月の日帰り慰霊墓参)後にも、「硫黄島は特攻隊の出撃地でもあった」ということを紹介しながら、建物の写真を掲載しましたが、その建物「第一御盾隊出撃前夜会議室」を示す碑を撮影した写真です。この建物、当時のコンクリートの壁面が一部、くずれかかっています。

遺骨収集作業などの際に発見された、戦時の武器や道具などが、現在は、厚生館(昼食を取る場所で、売店もある、自衛隊の中心的な建物です)の裏に作られた、資料館というに展示されています。自衛隊員の方に、声をかけてお願いすれば、鍵を開けてもらえて見学することができます。
(ただし、今回の輸送機日帰り慰霊墓参のでは、休憩時間が短くて、見学する時間は取れませんでした。9月の輸送機日帰り墓参、その前の6月の小笠原丸での慰霊墓参の時には見学をして、撮影した写真を当ブログに掲載しました。)
その、資料館建物ができる前は、この、第一御盾隊出撃前夜会議室の建物に、出土した物が納めらられていたそうです。
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2010年3月 硫黄島 慰霊墓参訪問(8) 鎮魂の丘から望む擂鉢山

2010年03月29日 | 硫黄島・小笠原村
写真は鎮魂の丘の碑と、その後ろ側に擂鉢山が写っている写真です。前にも紹介したことがあると思いますが、この碑は、花々に囲まれていて、正面から「鎮魂」とある碑を望むと、真後ろに擂鉢山があって、美しい場所です。

この場所の「位置づけ」についても、以前の記事で紹介いたしましたが、天山慰霊碑が「戦没者を悼み、霊を慰める」慰霊の意味を持つのに対して、この鎮魂の丘は、世界平和を希求する目的で建立されたものだそうで、今回の、私達の班(1号車)担当の説明者の自衛官の方も、その違いを、丁寧に解説して下さっていました。
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2010年3月 硫黄島 慰霊墓参訪問(7) 擂鉢山の山頂からの全景

2010年03月28日 | 硫黄島・小笠原村
擂鉢山の山頂の、米軍の記念碑の裏、硫黄島戦で米軍が国旗を立てた箇所を示す場所あたりから撮影をした、硫黄島の全景です。

写真の右側が、米軍が上陸をした、鶉石が取れる浜がある海岸です。
右側が沈船群から釜岩(私達が小笠原丸で訪問するときの上陸地点)方面です。


ブログ「Midway and Western Hawaiian Islands 北西ハワイ諸島 ミッドウェイ環礁」
http://midwayhawaii.blog131.fc2.com/blog-entry-5.html
から、トラックバックをしていただきました。

硫黄島について、米軍が上陸した海岸の写真を掲載して下さっていて、硫黄島は返還後も旧島民の帰還が許されていないことにも触れて下さっています。ありがとうございます。
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2010年3月 硫黄島 慰霊墓参訪問(6)  平和祈念公園の鐘

2010年03月27日 | 硫黄島・小笠原村
硫黄島、平和記念旧島民墓地公園を入っていった正面左側、旧島民の戦没者の碑の新しい方(古い碑は、同じ公園内の別の場所にあります)がある場所の近くにある、鐘です。

この鐘の写真は、これまで、このブログで紹介したことはなかったかもしれません。
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2010年3月 硫黄島 慰霊墓参訪問(5)  大きくなってきているかな。

2010年03月26日 | 硫黄島・小笠原村
平和祈念館前の、がじゅまるの木です。

平和祈念館は、6月の小笠原丸での慰霊墓参の時には、1日目のお弁当を食べる場所であり、また、私達、旧島民が宿泊する施設です。

輸送機での日帰り慰霊墓参では、トイレ休憩の場所として立ち寄ります。

この、がじゅまるの木の写真、記事も以前に紹介したことがありますが、旧島民の先輩の方が、2002年、この祈念館ができた時に、植樹したものです。

2006年の9月、20007年の6月、2008年の6月、2009年の6月と9月に、硫黄島を訪問して、このがじゅまるの木を見てきました。「1年ぐらいでは、そんなに大きくならないなぁ。」と感じることが多かったですが、今回は、「半年前より、かなり、おおきくなった印象を受けるな。」と感じました。

このがじゅまるの木が大きくなることは、祈念館(旧島民が宿泊できる施設ということで、私どもにとっては特別な意味がある施設です。)ができてから刻まれた歴史だと思います。
この木の大きさの分だけ、重ねた歴史が増えることになりますので、早く大きくなって欲しいという思いがあります。
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2010年3月 硫黄島 慰霊墓参訪問(4) タコの木の低い場所になっているタコの実 

2010年03月25日 | 硫黄島・小笠原村
タコの木、タコの実については、このブログを始めて以来、何度も取上げています。実の形状が変わっていること、房が硬く美味な実を取り出すのが大変なこと、硬い房の中の実を小笠原オオコウモリやネズミ(と言われています)がくり抜いて食べている様子などを紹介してきました。

「初めて、3月に硫黄島に行って、新発見!」したことをお知らせしていますが、この写真のタコの実の位置にも驚きました。
タコの木は、父島にもありますし、硫黄島でも、平和祈念旧島民墓地公園など他の場所にもありますが、タコの実が、地面にすれすれのこんなに近い場所になっているのを見たのは初めてでした。

このタコの木は、硫黄ヶ丘(一段高くなった船見岩を見下ろすように広がっている一帯で白い地面にところどころ緑の硫黄が地表を覆っていたり、噴出孔があったりします)と、戦前の元山方向に当たる森林との間の場所にあります。私が勝手に、通称「マイ・タコノキ」と名づけている、馴染み深い思い入れのある木です。
この木からのタコの実を、以前に小笠原丸での慰霊墓参の時に持ち帰ったことがあります。(6月の小笠原丸での慰霊墓参の時には、旧島民関係者のみ、十分な注意の下で、植物を持ち帰ることができます。入間基地から輸送機による日帰り慰霊墓参では、硫黄島のものを持ち帰ることは植物を含めて、一切、禁止されています。)

このの木のタコの実は大きくて、背伸びして手を伸ばすとちょうど獲れるぐらいの高さになっていたからです。
前に、このタコの木のタコの実が、既に房がかじられて実だけ食べられてしまった後が孔になってしまった写真も紹介したことがあります。

それにしても、今回の3月の訪問では、同じタコの木なのに、どうして、こんなに低い、地上に近いところにタコの実がなっているのか、本当に不思議でしょうがありません。この後、この低いところにあるタコの実は、6月(今年も6月に訪問する予定です。)までに、どうなるのでしょうか? これまで、6月にも9月の時にもこの木のこんなに低い場所にはタコの実はありませんでしたし、、他の硫黄島のタコの木でも、こんなに低い場所にタコの実が
なっているのを見たことがありません。低い場所の実は先に落ちてしまい、雨で流されたりしてどこかに消えてしまうのでしょうか? 腰より低い位置にタコの実が、数個あるのを見ました。びっくりして、慌てて、撮影をしたのがこの写真です。

今回は、硫黄ヶ丘での滞在時間が短く、船見岩に登ることも、硫黄が噴出している孔の間近に近づいて見る時間もありませんでした。前に2度、9月に輸送機で日帰り墓参をした時には、どっちの時にも船見岩に登ったと思います。

輸送機での日帰り墓参では、これまでは、壕の中に入るというのが行程に含まれていませんでしたが、今回、初めて、医務課壕(6月の一泊できる小笠原丸での墓参の時には、毎回、入っている壕です。)に入るというのがコースに加わったために、他の場所での滞在時間が全体的にすこしずつ短くなりました。
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2010年3月 硫黄島 慰霊墓参訪問(3) (再び)島の隆起について - 監獄岩

2010年03月24日 | 硫黄島・小笠原村
監獄岩という島に、戦前は、子供たちが遠泳大会で、泳いで行っていたという話を、聞いたことがあります。海にいる鮫の危害から安全を守るために漁船が両側に連なって遠泳コースを確保して、その間を子供たちが泳いだそうです。監獄岩に座っている人々の白黒の写真も見たことがあります。

この写真は、島民で軍属として硫黄島に残り戦没犠牲者となった82人の碑もある旧島民平和祈念墓地墓地から、真正面に見える、監獄岩を撮影したものです。
この角度から見る監獄岩が一番横に広がって幅が広く見えます。監獄岩を擂鉢山の山頂からみると、これほど、横幅が広い形状には、見えません。

今回の硫黄島での約3時間半の行程、私たちはバスの1号車でしたが、1号車担当の説明をして下さる自衛隊員の方は、私に、「また、来ちゃったんですか。」と、声をかけてきた方でした。
その自衛隊員の方が、この監獄岩の写真を撮影した時にも隣にいて、私に話かけてきてくれました。「私が硫黄島に来て、2年7ヶ月になりますが、来た時と比べると、監獄岩は、相当ここから大きく見えるようになったと思います。毎年来て見ていて、近づいたと思いませんか?」 確かに、その隊員の方がおっしゃるとおり、平和祈念旧島民墓地公園から見る監獄岩は、ほんの少しの海をはさんで、すぐ目の前にあるように見えました。
ずっと、見続けているわけではないので、頭の中で具体的な比較はできないのですが、言われてみると前より近くに来ているような気もしてきます。


何度も紹介していますが、小笠原丸で訪問する時の私達の上陸地点である、釜岩も、戦前は硫黄島沖に浮く小島だったものが、隆起で陸続きになり、砂洲になっているものです。

釜岩の向かって右側にある、この監獄岩も、いずれは、陸続きになるかもしれません。
監獄岩は、硫黄島の海岸線に沿って、併行方向に細長い小島なので、6月の小笠原丸での慰霊墓参の時に、最後に船が島を離れる時に一周する時の船との角度で、いろいろな形に姿を変えて見せます。


「島の隆起を示すもの」という記事で、擂鉢山の麓の米軍攻撃の時に上陸した南側の海岸に突き出た岩の高さ、海水面のかぶり方を、比較したことがありました。ですが、あの岩のどこまで海水が来ているかという比べ方は、潮の干満の影響を受けるので、行く季節の月齢や見る時間帯でも差があるので、前の年と比べて島が隆起したかどうかを判断するのには適していないと思うようになりました。


他にも、擂鉢山に登る舗装道路の、段差や亀裂や陥没が、9月に行った時より大きくなっていました。
また、空港の滑走路面にも段差ができてしまい着陸した機が上下に揺れるという話も聞きました。
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2010年3月 硫黄島 慰霊墓参訪問(2) 擂鉢山からの鯨

2010年03月23日 | 硫黄島・小笠原村
硫黄島への慰霊墓参での日帰りの入間基地から輸送機での訪問、これまでの2回は、いずれも、9月の半ばでした。(2006年、2009年)。9月実施の日帰り墓参に参加するのは、三度目にして初めてでした。従いまして、6月(小笠原丸での慰霊墓参)と9月の硫黄島は知っていますが、3月の硫黄島を経験するのは初めてで、新しい発見もありました。


その、3月の硫黄島についての印象の第一は、「硫黄島でも、こんなに涼しい時があるのか!」でした。私たちが行った3月19日の硫黄島は気温が、26度から27度で、もちろん、関東地方よりは相当に高温でした。
早朝始発に近い電車で集合場所の入間基地近くの稲荷山公園駅を目指したのですから、家を出た時間には3月半ば過ぎとはいえ、まだ寒い時間でした。
「家を出る時と帰りは寒いが、日中の硫黄島は暑い。」という点で、皆さん、服装には悩んだと思います。厚いジャケットなどを来て行って、脱いで荷物としてしまいこんで硫黄島で活動していた人もいました。
私は、長袖のTシャツの上にやや厚手の季節変わり目にちょうど良い厚手のジャケットに、マフラーで行きました。朝の寒さも何とか耐えられるぐらいの服装でした。

その、ジャケットをそのまま硫黄島でも着ていて(どの季節に行っても紫外線量は多いし、植物にひっかけたりする危険もあるので、半袖で肌露出は危険)活動していても、ジャケットが汗びっしょりになることはありませんでした。
風もあって、過ごしやすかったです。もっとも、関東の夏並の気温ではあるのですが、私がこれまで経験した、6月と9月の、日の高い、表現するのが難しい暑さと比べたら、さわやかで過ごし易い硫黄島の気候、天候でした。


ガイド役の自衛隊員の方(前回記事にある、私に「また、来ちゃったの。」と声をかけてきた方)が、「皆さんの普段の行いが良く、運が良いと見えるかもしれません。」というような話をしていました。最初は、何のことを言っているのか、よく、聞き取れずに分かりませんでした。 それに、「これまでの、硫黄島訪問で見ていないものなど、もうそうはないはず。」と、たかをくくっていました。

それが、何のことを言っていたのかが分かったのは、行程の終わり近くの、擂鉢山の山頂でのことでした。何人かの参加者が、旧火口方向の海を見て指さしたり、カメラを構えたりしています。 鯨でした。

前にも、旧火口と海へ落ち込む崖を山頂から撮影した写真をこのブログに載せたことがあると思いますが、同じ角度の、海面に小さい岩が出ているあたりに、鯨が出現した、と騒いでいるのです。
カメラを構えて、数十秒待つと、そこに、鯨の背中と、潮を吹く姿をはっきり見ることができました。この写真では、かすかに写っているぐらいで、分かりにくいかと思いますが、確かに鯨でした。二頭いるように見えました。 まだ「子鯨」だそうです。

鯨と言えば、当ブログのこれまでの記事で、ウミガメの話題でお伝えしてきた、小笠原海洋センターが、調査保護と、ウミガメだけでなく、鯨の里親制度も実施しています。父島は穂エール・ウォッチングができる観光地でもあります。

ところが、これまでの硫黄島訪問(6月、9月)では、「鯨」という言葉を耳にしたことがありませんでした。
この3月の季節には、硫黄島付近に、鯨たちがやってくることを初めて知りました。
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2010年3月 硫黄島 慰霊墓参訪問(1) 

2010年03月22日 | 硫黄島・小笠原村
3月19日(金)に、入間基地から輸送機で日帰りで慰霊墓参に7度目の硫黄島訪問しました。
今回は、初めての硫黄島になる同じ年代の従兄弟(祖父母の長男の長男(いわゆる、内孫)(私は祖父母の長女の長男です。))が、一緒でした。
また、姓名からの会話や、現地での島民戦没者名簿を見ながらの会話で、今回初めてあうはとこ(親の代が従兄弟同士)、二人とも会いました。

硫黄島の空港に輸送機が着陸して硫黄島に降り立った一歩、その直後に、顔見知りの、バスに同乗・訪問場所で説明を担当して下さる自衛官の方が、私に向かって、
「あら、また、来ちゃったんですかぁ?」と、言われました。

昨年の6月に小笠原丸で、9月には、入間基地から輸送機日帰りでの訪問と、3度続けての硫黄島訪問でした。今回は、初めて訪問する親戚に頼まれて付き添いでの、参加でした。



また、この場を借りて、いただきましたコメントとトラックバックに、お礼を申しあげたいと思います。
昨年の6月訪問の慰霊祭の様子の記事に、中学生で参加なさっていた方がコメントを下さいました。本当に、ご覧いただけてコメントまでいただけて、嬉しいことです。
さらに、ブログ「おがさわら ちいさなとしょしつ」様から、前に載せた、私の親戚が硫黄島に残って戦没したことを書いた部分を引用してくださった記事を載せていただき、トラックバックをいただきました。「おがさわら ちいさなとしょしつ」の「おがししょ」さんとは、昨年の6月に、ビジターセンターで、幸運にもお会いすることができました。(その様子もこのブログの記事にしました。)
ずっと、更新していなかったブログだったのに、コメントやトラックバックをいただけて、本当に幸せに思います。ありがとうございました。


写真は、この3月19日の訪問時に、この前の「硫黄島帰島促進協議会」の記事投稿に載せた写真と同じ場所、鎮魂の丘の、ブーゲンビリアと赤いハイビスカスです。左の奥には、昨年このブログの記事に載せた、折口信夫の歌碑が映っているのが見えると思います。
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