【 rare metal 】

此処 【 rare metal 】の物語や私的お喋りの全部がね、作者の勝手な妄想ですよ。誤解が御座いませんように。

想う心 黄昏

2008年06月06日 10時39分13秒 | トカレフ 2 
  


満州暦 康徳12年

 8月初めの頃 

ソ連邦との国境線から南に在る、関東軍国境守備隊駐屯地が在する町。


町から北の方角を眺めれば、遥か地平線上には、夏でも白い雪を冠みたいに頂く
土漠色をした峻険な山の連なりが望めます。其の山脈の向こう側。
切り立った断崖に挟まれた深い谷間が、満洲国とソ連邦の国境線になります。

谷と言っても、日本人が想い描くような狭隘な谷間とは違う、向こう側の崖までの距離、
数百メートルはあるような深い渓谷が、大きく蛇行しながら何処までもと続くものでした。
谷底を流れる河の水は冬には厚く凍りつき、夏になると乾ききった涸れ谷にとなっていた。
大昔から涸れ谷の季節になると、山脈の北と南から大勢の人々が交易の為に、
谷底を通って行き来しては盛んに交流していました。
時には南北の民族間に紛争が生じれば、此の谷は重要な戦略道路となった。

大日本帝国陸軍軍部は、北のソビエト連邦と戦争状態に陥ればソビエト軍が此の谷底を利用し、
南の満洲国にと侵攻してくるだろうと予測し、山脈の険しい自然の要害を利用し、
莫大は費用と長年月を費やし築き上げたのが、国境線に沿った幾つかの防衛要塞群でした。
硬い崖巌の内部には、当時としては最先端の掘削土木技術の粋を結集し、
通路や兵員の居住区、弾薬庫などの軍事施設が蟻の巣のように穿たれた。
敵からのアラユル攻撃を想定し、ドノヨウナ攻撃にも耐えうる難攻不落な堅牢な造りの山岳要塞だった。
要塞には大口径の要塞砲が対岸の山の向こう側、ソビエト領を睨むように据えられていた。

要塞部隊への兵員の補充や交代、飲料水や食糧、軍需物資などの搬送は山脈南の麓までは、
軌道幅が狭い線路が先の国境守備隊の町から敷かれていて、小型の豆蒸気機関車で繋引された、
物資運搬用有蓋トロッコ列車で運ばれていました。
国境守備隊駐屯地の町は、山岳要塞への弾薬や軍需物資などの重要な兵站基地で、
町の色々な建物や施設が、要塞部隊兵員らの休養や、慰安の為の役割を担っていました。


町と駐屯地の間には、遥か南の、満州鉄道本線からの支線、単線鉄道の線路が横切り、
レールは駐屯地敷地内の駅構内に引き込まれていた。
駅舎の建物は、当時此の辺り一帯を支配していた某軍閥将軍の屋敷兼司令部だった。
露西亜が赤化し帝政が崩壊する前の、白系露西亜人建築技師がワザワザ招聘され設計した、
欧州風な、素焼き赤煉瓦造りの、僻地の駅にしては珍しく洒落た造りの建物だった。
其れを後になって関東軍が、国境要塞建設の秘匿と後方支援の兵站基地を設ける為、
匪賊討伐と称し軍閥を掃討し、建物と周りの土地を強制接収したもので、
外観は以前の儘に内部を補強するように遣り替え、軍事目的に転用した。
中の造りは有事が発生したさい、防衛陣地として利用できるよう頑丈に造り替えられた。
線路は遥か南方の満州鉄道本線から、茫漠たる原野を切り開いて此の地まで敷かれていた。

駅構内のホームの造りも、最前線の駅ならではで、当時最新式だった国産戦車の鉄道輸送のおり、
積み下ろしがし易いように普通の駅のホームりは随分と広く造られ、戦車の重量に耐えうるものだった。
単線路を挟んで両側に併設されたホームは、戦車などの軍用車両が貨車から降ろされると、
直ぐに駐屯地の中や、北の前線に向け移動し易いようにと、ホームの両端は緩い傾斜の坂道だった。
ホーム全体は、今は赤錆が浮いているが、ココら辺りがまだ開墾される以前の原野と同じ、
泥漠色に迷彩塗装されたブリキ葺きの屋根に覆われている。

守備隊の建物群や駅舎とは別棟で、機関車の整備や荷物の搬入所を兼ねた、
同じように屋根に迷彩塗装を施された大きな建物が何棟も併設されていた。
各棟の中には、厚い鋼板で装甲が施された装甲列車が収納されていた。
車両の前後には、小口径砲が搭載された砲塔が据えら、機関銃や小銃などの銃身が、
側面の銃眼から針鼠のように突き出せるようになっていた。
一番大きな建物には、長い装甲列車を前後で繋引する為に、
大陸鉄道専用の大型装甲蒸気機関車が、二両収納されていた。

警備隊隊員の宿舎なども付随していて、他にも軍需物資倉庫などの建物群、
周囲に高く土嚢を積み重ね、天井にも土嚢を積み上げた掩蔽式の待避壕が観え、
鋼材を櫓状に組んだ、無線の電波塔を兼ねた背高い物見櫓の上では、
空に向かって伸びた一本の旗竿の先に、一流の吹き流しが穏やかな大陸の夏風に吹かれ、
舞うように揺れているのが、広大な駐屯地の周囲を取り囲む、有刺鉄線鉄条網柵越しに覗えた。

町や駐屯地付設して、軍事教練と閲兵時に使用する大広場の周囲には、
開拓民団が開墾した耕作畑の畝が、見渡す限りに広がっていた。
町の郊外には、開拓民が此の地へ入植する以前から、原野を踏み固めたように整地した、
陸軍管轄の飛行場があり、同じように飛行場の周りを取り囲むように幾つかの、
開拓民団村や酪農牧場などがありました。

飛行場は有事の際などに備えての緊急事態使用が目的で、普段は軍の高官が、
時折視察に訪れたりしたときと、月に数回ほどの連絡便が飛来するだけでした。
上空から飛行場を望めば、滑走路がハの字に並んでいます。

町には民間の建物は殆どなかったけど、医療設備の整った陸軍病院や兵士慰問用の、
ケッコウな和風造りの観劇場と軍委託の慰問団宿泊用の旅館や、酒保などが軒を並べていて、
僻地の町とは思えない、賑やかな街並みを呈しておりました。

町の設立当時の状況は、国境要塞群の造営整備中で、兵站基地としての役割と、
要塞群建設の秘匿防諜と機密保全の為に、国境防衛策の一環として創設された町でした。
軍が駐屯地の周りに開拓民団の入植を許可し、開墾を勧めたのも、
駐屯地の機密漏洩防止が一番の目的でした。
開墾事業には別の見方もありました。当時軍部の方針では、食糧などの物資は現地調達が原則で、
開墾事業を勧めたのも、現地部隊自給自足の方針が基になっていました。
守備隊の兵隊には、多くの地元開拓民団の壮年男子が現地徴兵されていたので、
入植者の身内の者が多かった。
太平洋戦争が勃発するまでは、春秋の農繁期には軍事訓練の合間に農作業に従事する、
イワバ屯田兵のようなものでした。



開墾された緑の耕作畑が何処までもと広がり、其れに囲まれた国境守備隊駐屯地の町。、
開墾畑を遠目に望めば、ワザワザ本土から苦労して連れてきた骨格逞しい農耕馬が、
農婦に従って畝を耕すのが窺え、時折、馬のイナナキが風に乗って聴こえてきます。
平和で長閑な雰囲気に溢れたような、何処までもと広がる耕作畑の風景でした。

耕作畑の長い畝の中では、農作業に没頭する農婦が、地面に座るのかと腰を低くし、
丸めた背中には夏の眩しい太陽が焦がすかと照りつけていました。
野良着の背中は吹きだした汗で黒色に濡れ、後頭部を日よけの支那の三角帽子が載ってます。
周りをスクスクと育つ緑の作物に囲まれた農婦は、何も考えず、忙しなげに作物の手入れをしていました。
だけど動かす手元とは関係なく、知らずに脳裏に浮かんできます。
最近民団の仲間内で噂し合う気になることが。
 

「噂はウワサやろうからね、とぉちゃんも息子たちも、キット大丈夫なんだわさぁ 」


知らずに呟くと知らずに頷き、額から流れる汗玉は、頬から顎先を伝い地面にと垂れます。
作物の緑の汁と、泥で汚れた手元には、汗とは違う雫も落ち続け、手の甲を濡らしていました。
真夏の朝は、夜が明けるのが早かったけど、まだ暗い内から起きだし農作業に勤しみます。
昼間の眩しい日差しの下、躯が猛暑な熱気で包まれると、知らずに家族を想う心を、
暑さが惑わしながら、マスマス農作業に没頭させ忘れさせよと。


だけど、作業が終わる日暮れが近づくまで、何度も何度も、胸の中で呟いていました。


此処の入植地、働き人はご婦人と老人。っと、幼き子供たちばかり。
頼れる男手のいない、限りなく不安な毎日が続いていました。



其れも、もぉ、終わろうとしていました。





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