[A mercurial submarine ]
何時の頃からか風呂に入っているとき
自分の身体が湯の中で軽くなるような感覚がしなくなった
それに気づいたのは或る日の夜、相当酒に酔ってから入浴したときでした
私は酔っていても 風呂には毎日欠かさず入ることにしていた。
だから其の日も、大概な酔い方だった。
風呂場の広さは一坪もなく、京間の畳二畳足らずです。
先ごろ、長年馴染んでいましたモザイクタイル張りだった風呂場内を
今風な最新の ユニットバスに遣り変えました。
内部の壁と天井は白っぽいクリーム色。
横になって全身が浸かれる浴槽は、少し濃い目の同色系。
裏庭に面した北側の内壁には、縦二尺半幅一尺あまりの明り取りの窓が
天井近い北の壁にあります。
其処には、小さなハンドルを指で摘んでクルクルっと回すと
換気扇のシャッターみたいに 開け閉めできる鎧硝子が嵌まっています。
最近、窓に防虫のためステンレス製の網戸を
硝子のボールを被せたような丸いタイプの防水照明器具は、天井近くの東の壁に。
大きさサッカーボウルくらい、それを半分に切って壁に掛けたような照明器具。
表面にサッカーボウルみたいな模様が刻み込んであります。
其の時私は、仰向けになって寝そべり湯船の縁に頭を載せていました。
湯煙を透かして 天井に小さく垂れ下がる湯露を観ていました。
私の身体は、背中を少し傾斜した浴槽壁に凭せ掛け、両脚はだらりっと伸ばし
足の指先は湯船の向こう壁に あと少しで届きそうかと。
顎下をお湯が擽ります
私は何も考えず、天井に無数に張り付いてる湯露が
雫となって落ちるのを 唯 観続けていました。
其の時、ふっと心が。 何を想ってか 変なことを考えてしまいました。
「わたしは本当の意味であれを、観ているのかなぁ? 」 っと
理由は、脳が感知する凡ての感覚が、酒精によって麻痺していたからです。
唯そのときには、快楽意識感覚は未だ完全には麻痺していませんでした。
酔いだけじゃぁなく、お湯に浸かる行為自体が 実に気持ちか好かったからです。
そして、私は酔っている
私の身体のあらゆる感覚神経が、酒精で狂い満たされています
快楽湯の温かさ、酒漬け身体の血の道を 益々でしょう。
自然と両腕 力無く浮いてきます、其れはまるで生まれる前の赤子が
母親の胎内羊水に浮かんでるようにでしょう。
肘を緩く曲げてました。
なにかをでしょう、抱いてる感じで。
私の酔眼は、わたしと天井の間を形を変えながら漂う湯霧を追います。
気だるさが、ゆっくりと身体を攻めてきます。
音無い風呂場に何かが 静かに滲み増してくるようでした。
其れどころか 酔い疲れた私の肉体の中身は、何もかもが鄙びたざまだと。
頭の中 酔い痴れて、でした
そろそろ朧気になってきました意識が 知らず想いしました
穏やか睡魔が全身に 酒精の酔いを駆逐しつつです。 巡ってきます。
精気が抜き取られます。 お湯が温かさで躯温を宥めながらでした。
心地好さげな倦怠感 抜かれた精気に取って代わりました。
抜け殻感覚肉体の尻が 湯船の底を前滑リ。 顎が湯面下まで沈みます。
頭は 載せてた湯舟ヶ淵から滑り落ち、自然と浴槽傾斜壁で押され侭様
全身湯水に沈んだ中、首が前にと曲がって 下顎胸に触るかと。
嗚呼と呻いた心算が ぶくぶく泡言葉
湯が熱の形で剥くように 私の肌に纏わりつきました。
突然っ! 何かがっと。 押さえ込むように身体の上に重すぎる何かが
尻の下にもっ! 尻っ 初め滑ってつるつる 直ぐにざわざわと鳥肌擦り
慌てて瞑った目蓋 カット見開けば視界は真っ暗
開いた眼球、瞳が滑る熱持つ液体金属で覆われていました。
湯船の中が満たされていました。 暖か熱持つ液体金属水銀が っかと。
其の泥りな水銀の重き圧力 全身裸肌を締め付けます。 胸郭押されました。
無理矢理潰れかかる肺より酒精匂う息、甲高き喉笛悲鳴絞り上げながら吐き出されます。
驚きで躯が跳ね揺れると、液体金属面から突き出た首下から
水銀湯面に波紋が生まれて湯舟の淵まで。
足掻いて、抗い。 藻掻いて苦しさ紛れに重さを跳ね除け
湯船の中で 一本 棒立ち
見下ろせば 澄みし湯面に波立ちが。 波、凪るまでじっと見下ろしてました。
天井湯露が天井から ゆっくり剥離し水玉で空中静止
一滴雫で私の鼻先掠め 落ちました。
滴り音せず 綺麗な湯面に波紋が静かに広がりつつ、でした。
気がつけば湯の下 湯船の底全部が、綺麗な平面の鏡でした。
広がる湯面の波紋の裏側 船の底で鏡に映って広がってました。
私の足先 鏡に埋まってました。
踝まで
船の底で 此の世が逆転模様に為って映っていました。
天井も壁の照明も、猫背で見下ろしてる私の裸躯も
私の踝から上が 逆様鏡映りで私の踝に吊り下がって観えていました。
静かな波に揺らぎながら 鏡の中の私が、私を見詰め反してきて、いました。
突然 膝が崩れ堕ちそうな立ち眩み。 必死で堪えようと北側壁に手を
其の儘 左肩まで壁の中っ、減り込んでました。 左腕が
躯が傾いてます、手が無く肩で凭れているような感覚
肩から怖気が項を伝って脳に、躯全体に鳥肌模様が噴き出ます
首をひねって見続ける北壁 視えない左腕に粟立つ鳥肌感覚
耳の奥に 声が
酩酊感覚 紡ギマセッ 夜ノ風呂場デ妖シゲ感覚
遊ビマセョウ泥酔心デ 笑イマセョウ酒呑ミ腹カラ
見知ラヌオナゴノオ顔ガ鏡ノ中カラ 「遊びましょぉ」 ッテ
アレ? 鏡ノ中ノ天井何時ノ間ニヤラ月夜ノ星空
私の躯 堕ちて逝きます 向こう側の 星空夜空にへと
天に向かって飛ぶように堕ちて逝きます
何かを掴もうとして見上げると 私の頭の上に遠のく街並みが観えました。
私の家の風呂場の屋根 無くなっていました。
小さくなって行く湯舟の底の向こう側からから、私が此方を見下ろしていました。
私は、宙に堕ちて逝きました
気がつくと、膝を抱えて水に浸かっていました。
湯は 冷たく冷めて水になっていました。
上下の歯が 小刻みに震え打ち合ってました。
象牙質が お互いに触れ合い、乾いた骨が打ち合うような音がしてました。
躯の芯から寒さが っでした
眼の前の冷たい澄んだ水の中で 小さな烏賊が泳いでました。
烏賊の表面 チカチカト点滅するように表面色が変わります。
形も変形してました、色々な魚類にと。
私が子供の頃に お風呂で遊んだ小さな玩具にも
色々変形する烏賊、水の表面に浮かんでました
ブリキの潜水艦の形で 浮かんでいました。
表面は 烏賊のように色んな色に輝きながらでした。
私は水の冷たさに参り、唇小刻み震わせ観ていました。
色の変化が止みました。
ピカピカに磨き上げられた金属の鉄で出来た 小さな潜水艦でした
なんだか嬉しそうな感じで水に沈んで 水中を遊弋します。
楽しげに 水の中を突き進みます。
ピカピカ潜水艦 水面に浮かび上がって、遊ぶように小さく円を二回描きます。
やがて、私の膝の少し前で停船しました。
すると、とっても狭い前部甲板の丸い小さなハッチが開いて
とっても小さな生き物が 二匹飛び出てきました。
二匹は私の方を向き、鳴き声は聞こえませんでしたけど、吼えてるようでした。
小さな尻尾を 小さく嬉しそうに振っていました。
私は直ぐに気づきました。
以前一緒に住んでいた家族の仔たちだと!
私は声に出さないで心で 「ぁ!桃子と桜だぁ! 」 って
すると犬たち前脚揃え立ち上がり、嬉しそうにして応えてくれます
私は腰を屈めて 桃子と桜を見下ろします
思わず手が出かけましたけど、波を立てたら船が沈んで壊れるかもと!
二匹は喜びの余り今にも水に飛び込んで、此方に泳いで来るのか! って
風呂場に響き渡りました 出航の合図の哀しげ笛の音が
ハッチから小さき白い手が突き出て招きました おいでおいでって
ハッチに桃子も桜も飛び込んだ
小さなハッチが 閉じました
小さな潜水艦の艦尾の、小さなスクリューが小さな泡をたて、水に沈んでいきます。
螺旋を描いて 湯船の底まで沈んでいきます。
やがて、浴槽の底に静かに着底。
小さな魚雷発射管から、二つの泡粒発射され其れを合図に
ブリキの潜水艦 ゆっくりと再び水銀潜水艦にと。
艦は徐々に湯舟の底に 減り込むように沈み始めました。
やがて小さな潜望鏡だけが 浴槽の底に突き出て見えました。
潜望鏡、湯舟の向こうの壁目がけて進みます。
そして、潜望鏡。 壁の中に消えて観えなくなりました。
頭の中の何処かで、桃子と桜の甘えたような鼻で鳴く声
確かに聴こえて来ました。
風呂場から出て 台所の椅子に座り
酒の呑み直し しました。
だけど、酔いは再び来ませんでした。
代わりにね 涙がね ゆっくり頬から堕ちました
私の心にね、堕ちました