1905年(明治38年)から1945年(昭和20年)までの40年間、
つまり日露戦争の勝利から太平洋戦争の敗戦までの期間は、日本ではない。
ポーツマス講和においてロシアは強気だった。
日本に戦争継続の能力が尽きようとしていたのを知っていたし、内部に「革命」という最大の敵を抱えていたものの、物量の面では戦争を長期化させて日本軍を自滅させることも不可能ではなかった。
弱点は日本側にあったが、ギリギリの条件で講和を結んだ。
調子狂いは、ここからはじまった。大群衆の叫びは、平和の値段が安すぎるというものだった。興和条約を破棄せよと叫んだ。日比谷公園で開かれた全国大会は、彼らは暴徒化し、政府は遂に戒厳令を敷いた。
この大会と暴動こそ、向こう40年の魔の季節への出発点ではなかったかと考えている。むろん、戦争の実相を明かさなかった政府の秘密主義も原因はある。
この大群衆の熱気が多量に参謀本部に蓄電さて、以後の国家的妄動のエネルギーになったように思えてならない。
江戸時代の日本人は、蒸気船をもたず、騎兵ももたなかった。19世紀末の明治人はどの時代の日本人より現実的だった。
例えば、海軍には世界史的に戦術はなく軍艦と軍艦の叩きあいだとされたのを、秋山真之は東進してくるロシア艦隊を一隻遺らず日本海に沈める不可能に近い課題を戦術を加えるというユニークなことを考えださなければならなかった。
秋山好古も勝ちたい敵に対して火力で戦うという新しい現実をもちこまざるを得なかった。当時、世界一のコサックを相手に、こっそり機関銃を手に入れていた。これでかろうじて負けなかった。
この「負けない」という好古の発想の総ては合理主義に基づいていて、そこには太平洋戦争で蔓延した肉弾攻撃といった精神主義というのは微塵もない。戦争とは、兵器と兵器の戦いであるという平凡な原則を海軍も陸軍もみな知っていた。
また、「勝ちたい戦争だが外交によって何とか歯止めする」という土俵際の覚悟と自分の弱みを軍自身が手の内を十分に明かしていた。もっとも、新聞には書かれなかった。
この戦争を境に、日本人は自家製で身に着けたリアリズムを失ってしまったのではないか。
樺太をよこせ賠償金を出せと日本は言う、ロシアは譲歩は必要ない、もう一遍やるぞ、力はあるぞ脅す。結局、樺太をもらうことで折り合った。
ところが、戦勝の報道で国民の頭がおかしくなった。賠償金を取らなかったと反発して、日比谷公園に集まり暴徒化した。
日露戦争の終末期、日本は紙一重で負けるという手の内を国民に明かさなかった。明かせばロシアを利すると考えたか。
昭和になって、軍備上の根底的な弱点を押し隠して、返って軍部を中心にファナティシズムをはびこらせた。不正直は国を滅ぼすほどの力があった。
⑧にもどる つづく
「この国のかたち」司馬遼太郎をピックアップ要約
それに、「甲斐は思う」というナレーションが重々しく聞こえて、学校でマネしたことがあります。^_^;
ドラマ後に周辺を取材した番組では、原田甲斐を代々弔うお寺を紹介して、いまも村人から慕われていると人柄を偲びました。
山本周五郎の小説も読みましたが、難しかったです。
> 新聞を売らんかなのために、国民を焚き付けたとすれば、一番罪が重いのではないでしょうか。
敗戦局面を書けば非国民にされた時代ですし、文民統制されていたため、新聞は大本営発表の記事しか書けなかった側面もあると思います。
天地の落差のある日露戦争勝利から太平洋戦争敗戦まで、ピッタリ40年でした。それを印象的に表現する力は、さすが司馬遼太郎と思わせます。
いずれにせょ、軍国主義は困りものです。
未だに拡張主義に走る中国は、前世紀の悪い帝国主義を丸出しです。
また、戦争を煽って兵器を高く売りつけるアメリカも困ったさんです。
(ウォーク更家)さんの当該ブログ記事のアドレスをコメント上のURLに置きました。
今年も、終戦記念日に、NHKは真剣に戦争の原因究明の特番をやっていましたが、新聞各社は自分たちの反省は棚に上げて、おざなりの特集しかやっていなかったのが腹が立ちました。
このような国民の後ろ盾を得て、軍部がファナティシズム(熱狂)をはびこらせて、太平洋戦争に突き進んだと司馬遼太郎は見立てています。
明治の日本人は、激しかったんですねぇ〜。