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DXの地から届いた切手 Cape Verde(15)

2019年02月19日 00時01分00秒 | DX stamp

D4 - Cape Verdeの切手

カーボベルデはアフリカのセネガルの沖合の島嶼からなる共和国

アフリカの西の果てはダカールがあるベルデ岬だが、その更に西の沖に位置しており

国名はそのものズバリCape Verde(ENG.)=Cabo Verde(ESP.)=ベルデ岬


 アジアとヨーロッパ間もそうだが、物流と人の移動は最初陸地を使い、大規模化するにつれて

海運に移っていく。アフリカではサハラ砂漠が今の規模になる前には、アルジェリア、マリ、モロッコ、リビアなどは

内陸部との中継点であった。実際マリのトンブクツーは歴史上大繁栄した商業都市だったという。

8世紀から15世紀の北アフリカはイスラム圏であったので、商業的な恩恵は全てイスラム商人が得た。


 で、こりゃやっとれんゾ、と積極的にカウンターを打ち込んだのがポルトガル。

エンリケ航海王の代、いわゆる大航海時代。

ちなみに「大航海時代」と呼ぶのは世界で日本だけらしい。

グローバルスタンダードは"The age of Great Discoveries"で「大発見時代」のニュアンスに近い。

それはさておき、

ポルトガルで有名な「発見のモニュメント」


ポルトガルはじめヨーロッパの国々はヨーロッパ外とのロジスティックマージンをイスラムに奪われないようにする手段として

陸路ではなく海路でイスラム陣営を介さずインド、中国との交易(当時はアジア市場の方が圧倒的に巨大だった)の方法を模索した。

現代で言う、産地と消費者を直結する流通経路の新規開拓ってやつです。


 何故カーボベルデでなくポルトガルの話からしているかと言えば

ポルトガルのカウンター作戦の途中の1ページがカーボベルデだからだ。

時系列に並べると下記となる。

1419年 CT3(Madeira)まで海路開拓
1427年 CU(Azores)まで海路開拓
1444年 D44(Cape Verde)まで海路開拓
1445年 6W(Senegal)のダカールまで海路開拓し、対アフリカの迂回ルート開拓
1470年 S9(Sao Tome)まで海路開拓
1488年 ZS(SouthAfrica)の喜望峰までバーソロミューディアスが到達
1498年 VU(India)のカリカットまでヴァスコダガマが到達し、対インドの迂回ルート開拓

この流れで、ヨーロッパの連中は1500年代には極東まで開拓路を伸ばしてきて我が国にもやってくる。


 更に脱線すると、ポルトガルがダカールまで到達した頃、クリストファーコロンブス(イタリア人)が生まれ

1485年にポルトガル国王に逆回り(東へ向かってインドに行くのではなく西に向かってインドへ)作戦を

提案したが、ディアスがアフリカ最南端突破目前であったため、コロンブス案は却下。諦めきれないコロンブス

その案を持ってスペイン国王に売り込み。数年がかりの提案プレゼンの結果、1492年にスペインの援助を受けて出航。

インドへ行くはずが、その前にアメリカを見つけてしまったのはご承知の通り。


 そんな熱く激しい時代にヨーロッパ人たちが橋頭堡にしたカーボベルデ

Cabo Verde (Africa) Vacation Travel Video Guide


帆船で世界の海に飛び込んでいったヨーロッパ人達の最前線営業所であったカーボベルデ

今も場所柄中継地であるのと、リゾート地としても活きている様だ。
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