(望郷)
走り出したら、胸の中に溢れ出る人を殺めようとする覚悟は興奮となった。
止め処となく暴れるように胸の中イッパイに広がり続けていた。
荒く息をしながら苦しさ紛れに見上げれば、秋がもぉ直ぐ其処まで来てるよぉな
空気が和らいだ青く透きとおった高みに、夏とは違う乾いた眩しさの陽がありました。
血で赤く濡れていた拳をズボンのポケットから引き抜く。
指を赤く染めていた人の血は乾ききり、赤黒くとなっていた。
硬くと緊張で固まった拳を幾度も太腿に打ちつけ、五指を無理やりにとひろげ視れば。
元は硬質な掌の中の小さな紙切符片。
血で濡れ汗で湿り汚れ、皺くちゃに為って縒れていた。
あの日、観れば荒げる胸の鼓動を鎮められかもと。
想いを組むように掌に爪が喰い込むかとキツク握りしめていた。
東京行き最終便、夜行列車の切符。
あの時に乗れるかもしれなかった、夜行列車の小さな切符。
今は、鉄の赤錆が所々に浮いた、古びれたピースの空き缶の底に。
「アンタ、血ば拭かんとね 」
「ヨカ、行きがけに川で洗うけん 」
「ウチが拭きたかと、手ば広げてくれんね 」
あの女(ヒト)手拭いを自分の唾で湿らせわたしの手を拭くとき、涙を堪え切れづに流していました。
わたしの掌の汚れた血で、自分の手を無理にと染めていました。
「切符ぅなくしたらいけんとよ、なくしたらっ!」
「わかっとぉ 」
「ぁっあとのことはウチはどげんでんするとよ 」
表の強い日差しは、暗い所から出てきた自分には、顔を上げられないほど眩しかった。
柳並木が頂上まで続く、緩い坂道途中のバス停では、バス待ち人の列に紛れ互いに他人の顔してた。
前の人の背中を見つめながらわたしは、無性に煙草が吸いたかった。
あの人はわたしの身体を押しのけるようにし、バス停の時間表を見る振りをしながら、
黙ってわたしの手の中に煙草の箱を握らせてくれた。
一本吸い終わる前に坂の下からバスが登ってきた。
煙草を足元に投げ捨て、靴先で未だ煙が昇る煙草を踏み消すとき。
わたし自身の心の中の大事なもの、踏み潰すような感覚に陥りかけた。
排気ブレーキの圧搾空気が威勢良く吐き出される音を唸らせ、ボンネットバスが停車した。
ボディ中央の折りたたみドアが開き、バス待ちの行列が動き出した。
わたしの前の人が、入口脇の取っ手を掴んでバスに乗り込むのを、ボンヤリと観ていた。
使い込んだ黒革製の小さな平べったい乗務バック、細革紐で首から腹前にと提げたバスの車掌゛が云ってきた。
「乗らんと 」
背後のあの女(ヒト)が腰の辺りを押したので、バスの踏み段を登った。。
一番後ろの席に座ると、隣の席にあの女が座ってきた。
直ぐに手を握ってきたので、キツク握り返すと小さな声で言いました。
「痛かとぉ 」
ふたり、暫く無言で車窓の外の街並みを眺めていました。
幾つかの信号を抜けると、ケタタマシイサイレンを響かせる警察車両と擦れ違いました。
サイレンに反応し、互いの顔を見合うと、あの女は蒼い顔をし何回も小さく頷いてた。
バスはつづら折れの道を登り切ると、頂上のバス停で停車した。
賑やかに談笑するハイキング姿の一団が乗り込んできた。
後ろのわたしたちの席近くまで、乗り込んできた賑やかな人らに囲まれるように占拠された。
遠くで狂ったように鳴く幾つもの緊急車両のサイレン音。開け放った車窓から。
坂の向こう側にとバスが下り始める。前の方から感嘆の声が。ふたり顔をあげる。
連絡船の船着き場や港に面した倉庫街などの街並みが広がってるのが見渡せた。
その向こうに陽を反射し、美しい輝きを映す蒼い海が観えていた。
わたしの左手は痺れかけていました。
「力ば抜かんか、痺れとるけん 」
キツク顎を結んだあの女の横顔、視たら、凄惨なほどの美しさだと想いました。
「ウチは抜かんとぉ 」
「・・・・・・よか 」
下り終え、繁華な港街の中にと入ろうとしたら、道が塞がれておりました。
わたしの手を握るあの女の手、さらにと力が籠められてきました。
わたしは手を振りほどき、隣のあの女を押しのけるようにし通路に飛び出た。
後部非常扉の開閉ハンドルのプラスチック覆い、左肘で突き破り右手でハンドルを押し下げた。
非常ブザーがケタタマシク鳴り響き、背中の向こうで人の悲鳴が湧く。
バスから飛び降りた。表通りから路地裏にと駆け込んだ。
背後で警官の怒声やホイッスルが鳴きながら追いかけてくる。
前方から来ていた、女性が乗っていた自転車を突き飛ばしてかわす。
何処をどう走って逃げたのか、此の街の地図に疎かったわたしには全く判らなかった。
何処かの四辻で右か左かと迷った。間々よと左の角を曲がり走った。
路地から抜けたら直ぐに走るのを止めた。パトが停まっていて、後部座席にあの女が居た。
顔見知りの刑事が近寄ってきた。
「どないするんや、もぉえぇやろ 」
わたしは若いころ、つまらぬことで人を殺めました。
鋭い得物を人の身体に減り込ませた時の、匕首握った掌の感触。
無駄に長生きしてきましたけど、消せませんでした。
長い刑期を勤め終へ、雪降る冬に刑務所から出てきたら、粉雪を肩に白く積もらせた。
定年をトオニ過ぎた、顔見知りの老いた元刑事が、雪が積もった通りに立って待ってくれてた。
「これや、還すで 」
タクシーの後部座席で白い衣に包まれた、小さな骨壺。頂きました。
あの女が、わたしの掌の中にと。