OUR HOME ISLAND - いおうとう(硫黄島)

戦前に在住していた島民が、戦後の小笠原返還後も故郷に帰ることが許されていない硫黄島についての情報発信をいたします。

パラファーム2009(4) 脱穀、精米に参加して、その日に新米を食べました。

2009年10月26日 | 植物栽培
10月24日(土曜日)に、パラファーム2009で、埼玉県本庄市の農家 金井國夫さん からお借りしている田んぼと、金井さん作業場で機械をお借りして、ご指導いただき、今年、皆で作ってきた「おこめ」の脱穀、精米が行われたのに参加してきました。

稲刈りは、参加で来ませんでしたが、前の日曜に、パラファームのメンバー10人が夕方までの重労働で、終わらせてくれていました。

写真は稲刈りを終えた、お米の稲穂の束を天日で干してあって、これから、脱穀する直前の田んぼの様子です。


ご指導、機械運転の金井さんの他に、作業者は4人でした。

天日干ししてある稲の山のかたまりに、トラクター脱穀機を、金井さん運転で近づけてもらったところに、束を先の米がある穂のところが脱穀されるように機械に入れていく作業です。穂の元の方まで入れようとしすぎると、機械にはモミの無い部分まで入ってしまいますので、無駄で、脱穀後の穂のゴミも多く出るだけですし、
手が機械に近づくので危険でもあります。
ところが、中には、穂の束ね方によっては、根本近いとこにまで、もみがあるのが見える物もありましたので、「一粒でも多く」と思うと、根本近くまで入れてしまいがちになってしまい、「それでは、奥まで、入れすぎ。もっと先の方だけが機械に入れば良い。」と、言われました。

この作業は、トラクターが移動してくれて、近くの穂の束を入れていくだけですから、正味では一時間ほどで終わりました。トラクター脱穀機に入ったお米を、運搬庫のついた軽トラックに上からホース状の管で、高速で移して田んぼでの作業は終了。

金井さん農園の作業場に移動して、遅い午後のティータイム。

それから、軽トラック運搬庫から太いホースで、先ほど脱穀したもみを出して次の
機械(乾燥もさせるようでした)に移すところから作業再開。
いよいよ精米開始です。もみがらを剥ぐ機械を通って、玄米が流れおちてきました。稲刈りから参加しての、収穫したお米が、やっと、もみから、お米の形になって出てきたのを見た時には、じーんときました。

30キロの袋2個で一俵だそうです。30キロの袋6個と7キロの玄米が収穫高でした。

袋2個は、白米にまで精米。2個を胚芽米に。2個は玄米のまま保存しました。
白米にすると28キロ、胚芽米で、28.5キロほどになりました。
玄米の半端の7キロと、途中で実が小さいと古いおとされた未成熟米も、白米に精米しました。

精米した白米は、参加メンバー、希望者、関係者に販売なのですが、まだキロあたりの価格がきまっていないので後日清算ということで、3キロほど白米を持ち帰らせていただき、最後に精米した小さな粒がまざっている未成熟米も一緒にいただいてきました。


脱穀から精米された、その日にできた白米を、家に帰って、そっそく炊いて食べました。一粒ずつがきらきら光って、もちもちしていても、食感は外はふわふわ芯はしっかりに炊けました。甘みがあって、きれいな、自分たちで田植えからして作った、お米のご飯を、すごく幸せな気持でおなかいっぱい堪能しました。

次回は、11月の23日にメンバーがあつまって食べる、大収穫祭です。
田植え以来のパラファームで知り合った、皆さんと再開して、皆で作ったお米のご飯を皆で食べる日が、待ち遠しいです。
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父島 亜熱帯植物センター(1) 「とっくりやし」

2009年10月09日 | 硫黄島・小笠原村
これが正真正銘の「とっくりやし」です。父島の亜熱帯植物センターにある木です。きちんとプレートにも「とっくりやし」とあるのを確認しました。
「とっくり」の名前のもとになったと思われるくびれの部分が、そういえば、硫黄島平和祈念旧島民墓地公園の「とっくりやしもどき」より、太いかなと思います。
コメント (3)
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平和祈念旧島民墓地公園の 「とっくりやしもどき」

2009年10月08日 | 硫黄島・小笠原村
この写真も、9月11日(金)に、日帰り慰霊墓参訪島をした時に撮影をしたもので、平和祈念旧島民墓地公園の「とっくりやしもどき」の木(だろうと思われます。)です。

6月の小笠原丸での訪島では、例年、上陸すると最初に、この平和祈念旧島民墓地公園に参加者全員が集まって慰霊祭が行われます。春と9月の日帰り墓参では、硫黄島に滞在できる時間がとても限られていて慰霊祭はありませんが、島を移動の途中で必ず、この場所に来ます。

82人の、戦前在住だった島民で軍属として島に残って犠牲になった戦没島民の氏名の碑が新旧、二つあるのもこの公園です。

この公園にも、多くの花や、タコの木などの植物が多いです。公園整備の時に植樹してもらったものだと思います。


「とっくりやし」という珍しい形の木があることは、以前に、「青い鳥@小笠原」さんがブログ「エンジョイ!島ライフ」で、紹介して下さったのを見て知りました。
この写真の木は、「とっくりやし」と似た特長のある形状です。今回の訪問に、父島からヘリコプターで参加の小笠原村役場職員の人に、「とっくりやしですか?」と質問をしたところ、「いいえ。これは、おそらく、「とっくりやしもどき」の方だと思います。」という回答でした。


なかなか、「とっくりやし」本物 と、「もどき」の区別がつけにくいのですが、
くびれ部分の大きさが違うことで、見分けるのかなぁ、と思ったりしています。

次回は、正真正銘「とっくりやし」の方を、6月訪島の時に寄った父島の亜熱帯植物センターで撮影したものを紹介する予定ですので、比べてみて下さい。
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Jamesさんからのコメント への返事

2009年10月07日 | 硫黄島・小笠原村
この記事の写真は前回記事の、鎮魂の丘の歌碑を、同じ今年の9月に、もっと遠くから花々が写るように撮影したものです。


多くの皆様から感想や励ましなどのコメントをこれまでにいただいております。ありがとうございました。

このブログで「コメント」をいただきますと、私にコメントが届いたことが知らされて、「公開」にしますと、ブログの画面に、いただいたコメントが表示され、皆様にも内容をご覧いただけます。

からかい、ひやかし、いかがわしいなどの、公開に不適切なコメントはほとんど届きませんので、確認して、「公開」にしています。(トラックバックの方には、やや不適切なものや、記事などに無関係な1ページだけのブログともいえないようなページへリンクされるものが多く届きますので、非公開・削除 しています。)

チェックして、非公開にしたことがあるのは、コメントしてくださった方の個人情報、 (本名やメールアドレスなど) が記載されていたケースです。

「コメント」していただいた中に、内容がご依頼だったり、こちらから、返信を差し上げたい内容のものがあっても、コメントに「返信」はできません。

メール・アドレスを書いてコメントいただければ、そのコメントは非公開にして、
教えていただいたアドレスにメール送付をすることは可能です。

もっと、手っ取り早く確実なのが、この Goo のブログでは「コメント」ではなく、左側にある「メッセージ」で送付いただくこと です。送付いただいたメッセージとともに、送って下さった方のメール・アドレスが分かりますので、すぐに返信することができます。また、「メッセージ」の内容は、皆様にご覧いただけるブログには公開されません。 以前に「こおようなメッセージを頂戴いたしました。」と紹介したことがありましたが、そのケースのように、お知らせすることができるだけです。


今回はJamesさんという方からいただいたコメントを「公開」にしたことを、
この記事にしていますが、これまでいただいたコメントの中で初めて、英語でのコメントであり、私に「メールをしたい。」という、メール・アドレス通知をご要望なさる内容でしたので、皆様にもご覧いただけるこの「記事投稿」で、紹介と
返事をさせていただきます。

Jamesさんからいただきましたコメントは、

I would like to write to you about pre-war Iwo Jima and your family. Is it okay? It is same like some Guam village - destroyed by war, people cannot return; I am writing a paper for university.

日本語にしますと、
「戦前の硫黄島と語か極のことについてあなたにメールをしたいが、良いでしょうか。あるグアムの村が同じように、戦争で破壊され住民が戻ることが出来なくなってしまっている場所があります。大学での課題論文にとりあげようと思っているところです。」 といった内容です。


Jamesさん「コメント」に返信できませんし、Jamesさんは私のアドレスを知らないのでメール送信できませんので、以下にJamesさんのコメントへの返信を載せさせていただきます。

Hello, James-san,
Thank you for posting comment to an article in my blog. I would like to tell you my e-mail address so that you can get in touch with me. Please send me your comment including youe e-mail address again - in that case, I am not going to make it open to othres in my blog in order to protect your adress information. Or, and this way is easier , you may send me " message " by selecting the "send message " button "" メッセージを送る "" in the left part of the blog screen. Then I can get your address and send you back directly.
I have never heard the Guam district like Iwo-tou (Formerly the island is called Iwo Jima, though it is not correct any more.) and there have been people like us. Iwo-tou is very far from mainland Japan and we cannot enter the whole island without pemission.
I am waiting for your contact.
regards,

(私のブログの記事にコメントいただきありがとうございました。私にメールしていただけるようアドレスを知らせたいと思います。 あなたのメールアドレス情報を書いたコメントを再度、送ってもらえますか。その場合には、メール情報を他の人には知られないようにコメントを非公開にさせていただきます。または、もう一つの方法のこちらの方法の法が簡単ですが、ブログ画面の左側にある[メッセージ送る]ボタンでメッセージを送付してもらえると、あなたのメールアドレスが分かり、こちらからメール送付させてもらえます。
グアム島に、硫黄島(以前は「いおうじま」と呼ばれてましたが、今は正しくなく、「いおうとう」です。)のような地域があるということは聞いたことがありませんでした。硫黄島は本土から遠く離れていて、全島まるごと、許可なしに入ることができません。
お返事をお待ち申しあげます。)
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硫黄島 鎮魂の丘の歌碑  釈迢空(折口信夫)の歌

2009年10月06日 | 硫黄島・小笠原村
鎮魂の丘には、ハイビスカスなど花が多く、きれいに咲いている場所です。「鎮魂」の碑に向かって水が流れていますが、時によっては、雨が降らずに水不足の時には、碑に引かれている水量が少なく、その場合には、花々も元気がなく見える時もあります。

この鎮魂の丘に咲くブーゲンビリアを背景に歌碑があります。硫黄島に行くと必ず寄る場所ですので、歌碑があることは知っていましたが、歌の内容は、これまでに知りませんでした。今回の9月(今年二度目、入間基地から輸送機で日帰り慰霊墓参訪島)の硫黄島で、ガイドをして下さった自衛隊員の方が、説明をして下さって、歌の中身を知りました。
「著名な歌人が縁の人の犠牲を嘆き偲んだ歌である。」ことを、説明を聞いて教えてもらい帰ってきましたが、「釈」という字から始まる歌人であることは覚えて帰って来ましたが、詳しくは分からずに戻ってから調べました。

碑文の歌は読みやすい字で書かれています。(バロン西の碑のくずし字の方が読みにくいです。日本史専攻なのに くずし字 読むのが苦手というのはとても恥ずかしいです。)


硫気噴く島

たたかひに 
果てにしひとを 
かへせとぞ
我は呼ばむとす   
大海にむきて

という歌です。

作は、釈迢空。これまた不勉強で恥ずかしい限りなのですが、釈迢空 は、有名な
民俗学者 折口信夫氏 のことだと調べた分かりました。

(「sawaimatumi381's blog」と、Wikipediaを参照させていただき、調べて分かりました。)
折口信夫の名前はよく知られています。柳田國男に師事して民俗学を体系だてた人物だということはしっていました。 その折口が、歌人として、
釈迢空 であり、正岡子規につながるアララギに参加後に、アララギ退会して反アララギ派を退会した歌人であったということは、全くしりませんでした。

硫黄島の歌碑の前で、歌の内容について解説をしてもらったのを聞いた時にも、折口信夫のことだとは思いませんでした。

折口(歌人、釈迢空のことですが、以下、人口に膾炙している方の、「折口」と記します。)の養子 藤井春洋の硫黄島での死 を嘆いた 歌だそうです。硫黄島激戦で養子が激戦になったことは、折口の民俗学にも、好くならからぬ影響があったようです。(門外漢がすいませんが、皇国史観の当時の日本での、民俗学という分野の研究をしていたのですから、身内の死の衝撃で、物の見方は、変わっただろうと推測します。)


歌碑の歌そのものは、実にシンプルで、わかりやすく、 ぶつけようのない悔しさと悲しみの叫びの歌だと思います。

小笠原丸での慰霊帰島の最後に、島を一周してからの献花の時の、私どもの想いとも通じるところが多いと感じました。「いったい、なぜ、この島で、あの激戦の末に、かけがえのない命が、帰らぬものとなってしまったのか。」というやり場のない怒りと悲しみの気持です。


これまで硫黄島について写真を載せたり、あれこれ書いたりしてきて、この歌碑と作者、歌のことを知らずにいたことや、
加えて、硫黄島の花々の名前を知らずに写真に撮ってきてもなかなか、名前が分からないので紹介できなかったり、不勉強で恥ずかしいと思いました。

これからは中断していました、6月に訪問した父島の様子、亜熱帯植物センターについてなど紹介もしようと思っています。花の名前については、詳しい方のアドバイスをいただきながら直したりしようと思っております。
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