去る 時田合戦においては武田が、最終的に勝利したが一万数千の軍勢を以て、景虎に見捨てられた死軍の長尾政景の僅か三千に翻弄されて 武田勢の重臣 小山田 備中守 討ち死に、さらに小山田左兵衛も伊地知大隅守と戦い討ち取ったが自分も 痛手を負った、帰国の後 様々な 治療をしたけれどかいなく 21日目についに 亡くなった
信玄は これを深く惜しみ、嫡子 小山田弥三郎信茂に家督相続を許したが、弥三郎は辞退した、けれど「代々の所領であればなんぞ相違あるべきかと信玄は 弥三郎に都留郡一円を変わらず与えた、弥三郎は 手勢二百騎の将となった。
そもそも 小山田の由緒を訪ねれば、 武田の先祖太郎信義 五代の後胤武田安芸守信宗は、 六郎安芸守時綱の嫡子であったが没落して甲斐の国を捨て、碓氷峠を越えて 上野から 武蔵に至り、滝山 というところに 彷徨っていると、 一人の 聖が追ってきた、 そして信宗の そばに近寄り 顔をじっと見ていたが「そなたは 何者であるか 」と聞いてきた
信宗は「我は甲州の侍で、 名もなきものである」 と言って 去ろうとしたが、 聖はなおも引き留めて「どのように見ても そなたは ただものとは思えない」 と言うので 信宗も聖に「御坊は当国の人か」と尋ねれば、 聖は頭を振って
「愚僧の生国は甲州である、 君のお姿を見るに 尋常の人とは 思われず 何か役に立つべきかと思い話しかけたのです、 そうであるから 何もかも隠さず申してください」 と言った
信宗は僧が同国の者と聞いて少し心を許して「甲州人であれば、 今は何をか隠さん、 我は新羅三郎九代の後胤、甲州武田安芸守と申す、わけあってこのように彷徨っている次第である」と言うと聖は 手を打って「 やはり、只者ではないと思ったが、 物語を承って 分かりました、今は悲しき身の上であれど 君の相を見るに、いずれ御開運の時がやってまいります、愚僧は甲州都留郡の 生まれで、 小山田氏を名乗り、おこがましくはありますが 桓武天皇の末流 にて平氏の者なり、君は本国の主になり、我が主君であります
いずれにしても愚僧を家臣としてお取り立てくだされば、身命を投げうって奉公いたします」
信宗は 大いに喜び「それならば、汝に頼みたいことがある、 我が国を去った時、 武田家の代々の家宝、「御旗楯無」(みはたたてなし)を人に奪われまいと 密かに甲州鹽の山の 大杉の根に埋めておいた、汝はそこに行って これを 持ってきていただきたい」
僧は快く承ってやがて 甲州に行き、御旗盾無しの家宝を持って、 滝山に帰って 信宗に奉った
安芸守は大いに喜び、「 我が本望を達したならば汝に子子孫孫まで都留郡を与えたまうべし」と約束した。
後に 信宗は 甲州に戻り先祖代々の国を取り戻して治めた
彼の聖を召し出され、約束通り 都留郡を与えた。 これより都留郡に在城して 小山田と号し、 代々「信」の字を賜って今、 弥三郎を信繁と号す。
また 栗原左衛門尉も時田合戦で 深手を被り、 45日目に亡くなった
嫡子 左近進は二百騎の組を辞退したけれど信玄は許さず先代のまま続けるようにと言われたが、 左近進は硬くこれを 辞したので百騎だけ 今まで通り預け 残りの百騎を春日源五郎に預けた、 信玄は 左近進が神妙なりと褒めて、左兵衛尉(さひょうえじょう)に取り立てた。