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戦国英雄イレブン データー

2024年03月05日 13時16分57秒 | 戦国時代
 テレビで近頃、最強の城ベスト**、最強の戦国大名**などの番組が増えた気がする。
「歴女」「刀剣女子」などの言葉が流行り、若い女性の間にこうしたブームが起こったのは嬉しい限りである。
今、「甲越軍記」を現代語に書き直す作業をしているが、考えてみれば戦国大名というのは今の我々が住む日本国の原型を作った人たちなのだ。
長い平和な貴族社会平安時代が平氏、源氏の武士の台頭で終わり、それ以後、徳川家康が日本を平定した1615年までの四百数十年間、様々な大名が出てきて戦いに明け暮れ、滅び去った大名の方が多い。
その中で1570年頃には勝ち抜いた大名のベストエイトが出そろったと言って良いだろう。
それは上杉、武田、北条、織田、徳川、(豊臣)、毛利、島津だ
豊臣は織田の家臣で、後継者となったが日本統一という偉業を達成したから、外すことはできない。 これがベストエイト
この他に力及ばずベストエイトに入れなかったが、やはりエイトに準ずる業績を上げた三家がある。
伊達、今川、長曾我部である。 彼らは同じ時代を生きたが、その年齢差は大きい、各家は代々続いた家が多いが、ここで言う英雄は、その家をもっとも大きくした当主の事である。
年齢が若い順に書いてみるが、伊達政宗は一人はるかに若いので、二番目に若い徳川家康の1歳時を基準とする(家康が1歳の時、他の英雄は何歳だったかということ) 名前は知っていても年齢差を考えることはあまりないと思う。


           戦国英雄イレブン
(最大領土=現代の都道府県、北海道、沖縄は除く)
伊達政宗マイナス24歳(宮城県、福島県)
*徳川家康にもっとも警戒された男、秀吉の台頭が無ければ奥州、北関東一円を領土にした可能性あり) 

徳川家康1歳(日本全国平定260年の徳川幕府を作った)
75歳の長寿を保ち、ついに日本を平定した

長曾我部元親3歳(高知、徳島、愛媛、香川)
*四国統一を成したが、財力、兵力で織田、豊臣には太刀打ちできず)

豊臣秀吉5歳(日本全国統一、朝鮮に侵攻して一時占領)
*信長の死後、家臣団同士の戦いに勝ち抜いて主役に躍り出る、抜群の知恵と勇気で百姓出身ながら日本を統一した。

織田信長8歳(岡山、兵庫、鳥取、京都、大阪、奈良、三重、滋賀、福井、石川、富山、岐阜、愛知西部、長野、山梨、群馬北部)
*本能寺で家臣明智光秀のクーデターで殺害された、もしここで生きていたなら秀吉以前に日本統一を完成させた筈、秀吉、家康の出番なく、日本の歴史は大きく違っていたはず。 世界観を持っていたのでフィリピン、インドまで進出した可能性がある。

島津義久9歳(鹿児島、熊本、宮崎、長崎、佐賀、福岡、大分一部)
秀吉に対抗して敗れたが日本の最果てと言う立地が幸いして、勢力を持ったまま生き延びて明治維新の立役者となる

上杉謙信12歳(新潟、富山、長野北部、能登、関東全域の支配権獲得)
領土拡大の意欲はなく、専守防衛に徹して信州の豪族を助け、武田信玄、北条氏康との戦いに生涯を費やした。

武田信玄21歳(山梨、長野、静岡、群馬北部、愛知北部、岐阜北部)
戦国最強の男、同じく最強の男上杉謙信と前半生を戦い続け、上洛のチャンスをロスした、これが無ければ10年早く織田信長を攻めることが出来た。
武力、知謀に優れ、もし健康であったなら家康は配下に組み込まれ、織田信長も危うかった。

今川義元23歳(静岡、愛知三河地方)
*血統書付きの名族、信長に殺されるとは夢にも思わなかった
北条氏康27歳(神奈川、東京、埼玉、群馬、栃木西部、千葉北部、伊豆箱根)
*関東を占領したが息子が平凡で決断力と判断力に欠けて秀吉に滅ぼされた。

毛利元就45歳(広島、岡山、山口、福岡東部、島根、鳥取、兵庫、瀬戸内海)
長男が早世、孫は平凡であったが元就の二男、三男が毛利家を守った、家康に敗れて、260年山口県に押し込められたが明治維新の主役となって明治新政府の中核となる。

結果として、信長、秀吉、家康は一人と考えても良い経路をたどった
同盟者、主従の間柄だったからだ、秀吉と家康は一度本格的に戦ったが、信長の二男を間にワンクッション置いたのでいずれかが滅ぶ戦にならず、規模で勝る秀吉に家康が臣従したことで丸く収まった。
家康と北条氏政の人間の出来の違いがこれだった。

自らチャンスを潰したのは武田信玄だろう、信州は北信濃に構わず南部だけにして三河から尾張に進み、上洛は考えず織田信長だけに絞り、尾張の占領の為の戦なら大いに勝ち目はあっただろう。
それから上洛でも良かったはず、家康はこの時点で信玄に降参するしかなかったはず。
もっとも上洛後に何をするかと言えば、権威主義の信玄は足利幕府の再興に力を注ぎ、足利将軍の執事で満足したかもしれない。
天下統一の野心は無かったと思う、甲信は都から遠く、情報も最新のものは入らず、尾張や近畿の開けた土地に住む人間には結局敵わなかっただろう
信長が生き延びても、四面楚歌の信長であるから、いずれどこかで討ち取られる、すると秀吉がいずこかの大名に仕えて頭角を現す可能性は高い
また武田家に従属した家康も辛抱を重ね、10年後に信玄が亡くなれば、これまた頭角を現すであろう。
結局、最後は信玄より16歳から20歳若い家康と秀吉の覇者争いになっただろう。





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