OUR HOME ISLAND - いおうとう(硫黄島)

戦前に在住していた島民が、戦後の小笠原返還後も故郷に帰ることが許されていない硫黄島についての情報発信をいたします。

「硫黄島開拓之碑」の碑文にある、硫黄島の情報と略歴

2007年06月30日 | 硫黄島・小笠原村
慰霊祭が行われた硫黄島旧島民平和祈念墓地公園にある碑です。
写真では、碑銘と島の位置をしめしていることしか分かりませんが、
碑文があります。(碑文が碑のどの位置にあるか確かめずに
撮影もしてきませんでした。)

硫黄島訪島参加者に配布していただける、小笠原村発行(平成12年 初版発行)のパンフレット「 硫黄島 -硫黄島島民平和祈念墓地公園開設15周年記念- 」に、碑文全体を掲載いただいていますので、引用させていただきます。

「硫黄島開拓之碑 (碑文)

硫黄島(いおうとう)は、父島の南約二八〇キロメートル、北緯
二四度四七分東経一四一度一九分に位置し、北硫黄島、南硫黄島と
ともに火山列島を構成する
 十六世紀中頃にはスペイン船により望見されており、ブルカーノ
(火山島)と呼ばれた 十八世紀後半イギリスの探検隊に見出
され、サルファー・アイランド(硫黄島)と名づけられた
 明治二十四年(一八九一)九月勅令により日本領土に編入、東京
都小笠原島庁の所轄となり、北硫黄島(洋名サン・アレッサンドロ
島) 硫黄島(洋名サルファー島) 南硫黄島(洋名サン・アグスティ
ン島)と命名された
これに先立つ明治二十二年(一八八九)六月、父島の住民田中栄次郎
が、父島で建造した帆船南洋丸にて十余名とともに、鮫漁と、硫
黄採取を目的として渡航したことから硫黄島の開拓が始まった
 明治二十五年(一八九二)から本格的な硫黄発掘事業が開始され
たが、その後主産業は平坦な土地と地熱を活かした農業に重点が移
った 砂糖キビ、コカ、レモン草と情勢の変化に伴い主要な作物は
変わっていったが、農業の隆盛とともに人口も増加していった
 昭和十五年(一九四〇)四月硫黄島に村制が施行されたが、北硫
黄島はなお小笠原支庁直轄であった
 この年の住民、硫黄島一〇五一人、北硫黄島一〇三人
 昭和十六年(一九四一)十二月八日太平洋戦争勃発
 大戦の激化とともに、豊かで平和な地は本土防衛の最前線となり、
昭和十九年(一九四四)住民は強制疎開を余儀なくされ、父祖の地
は玉砕の島となった
 硫黄島の日本領土編入百年にあたり、島の開拓に勤しんだ先人の
功績を讃えるともに、いまだかなわぬ帰島の夢を託し、この碑を
建立する
                    平成三年三月 小笠原村」

硫黄島訪島事業を主催して下さり、このパンフレットを発行配布して
下さっている小笠原村役場のホームページ
http://www.vill.ogasawara.tokyo.jp/
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2007年6月15日の慰霊祭

2007年06月29日 | 硫黄島・小笠原村
今年の硫黄島訪問で島に上陸して最初の行事が慰霊祭でした。
慰霊祭会場の「硫黄島旧島民平和祈念墓地公園」には、旧島民で軍属として残って戦争の犠牲者になった82名(うち5人が私の親族)の名前が彫られた碑などがあります。
式の後半では、全員による献花があり、その後で、父島の小笠原中学校、母島中学校の生徒代表の方が、力強く、ご自分たちの言葉で、「戦争について、学んできて感じたこと。この慰霊祭で将来に向けて、語りたいこと」を 「誓いの言葉」として、捧げてくれました。
「誓いの言葉」に続く「献歌」(犬童球渓 作詞「故郷の廃屋」)では、歌いながら、いつしか、多くの方が、涙ぐんだり、すすり泣いたり、していました。あの歌詞をあの式典で、泣かずに歌うのは、かなり難儀なことでした。

写真は 中学生代表の方が捧げて下さった「誓いの言葉」と千羽鶴、遺族代表の方が捧げて下さった「追悼の言葉」、全員で献じたお花。

この「硫黄島旧島民平和祈念墓地公園」には、「硫黄島開拓の碑」もあります。
 
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おがさわら丸が硫黄島を離れる時には、

2007年06月28日 | 硫黄島・小笠原村
島を一周、たっぷり一時間はかけて、まわってくれて、デッキから海に献花をします。その間に全部の角度から島全体を眺めることができます。。今回の硫黄島からの別れの時間は、日没と重なり、太平洋に沈む夕日を見ることができました。

写真は、日没直前、島をまわってくれていれている小笠原丸からの硫黄島。手前が島の西側から、奥に摺鉢山。
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鶉石(うずらいし)

2007年06月26日 | 硫黄島・小笠原村
島に在住だった方々、島訪問でこの浜に来たことがある方々にはおなじみの鶉石です。映画のロケもこの浜の付近でされたそうです。

世界で、「我らが硫黄島以外にはイタリアにもう1箇所でしか見られない」と説明される鶉石ですが、この浜には、多くの鶉石があって、浜全体が覆われています。

時間も限られてたことから、浜の石をそのまま掬って袋に入れてきたものを、戻ってから、選り分けたものが、この写真の鶉石です。

私の集めるのが下手なのに同情して下さって、島出身の大先輩の方が、大きくてきれいな鶉石だけを両手のひら分を集めて下さった(ありがとうございました。)のは、島生まれの母の物になって、グラスに入れられて飾られています。

きれいな鶉石の条件・基準は、「大きさと、形が良いこと」以外に、
「白い線が多く、平行に、または同心円状にくっきり見える」ことだと思います。白い部分と黒い部分が混ざってしまっている鶉石はあまり美しくないと思いました。 それにしても見れば見るほど、珍しい火山活動産物の石です。
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タコの実です。

2007年06月24日 | 硫黄島・小笠原村
硫黄ヶ丘の横のタコの木になっていたものです。
船で先輩方に教えていただいていましたので、
今回はうまく、食べ方が分かって、味わうことができました。

昨年の秋に、自衛隊機で入間から参加で訪問した時にも
同じタコの木から一つ(秋でも6月でも、実がなるんですね。)
持ち帰りましたが、その時には食べ方が分かりませんでした。

8歳で島から引き上げた母は、昨年秋には
「見覚えがあるが、食べ方は忘れてしまって見当がつかない。」
と言っていたのですが、今回、房を切って、中の実を見て、
「これは、よく食べた。」と、やっと、60年以上ぶりに
どの部分をどう食べるのか、どういう味か、味噌にもしたこと、
などの記憶を甦らせました。祖母にも、持って行って食べてもらえます。
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13日から18日までの今年のおがさわら丸での墓参帰島に参加

2007年06月24日 | 硫黄島・小笠原村
協議会関係者の皆様、旧島民の皆様、硫黄島に興味をお持ちの皆様、

まずはブログを開設させていただきました。
 3度目の硫黄島訪問でした。
前の2度は「戦争の傷跡の悲惨さ」ばかりに興味が集中しての訪問でしたが、
3度目の今回は、「戦前は海からの恵みに山からの恵みで、豊かな島だったんだ」と感じました。 

あれだけの日本にとってだけではなくアメリカにとっても、特別な戦闘の島になったのですから、「悲惨な傷跡」のイメージに興味が行くのは当然だと思います。(映画の影響もあると思います。) 
今回の訪問でも多くの戦跡、お祈りをする場所で、犠牲になられた旧島民の方と日米の兵士の英霊への、お祈りをしてまいりました。

これからは、「戦争の前は、どんな島だったの?」「当時の島の生活の様子は?」「島の自然と天候や生態系は?」などにも、もっと興味を持ちたいと思います。

おがさわら丸が竹芝桟橋につく頃に、「硫黄島の呼称が「いおうとう」に変わったというニュース」が届き、旧島民の長年の念願が一つかなったという喜びが満ち溢れた有意義な墓参帰島でした。

写真は鶉石(うずらいし)(世界で硫黄島以外には、イタリアに一箇所しかないそうです。)がある南海岸からの摺鉢山です。

コメント (2)
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