神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

昭和の暮らし 昭和33~38年魚屋編

2018年11月04日 08時48分11秒 | 時代検証

たった今、所さんの番組で「昭和30年の生活」を放映していた、懐かしく見ていた

番組では東京の生活なので、服装は当時の田舎よりモダンだった、でも家具や生活のための

道具は田舎と変わらない、ただ都会では35年くらいから電化製品が普及し始めるが、田舎は

39年東京オリンピック頃までは、こんな生活が続いていた

わが家は昭和32年に、父が5坪ほどの店舗の魚屋を開業した、私も中学生からは商売の手伝いを

始めて、中一の時には、イカやハマチ(私の地域ではフクラギという)の刺身は切れるようになった

手伝いは主に配達、魚をざるに盛る仕事、掃除程度だったが、父はアイデアマンで機械好きだったから

(戦前は旋盤や印刷機、農機具など機械を扱う仕事をしていた)市内でも先駆者的にいろいろな

機械を使った商品を販売した

その一つは氷の製造販売、近所の空き家を借りて、木製の製氷機を設置した

30cm四角で厚さ5cm程の氷が1回に10ヶほど出来る製氷機、タンクの中を苦い冷たい水が巡回している

ブリキの氷型枠に水を入れて、その巡回水の中に入れるのだが、落ちないように両端に引っかかりがあって

そこにはめ込むのだが10ヶに1ヶは失敗して、深い(と言っても50cmくらい)水に沈んでしまう、それを

拾い上げるのが冷たくて重くて辛かった、それが私の仕事で、夏休みには朝5時半頃からそれをやって

6時には新聞紙で包んだ氷を家庭に配達する、数は少ないからたいした仕事では無いが、自転車に

乗って農家の家に行く、所さんでやっていた木製の氷冷蔵庫がその家にある、家の玄関は開けっ放し

家の人はもう畑に行って留守、勝手に広い農家の居間ににあがって冷蔵庫の上段に氷を入れて帰る

支払いもツケで「あるとき払いの催促無し」(農家にだらしない人はいなかったけど)

安心安全、人間性善説の田舎暮らし、がちがちロックで他人を家に入れない現代とは大違いの田舎生活

 

夏、朝4時漁港にイカ釣り船が戻ってくる、ごく近海の海域で夜中から漁り火でイカをおびき寄せるイカ釣り

生きているスルメイカが次々に獲れて、漁港の市場で朝5時からセリが始まる

父はそれを競り落としてオート三輪で10km先のわが家まで戻ってくると6時、私はそれを待ち受けて

父の指示通り、「今日は8匹で100円」とかでザルに新鮮イカを盛る、もう近所のかあちゃんたちが、ザルを

もって買いに来る、当時は一家族は少なくても5人、だからイカは飛ぶように売れる

一段落すると、わが家も朝食だ「yottin、イカの刺身を切れ」と父が言う、どんぶりを5ヶ並べて(5人家族)

生きているイカを中学生の私が刺身にする、みなさんが食べているイカの刺身は切ったイカの身がきれいに

くっついて並んでいる(スーパーなどで)、ところが生きているイカの身は、切った先から身が縮んでいくので

身と身はくっつかずにバラバラになってしまう、だからバラバラなイカのみをそのまま丼に放り込み

わさびを乗っけて醤油をかけて、納豆みたいに箸で混ぜて、御飯のおかずにする

匂いもなにもない新鮮すぎる烏賊、ぷりぷりとした食感と甘味、今のイカは冷たい海であっても

寄生虫がついているが、当時のイカにそんなものはいなかった、高度成長時代からバブル時代の重工業の

飛躍的発展による海洋汚染の結果が今のイカの姿なのだろう。

50年前と今では、同じ獲れたてでも質の違う魚である事は確かだ、あの旨い魚は二度と食べることは出来ない

 

テレビが一般家庭に普及する前は電気屋の街頭テレビを夕方から見に行った、一軒のテレビやの前には

20人以上の人垣、むかえの電気屋にも同じくらいの人垣

相撲を放送している、栃錦、若乃花、朝汐太郎の時代、横綱若乃花と内掛け名人大関琴ヶ浜のファンだった私

母は三根山のファンだった

333mの東京タワーが完成、背番号3の長嶋茂雄がデビュー、私は弱小球団、国鉄スワローズ(現ヤクルト)ファンで

300勝を達成した金田正一が大好きだった。

 

私が5歳くらいの時は海岸にちかいところに住んでいたが、高波があって海に一番近い家が全壊、その後東京へ

移住していった

それから5年くらい経って、その家の娘さんが東京からわが家へ遊びに来た、私は小学校4年生くらいだった

彼女は20歳くらいかな、すっかり東京ナイズされてお化粧もばっちり、スカートが落下傘(パラシュート)

父が「**ちゃん、スカートの中に針金が入っている!」とびっくり顔でいったことを忘れられない

東京育ちの父だったけれど、この頃には田舎生活に慣れ始めたのだろうか。