天文十九年十二月二十日、武田晴信公は旗屋にお入りになり、足利より呼び寄せた桃首座、片側町の当松庵の両名に本卦を尋ねる
両僧これを承り、卦を占うに「君の本卦は豊かにして尤も宜しき御生まれでありますが、六ニの辞に云く、昼より以前は吉なれど昼以後には満ち欠けの動きあり、これへの御思慮なされますように」と申し上げる。
晴信は、これを聞いて「その儀に思い当たることあり、我は若年の頃より父信虎に疎まれて種々の危機に遭い、近年は長尾の大敵と雌雄を争い、その上、上野国を手に入れようとしたところ、北條氏康も望んでいることを今川義元に訴えて、今川からこれを妨げられた
日中以後に良きこと悪しき事、繰り返されるとあれば、晴信は入道して天命を恐れるべし
我はかねてより剃髪の志もあり、そのわけは一つには、世上の体を見るに、古き家の滅びゆくさまあり、わが武田家にも、その巡りがいつ来るともしれぬ
我が家は、新羅三郎義光以来、代々弓矢を取りて未だ家勢を落さずいるが、これを晴信の代で国家を失えば末代までの恥辱である
古の平相国清盛は疾にかかり身命を惜しみ、出家入道した
この晴信は天道を恐れて家名冥加の為に入道するなり。
その二には、人間の定命六十年と云う、しかる時、日中を三十歳として、昼以後三十年に我は踏み込んだゆえなり。
その三は、我は都から遠い甲州に居住して、君に仕えることもならず、官位昇進を望むことも恐れ多い、出家入道の身となれば、奏聞をもって大僧正にまでも進むべし
これらの理由で、晴信は薙髪するのである、また其の深い意味を申せば、世の人が知る通り、父信虎君を廃去し奉り、自立して国家を治めること、不幸の罪を万人に伝えて誹謗を免れようとする気持ちがある
論語は聖人の金言にして、孝道をもって本とすれば、我十八歳より以降、ついに論語に触れること無し、これは不孝の誤りを恥じるからである
然るにこれは父への恐れであり、急ぎ入道することを願う」
これを聞いた両名は筮竹をとって其の吉凶を占うと申して、桃首座は旗屋、当松庵は八幡宮にてその日に占えば、両方合して大いに吉事と出たので、晴信公は、大いに喜んで小松大和守を京都に登らせて、三条左中将実綱朝臣を以て、奏聞を経て、翌天文二十年二月十二日の申の刻、武田大膳大夫兼信濃守晴信入道は出家して、徳栄軒と号した
道号は機山、法名は信玄と名付け賜う、時に齢は三十一歳、玄は唐土にては臨済義玄、わが朝にては開山恵玄の玄の字をとり、長福寺の岐秀和尚なづけ参らせる。
これによって、皇都より勅使下向有りて信玄に大僧正の宣下有りて、法性院大僧正と申しける
この時、法体を仰せつけられて剃髪した人々には、原美濃守虎胤入道して清岩と号し、山本勘助晴幸は道鬼と号す、これは戦の鬼神になれと、晴信自ら名付けたのである
小幡山城守虎盛は日意と号し、長坂左衛門尉は釣閑(ちょうかん)と号し、真田弾正忠幸隆は一徳斎と号す。
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