月の明かりが射しこまず、マッタクの暗闇ならば、キット闇は優しさで包んでくれたんだろぉぅ。
此処から何処かにと逃れることもできず、タダ床板の上で横たわることしかできない。
心には、遣りきれぬ想いだけがフツフツと湧いてきては悔いとなり、
今の状況に陥った境遇を嘆くことも叶わず。
聞きたくもない部屋の中の会話が聞こえてくるが、耳を塞げない。
胸の中は諦めに支配されだし可なり滅入り始めた思考じゃぁ、
聞くなッ、ヤメロッ! ット自分に言い聞かせてみても、
何でや?ット 求める好奇心を鎮めることもできずに、
次第に興味が湧いてきて、ジット動かないフリで聞き耳をたてていた。
あの時の状況は、今でも時々、想わぬ時に頭の中に鮮明に蘇ります。
自分が求めずとも、記憶から遠のくものはなく
忘れるものは想いだしたくもない、昔の忘れ形見の片鱗だけかも。
窓から月光の冴えた銀色な静か光が斜めに降り注ぐ。
其の光景を背景にし、異人が横たわる寝台を囲みながら酒を酌み交わし、
異人と同じ言葉で喋り合う話の内容はマッタク理解できず、
何処か異次元な国の言葉にしか、自分には聞こえなかった。
「ぁんたぁ、飲むかぁ?」
ヤット聞こえた知り言葉が、誰に向けられたものか判らなかった。
「コレ、かッキャン・・・・ 」
ット、床板を軋ませながら近寄ってきた。 バァさんが。
床板に頬を載せ眺める低き視界は、横向きな、其れなりな感じで観えていた。
銀色な窓からの月明かりを背負い、光の陰の中でバァさんの影が蹲る。
そして、バァさんの影の中に透明な液体が満たされた、ファショングラスが浮かんでいた。
「ワイやったら、いらへんで 」
「遠慮せんでえぇんや、飲みんか、なッ 」
「喉ッ乾いとらんッ! 」
「水やないがな、ホレ、露西亜の酒や 」
自分、慣れた感じで首を持ち上げられ、唇に硝子が触れた。
「ぃッいらんッ!」
っと言おうとしたら、開いた唇の隙間から液体が流れ込んだ。
直ぐに口から出そうとしたら顎下に手が添えられ、持ち上げるようにされて口を塞がれた。
吐き出すこともできず飲み込まされたら、再び咳が出かけむせる。
傷んだ咽喉の粘膜が、火の酒の熱味で責められた。
「我慢しぃ!ッ呑むんやッ 」
喉の奥から熱せられた塊が食道を焼きながら下り、胸の中を通って胃袋にと。
胃粘膜壁が急速に熱で覆われるような感覚がし、直ぐに腹の辺りに暖かさが貯まり始める。
自分、唇のグラスを思わず払い除けようとした。
「ナニするねんッ!」
振り上げ途中のワイの手首が強い力で掴まれた。
バァさんに顎を掴まれていたので、目玉を動かし上目使いで視る。
医者が中腰で屈みこんでコッチに片腕を伸ばし手首を掴んでいた。
「おとなしゅうに飲んだらえぇねん 」
ット、ワイの顔を覗き込みながら言う。
ロイド眼鏡の白っぽく光る二つのレンズ、ワイを諭すように頷く。
言うことを素直に聞くしかできななかった。 だけど、不思議やった。
我慢して露西亜の酒を飲み下していたら、不思議やった。
あれほど咳きこんで、激しく感じていた喉の痛みが消えてゆく。
「どんなんや?痛みは?」
掴まれていたワイの手首が放されたので、バァさんのグラス持つ細い手首を掴んだ。
ワイの手にバァさんの掌が添えられると、焼けつく味の次に来たのは、
痛みを熱さな酒で包んで、痛み止めされたような感覚でした。
医者が、ワイの背中を壁に凭れるように上躯を起こしてくれた。
壁際に胡坐をかくように座ると、バァさんがワイの掌にグラスを握らせ言う。
「コレ、持っとき 」
「足らんかったらゆうんやで 」 ット、医者が言いながら、
ワイの目の前の床に、露西亜の酒が半分くらい詰まった透明の瓶を置くと寝台に戻る。
瓶の中では、透きとおった液体が月明かりを映し、煌めき揺れていた。
バァさん、煙草に火を点けると、喋った。
「ぁんたには、迷惑バッカシかけてもたなぁ 」
ッテ喋るとき、言葉と一緒に煙が口と鼻から出てきて、自然な感じでワイの口元に煙草を近づける。
ワイ、当り前な感じで唇を薄く開き、煙草を銜えた。
サッキ大咳した後なので用心しながら少し煙を吸ったら、大丈夫だった。
自分、訊きました。
「どないなん? 」
「どないって? 」
ワイの顔の真ん前近くで静止していました、バァさんの顔。
バァさん、立ち上がりかけの中腰姿勢のまま逆訊きしてきた。
訊きかたは、歳いっても綺麗な切れ長の目を、尚更細めに眇めながらだった。
ワイの目玉を覗き込んでた顔が少し離れると、バァさん再び腰を下ろした。
ワイと同じように床に胡坐座り。
≪バァさんの面、あの時は部屋が暗かったし、自分も頭が酒精で遣られかけていて、
アンマシ窺がえなかったんやけど、今想い出すとナンヤぁ妙に、妖しいぃ雰囲気漂わせていた。≫
「ワイな、なんも解らとコのザマ(様)やねん、もぉぅ勘弁してくれやッ なッ!」
「ナニが解らないんよ ? 」
自分、突然気づきました。部屋の中が静かなのを。
医者も、ママぁも、異人までもが、黙りこんでジット聞き耳を立てることに。
「訊いてどないしますねん?」
「どないするって、訊かなわからんやろ、ナニかいなワイだけが蚊帳の外なんか?」
バァさん返事の代わりに傍らの瓶を掴んだ。
ワイが床に置いた飲みかけのグラスに、露西亜の酒を注ぎたした。
ナミナミと溢れそうなグラスを口元まではユックリと運び、唇が触れると後は一息で飲み乾したッ!
バァさん、俯き加減で銜えた煙草に、燐寸の火を近づけると言いました。
「ホンマニ聴きたいんやな? 」
「訊きたいがなッ! 」
指先で摘まんだ燐寸の軸の黄色ッポイ炎が、喋る息で揺れていました。
小さな炎に照らされたバァさんの顔、歳には似合わん、妖しさでイッパイやったッ!
数回、大きく胸を膨らませながら煙草を燻らせると喋りだした。
「あんたには、あの時代がぁ・・・・・ワカランやろなぁ 」
「ジダイぃ? ッテなんやネン? 」
自分、間違いを犯しました。
世の中には、訊かんで良いもんならば、聴かずに置いとくモンも在る。
ッテ、此の時には知る由もなかったから。
自分、バァさんの噺の途中で再び、床に寝転びたくなっていました。
何も聞かず、何も知らなくて済むものならば、唯、ヨッパラッテ眠りたかった。
だけど寝れば、月の銀色の光の陰で横たわり、周りを薄暗さで満たされて寝れば、
其処はマルデ、負傷者で溢れ返った、阿鼻叫喚ナ状況の野戦病院の中で、キット横たわっているのだろう。
長い夜が、永久(トワ)な夜になりました。