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「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(199) 甲越 川中島血戦 26

2024年09月14日 18時52分17秒 | 甲越軍記
 晴信は直ちに動いた
「勘介の軍略を悪しきように言うのは、ひとえに軍事に暗き故である」と言って
長坂左衛門尉、石黒豊前守、五味新右衛門に命じて、三か条の書付を示して南部下野守を改易とした。

その一は、山本勘助が小身の身で城取、陣取りを語るなど信用ならぬと申す事
それは下野が武に疎いからである、周の文王が尊敬した太公望は大身の身であったか?

その二は、山本が兵法家と言うのに手傷を負うのは武術に未熟だからだと申したこと
それは下野が真の武道を知らぬから言う言葉である、兵法家が手傷を負わぬと言うことは無い、手傷を負っても相手を討ち果たすのが兵法なり
此度は勘助は咄嗟に石井藤三郎に棒をもって立ち向かい、これを組み倒した
たとえ、勘助がこの時、討たれたとしても誉なるべきを、そしるとは許せぬ所業なり

その三は、其の方は数々の手柄を申し立ててきたが、汝の武勇にあらず
春日左衛門、笠井備後守の手柄を汝の手柄のように申したのは、人の物を盗むに等しい
右、三か条をもって成敗(殺す)あるべきところ、山本が迷惑被るから勘助に免じて命は助けてやるから遠国へ去るべし

こうして南部下野守は追放されて流浪の身となった
七十騎の足軽旗本は諸将の配下に分かたれ、春日左衛門尉、笠井備後守は南部の重臣の家柄なので、南部に付いて浪人するところを、両人の勇武を惜しんで、押しとどめて山本勘助の組下に入れた。

南部は浪々の身となって、奥州会津に幽居して、後にそこで病死したと伝わる。

武田晴信は信州の松本、木曽、伊奈に同時に攻め込み乱暴を働いた
信濃の三将は急ぎ越後の長尾景虎に使者を送り、「急ぎご出陣されて、我らをお救い願いたい」と請う
景虎は、これに答えて、越後の諸将に触れを出して三十将、八千騎を引き連れて四月二十四日に信州小県に攻め寄せた。

近隣に放火、乱暴をしたのち、内山城の飫富兵部少輔の城を十重二十重に取り囲んだ。

長尾勢は息をもつかせぬ猛攻を行うが、城方も鉄砲、弓、大石を転がしてこれに抗う
しかし、越後の勇兵は少しも怖れず次々と攻撃を仕掛けてくるので、城兵は次第に意気消沈して、このままでは一日の後には落城するかに見えた
されども、城将の飫富兵部少輔だけは少しも怖れず、敵の動作を一心不乱に観察していた
そして、主だった将を集めて語った。




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