【 rare metal 】

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あの時代

2008年05月28日 13時22分22秒 | トカレフ 2 
帝国ノ終焉  


【滿洲國】

満州国元号
 大同 1932年3月1日~1934年2月28日
 康徳 1934年3月1日~1945年8月18日

大同元年(1932年) 国号を満州国と制定
康徳元年(1934年) 愛新覚羅溥儀満州国皇帝即位
康徳12年8月18日 皇帝溥儀退位宣言 満州国崩壊


康徳12年8月(1945年) 昭和20年8月
 盛夏 太平洋戦争末期

国境の向こう側では。

歴史の中に埋没し、幻となって消え去ってしまった大陸の国、満州国。
その満州国の北方、赤色革命で誕生した ソビエト社会主義共和国連邦との国境線は、
亜細亜大陸の東方、日本海へと続いておりました。

先の第二次大戦中 ソビエト連邦は、欧州戦線でナチス独逸軍との戦いに勝利し、
自国の戦争は終焉を迎えたにも関わらず、強大な赤い軍隊を祖国に凱旋さずに、
満州国との国境線近くにと大移動させ、大日本帝国との戦争に備え始めておりました。

ナチス独逸軍との数年越しの激し戦闘で、飛行機、戦車などの近代兵器による戦争とはどのようなものかと、
十分過ぎるくらいに豊富に学んだ赤い国の赤軍兵士たちは、長期に渡る過酷な戦いで疲弊していたので、
漸く故郷に帰れると思っていましたが、欧州戦勝利に酔いしれる間もなく、戦闘で使用した武器弾薬などの、
近代的兵器や莫大な軍需物資と共に、欧州と亜細亜を結ぶシベリア鉄道の貨車に載せられ、
遥か東方の、ソ満国境付近や日本海の北方、樺太方面へと大移動をさせられていました。


当時、満州国北の守りは、大日本帝国陸軍の関東軍部隊が担当していました。
長い国境線を挟み対峙するソビエト連邦は、日ソ平和条約が締結していても満州国存続の脅威だった。
故に関東軍は帝国陸軍の中でも、各種兵科数の多さや、多種多様な火器類の兵装など優遇しされ、
対ソ戦に備えた最新式の戦車など近代的兵器を装備をし、本土の陸軍部隊より軍備が整っていた。
軍事訓練も、国境防衛戦だけに限らず、ソビエト領土に侵攻する事も視野に入れた激しいものでした。
だが当時の世界各国陸軍の軍事力の状況は、帝国陸軍の軍部が予想するようなものではなく、
戦車や火砲などの兵器を造る鉄鋼だけを見ても、資源を輸入に頼る国の装備する兵装は、
一部を除き世界の水準には達しない兵器が多く、其れを装備するにも数が少なすぎるのに、

我は無敵だ世界最強の軍隊だ。 ッと 関東軍は自画自賛していました。

太平洋戦争開戦時、帝国海軍の米軍ハワイ基地奇襲作戦成功と、其れに呼応した、
南洋諸島攻略戦と、東南亜細亜各国での勝利の勢いに乗る帝国陸軍でしたが、
太平洋戦争が開戦する以前から軍部には、懸念するものがありました。
其れは、赤色革命成功で台頭してきた共産国家の ソビエト連邦の存在でした。
軍部は近い将来、対ソビエト戦は必ず勃発するであろうと想定し、傀儡国家満州国北方の、
ソ満国境付近で、数次にわたる関東軍軍事演習を実施しながら軍備を整えていました。
演習や軍事教練で鍛えられた若い現役兵士が勤務する、精強無比だと豪語する、
精鋭部隊が抽出されては、続々と南太平洋の南方戦線にと、移動させられます。


物量に勝る連合軍相手の太平洋での戦いは、日本軍が予想もしなかった激しい消耗戦でした。
戦争を遂行するための資源に乏しい日本は、次第に劣勢状態に陥り戦況は悪化する一方。
軍部は悪化する戦線を立て直したかったが、日本軍は太平洋と亜細亜全域に戦線が広がり、
其の為に南方に回せる戦力が枯渇状態で、如何したものかと熟慮の結果、白羽の矢が立ったのが、
対ソビエト戦に備え軍備が整っていた満州国防衛部隊の関東軍。

太平洋での戦線維持と、あわよくば攻勢に出んものと関東軍精鋭部隊が増援の為に、
対ソ連戦に備え備蓄していた軍需物資と共に抽出され、南方にと移送されます。
だが部隊を乗船させた輸送船が、消耗戦線に到着するまでの航海中に敵潜水艦や爆撃機の攻撃に遭い、
数え切れないほどの船舶と共に、数多くの陸軍の精鋭部隊が貴重な増援物資と共に、
南海の深い海底にと、兵士の無念な悔しさ噛む想い諸共沈んで逝きました。


戦争も、日本軍が緒戦の勝利で我は無敵だと思い上って酔いしれている間に、
連合国は初期の敗退を戦訓として取り入れた戦略と、亜米利加国の豊富な資源と、
それを活用しての、当時の日本では考えられえないような、高度な工業生産能力全てを、
戦争遂行に必要な物だけを製造するように絞り、最新式の電波兵器や航空機など、
莫大な軍需物資を製造し、連合国軍は強大な軍事力を持つにいたった。
開戦時の敗退し続けてていた、弱体な連合軍とはマッタク違う軍隊にと、変貌していた。

物量戦で挑まれると後が続かない日本軍。報復的攻勢作戦で挑まれては負け続け、
次々と南洋諸島の島々や、東南亜細亜の占領地を陥れられていました。

軍事目的に利用できる資源が限られていた日本。
占領地からの資源の輸入も、敵潜水艦などの徹底した妨害で阻止され、
物資豊富な連合国相手との消耗戦が長引けば、戦況も悪化し劣勢状態。
次第に追い詰められた軍は、転進と称しては占領地から撤退したり、
戦線を維持する為に派遣される増援部隊や物資の輸送も阻止されては、
島に上陸侵攻してきた米軍に対し、守備隊兵士全員の玉砕戦でしか対抗できなかった。

満州で備蓄していた大量の軍需物資は、激しい軍事訓練で鍛えられた部隊と共に、
南太平洋戦線に移動させられ、無敵皇軍だったはずの関東軍は段々と見る影もなき、
末期的見掛け倒しの張子の虎にと御変身。
為に満州国北の守り、ソ連邦との国境防衛線は、ズタズタの細切れ状態。

綻びダラケの隙間ダラケ。


南方に移動しないで満州に居残った部隊の国境守備隊では、兵士の定員割れも甚だしく。
進入してくる敵機を邀撃し、防空と制空権確保に努める戦闘機や爆撃機などの航空機。
満州の広大な大平原での陸上戦に用い、大いに貢献する筈だった虎の子の戦車などの車両。
長い国境線の重要拠点に構築された要塞や、守備隊陣地に据えられ北方のソ連軍に対し、
睨みを効かしていた大砲などの重火器類は取り外され、その殆どが南洋の消耗戦線にと抽出され、
貨物輸送船での航海中に攻撃を受け、兵員諸共撃沈させられていたので、
満洲残留部隊の戦争に備える兵装などの軍備は、お粗末極まるような状態でした。

それでも根強く、我は無敵だと表向きには豪語していた関東軍。

実態は精鋭なベテランの現役兵士も数少なく、戦う為の兵器などの軍備も整っていない、
中身は、マッタクの丸裸の丸腰状態。
欧州戦線で、ナチス独逸軍相手の激烈な近代戦に勝利した赤軍相手では、
マトモニ戦える、本物の戦争に通用するような、精強精鋭な軍隊ではなかった。


戦争も終焉近く為ってきますと、戦いを遂行するのに必要な戦略物資が不足してきます。 
兵士などの人的資源も例外じゃぁナク、兵士どころか農夫、漁師、工場の労働者など、
総ての産業の働き手が枯渇し、それを補うことも困難になります。
その残り少ない働き手までもが軍隊に徴用されれば、必然的に労働力が手薄になり、
代わりに未成年者の女子らが勤労奉仕隊となり、工場などで労働を担います。

ソ満国境を守る多くの守備隊駐屯地でも、次第に活きの良い若い現役兵士は居なくなり、
自軍の兵員割れを遺憾ともし難くなった日本軍、間に合わせの員数合わせの為、
軍隊勤務を既に一度は勤めて退役した中高年層を再召集し、それでも不足するので、
招集年齢を引き下げ、幼顔の若年者まで臨時徴兵していきます。
満蒙開拓民団の、年配の男衆たちまでが現地応召させられて、老兵に。
その息子たちや甥っ子の、若年層の男子まで大慌てで招集した、幼年兵。
それらのニワカ兵士を無理にと、国境線の守備隊陣地に兎も角送り込んでの緊急派遣で、
皆は慣れぬ軍隊勤務に服務させられ、残り少なくなった現役兵と共に陣地に籠ります。



康徳12年8月(1945年) 昭和20年8月 盛夏 

敗戦間際に、ソ満国境守備隊陣地で任務についていたのは、臨時応召のニワカ兵士ばかり。
緊急事態で軍事教練や訓練など間に合わないからと、満足に戦い方も教えられず。
兵士に与えられた個人携行する武器といえば、旧式の小銃。
その銃も兵士全員に支給するほどの数も揃わず、銃に込める弾薬も不足していました。
兎も角、後から物資は必ず送ると空約束し、大急ぎで国境の守備任務に着かせます。
大陸の酷暑な八月には絶対必需な飲料水や、体力を維持する糧秣も十分に携行させず。
軍需物資の不足は、死に物狂いの敢闘精神で補って戦うのだ!
っと、無茶な訓示を言い聞かせては、国境の守りにと送り出していました。

近代戦は、精神論などマッタク通用せず、鋼鉄と其れを破壊する火力の融合なのだと。
当時の、此の国の軍隊では、マッタク教えてはくれませんでした。 

無理無茶な戦争の代償はいつも、何も知らされない者が背負わされます。
その払いきれないほどの重たいツケ、偉い人の誰もが責任を執ろうとしません。
逃げ場もない戦場で、無念を飲み込んで黙ることしかできぬ者が流す己の血と、
我の肉体の破壊とで賄い、無理にと補わされて、イチ個人の人生がお終いです。



ソ満国境近くの開拓民団村、近くには守備隊駐屯地が在る。

働き手の男衆を根こそぎと言っていいほど、軍隊に採られた多くの入植地では、
男衆が出征したあとに遺された家族の者、女子供、老人らが酪農や農作業をしようと。
だけど、頼れる男たちが居ないことには、どう頑張っても無理なことでした。
満州人を臨時で雇ったり、中国人農夫を手配しナントカ農業経営を維持しようとしました。
ソ連邦との国境線に近い僻地の開拓民団では、日が暮れて一日の農作業が終わると、
開拓民団の寄り合い所(集会所)に集まっては、日本に戻ったほうがいいのだろうか、
戻るならいつがよいのか、其れとも此のまま此処に留まるかと、
幾ら話し合っても結果が出ない、堂々巡りな相談を毎晩続けていました。


八月になる少し前から、未だ明けぬ夜明け前になると、農家の屋根スレスレや、
開墾畑を翳めるような低空飛行で、闇に溶け込むような黒色複葉機が飛んでいた。
八月に入ってからは明るい昼間に飛んでいた。

人々は、慄きながら言います。
真夜中に北の方角から、なにか得体のしれない大きな音が聞こえると。
音が煩くて、眠れないときがあるとも。



慄く望まぬもの、突然目覚めたように襲ってきた。




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