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ロマン雑記 信玄棒道VS王道謙信そして信長

2018年11月08日 20時17分48秒 | 時代検証

山梨県小淵沢に行くと、「信玄棒道」の名残を見ることが出来る

言わば戦国時代の「軍事専用高速道路」だ、甲斐(山梨県)の王様だった武田信玄が

大きすぎてまとまらなかった長野県を侵略するために作った棒道

騎馬軍団の機動力では日本一の強さを誇った武田軍独特の軍用道路、山間地であるが故に

産み出された道路だった。

もともと武田王国は信玄の知恵か、ブレーンの技術集団が優れていたのか、土木部門に秀でていた

信玄堤は甲州の村々を洪水から救ったし、甲斐の金山堀も一流であったし、城攻めではトンネルを掘って

敵の城の石垣や土台を崩す戦法が得意技、また敵城の命綱の井戸の水脈を切るのも得意だった

 

戦国時代の英雄を序盤、最盛期、決算期にわけると、上杉謙信、武田信玄、今川義元、北条氏康、

毛利元就などが最盛期の英雄、

そして織田信長、徳川家康、豊臣秀吉、伊達政宗、武田勝頼、上杉景勝、北条氏政などが

決算期の群雄と言える、信長、家康たちと謙信、信玄は一世代違うのだ

だから謙信、信玄の最盛期には、さすがの信長も歯が立たずご機嫌取りに終始していたし、家康は

三方原で信玄にこっぴどく痛めつけられた、すなわち1560年代は謙信と信玄が中原の2大王者だったのだ。

その2大王者が弱小国信州を挟んで隣接し、信玄が信濃侵略後、直接対決になったのが互いの悲劇であった

もし、信玄が神戸あたり、謙信が小田原あたりにいたならば日本の歴史も変わっただろう

濃尾平野で武田10万、上杉10万の天下分け目の大会戦が行われたかも知れない、信長は武田の

与力大名、家康は謙信の旗本として参戦していたかも知れない。

しかし史実は20年近くも実力拮抗の両者が譲らず狭い地域で戦い続けたが為に、織田信長の台頭を許してしまった

気づいて信長退治に出かけた時には、武田信玄は老齢となり病に冒され、陣中で死んだ

信玄よりも信長に近い年齢の上杉謙信も、信玄に続いて信長退治の兵を興したが、出陣前に脳卒中で死んだと

いわれている、この2大王者が相次いで死んだことにより、織田信長が中原の覇者となった

 

信州奥蓼科温泉郷の近くに八方台という八ヶ岳北部を見るのに絶好の場所がある。

もう35年ほど前になるが、奥蓼科の温泉に泊まり、翌朝5時に起きて女房殿と八方台まで上った、途中に草のような

広めの道が横切っていて、それは東西に真っ直ぐ延びていた、私はそれを信玄の棒道だと思った

けれども何を見ても、そのような記述は無いからただの農道か高原の道なのかも知れない

でもイメージ的には棒道で、それは今でも私の頭にこびりついている、なぜか気になる信玄の棒道

長野県を走り回ると、至る所で中山道と出会う、それは現代の道と平行したりクロスしたり、時には昔のママの姿で

藪や森の中に消えていく、まさに中山道は信州を愛知県境から山梨県に至るまで縦横無尽に貫いている

なぜだろうか、信州へ来ると江戸時代の匂いを至るところで嗅ぐことが出来る、それが信州大好きの一因でもある

 

甲州は遠いせいか、あまりイメージが無かった、けれども高速道の整備が進み、我が町からでも3時間以内に

つくことが出来るようになった。

私の中で山梨県のイメージは①武田信玄と棒道②笛吹川③河口湖④巨峰⑤昇仙峡と石和温泉となる

あの狭い甲州から出て、大きな信州を制圧して三河、駿府まで蹂躙した武田信玄は日本版チンギス汗にさえ

思える・・・信長の方がと言う人もいるだろうが、辺地の信玄の方が開けた尾張の信長より遥かに野性的だ

 

明治維新と戦国時代、この二つが私の中でもっとも魅力的な時代である、明治維新は250年の鎖国を経て

突然降って湧いた外圧に対して日本人が集団ヒステリーパニックを起こした結果で有り

戦国時代は足利幕府の崩壊によって解き放たれた地方軍閥が、競って略奪戦争を始めた事がはじまりだ

そう言う意味では戦国時代の方が開放的で自由感がある、だからここの戦国大名は個性的で魅力たっぷりだ

朝廷や将軍を絶対的君主と仰ぐ尊皇大名の上杉謙信は、義を重んじる正義の男。 領土的野心は一切持たず

弱気を助けるために労を惜しまない戦国時代唯一の男だった、そのため天下統一の力を持ちながら武田信玄に

翻弄され続け、越後一国をも統一出来なかったのだ。

逆に次々と周辺の領土を奪い取っていった武田信玄、昨日の味方は今日の敵として敵を分断各個撃破していく

策謀家、しかし上杉謙信にこだわったばかりに、こちらも天下統一を逃してしまった

戦国時代に唯一人、当時の戦国大名たちより300年は頭が近代化されていたのが織田信長だ、国内では

戦争に明けくれながら、その目は世界に向かっていた

早くから南蛮人を身近に置いて、西洋の文化に興味を持ち宣教師を招いてキリスト教の布教を許した

楽市楽座、自由港の開設、往来の自由、やることなすことが300年進んでいた

逆に保守的な組織や権力には徹底的に刃向かって破壊を続けた、特に仏教の僧を嫌い、本願寺と激しく戦い

延暦寺を焼き打ちにして数万の僧やそこにいた老若男女を殺害したという

まさに日本史上希な鬼才、奇才、天才でカリスマ性において彼を超える日本人は未だに現れていないと思う

ヒットラーと信長がダブって見えるのは私だけだろうか、生まれ変わりでは無いかと思うほどだ。