もののはじめblog

コメント歓迎 ! 
必ずコメントに参ります by iina

浄土宗

2007年02月10日 | 歴史
正月には神社に初詣はつもうでにでかけ、クリスチャンでもないのに聖バレンタインデーを騒ぎ、クリスマスを祝う。そして、葬式や法事のときには、「南無阿弥陀仏なむあみだぶつ」と称える。例外はあっても、大半の日本人の形態と思える。いかにも、八百万やおよろずの神のいる日本の宗教観しゅうきょうかんだ。

お経は、ただ「南無阿弥陀仏なまんだ」と称えるとお浄土に往生できるというほどにしか識らない。そんなことから、浄土宗開祖が法然上人であり、本屋に並んだ『法然の哀しみ』著者:梅原猛(小学館文庫)をみつけ、浄土宗について読んでみた。

鎌倉時代初期に、宗教改革した法然の浄土宗は上は上皇から下は一般民衆にまで浸透した。それまでの仏教は、大雑把にして護国あるいは貴族のためのものであった。それを民衆の仏教に広め、個々の悩み救済の途を啓いた功績は大きい。

きのうアップした『観無量寿経』(浄土宗)が、ギリシャ神話か聖書のように神々と人々が生くさくドラマチックに登場して驚いた。お坊さんの法話を聴いたり、お経や読経を分かりやすく解説した本を読むのも、案外と面白いのではないかと思った。




法然は、浄土宗の基とした『選択集』を編むのに「無量寿経」「感無量寿経」「阿弥陀経」を正依の経典とする。

真言宗の心によって往生の願とすれば、真言宗の祖は往生できるが、他宗の人たちは往生できぬ。仏心宗すなわち禅宗の意によって成仏できるが、他宗の人は往生できぬ。法華宗の意によって一乗実相の義をさとることを往生の願とすれば、天台・章安・妙楽などの天台の祖師たちは往生できるが、他の宗の人は往生できない。
それに対して、口称念仏の願を往生の本願とすれば、どのような人も一様に往生することができる。真言や仏心や天台より浄土宗のほうが、だれでも往生できるという点で優れていることを秘かに語ろうとしているのであろう。
もしも、布施や起塔や稽古鑚仰や多聞広学を願とすれば、往生する人は少なく、ほとんどの人が往生できない。これは仏の平等にもとること、阿弥陀仏はそんなことをするはずがない。
したがって、阿弥陀仏はだれにでもできる口称念仏を往生の本願として、すべてのひとを極楽往生に導き給うと結ぶ。


奈良・平安時代の仏教宗派の多くは、当時中国で興隆していた仏教宗派をそのまま輸入し、それを日本に定着させたものだ。
しかるに、法然の浄土宗はちがう。七世紀に中国で活躍した浄土教の僧・善導の仏教思想に基づいて教団を設立した。法然がこの説を唱えたのは、12世紀なので善導のときより約500年の時がたっている。


『醍醐本』の「一期物語」に書かれた法然の伝記には、法然の専修念仏の教えのもっとも本質的なことが語られている。この終わりに、
「善人尚以って往生す、況や悪人をやの事。」と出てくる。
浄土真宗の『歎異抄』「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」と同じである。
弥陀の本願は、自力をもって生死を離れるべき方便として善人のために起こした願ではなく、他の方法によって往生することができない極めて重い悪人を哀れんで起こした願であると説く。有名な悪人正機説だ。

法然の弟子である親鸞は、元々浄土宗に示すこの箇所を深く掘り下げたものと思える。きのうのブログに出る極悪人阿闍世あじゃせでさえ往生できると説く。善導は、積極的に五逆の人の往生を説いていない。
親鸞が書いた「教行心証」は、加害者・阿闍世の懺悔と救済を説く。
阿闍世あじゃせの心の懺悔が、体中に腫物を作った。臭くて近寄れないほどだったが、その母 韋提希いだいけは種々の薬を塗った。しかし、瘡は増すばかりだった。
最後に、韋提希を殺そうとしたときに諌めた大臣が釈迦に病を癒してもらえと勧める。釈迦は阿闍世のために涅槃に入らない。阿闍世のような煩悩を具足し仏性をみない、そういう凡夫を救うために涅槃に入らない。そして、釈迦は阿闍世の苦悩を救うために「月愛三昧」に入った。
釈迦が月愛三昧に入った後に大光明を放ち、瘡は癒えた。『涅槃経』には、五逆を犯した阿闍世が釈迦によって救われたとある。


また、親鸞は「浄土真宗」をよく使うが、「法然に騙され地獄に堕ちてもかまわない」といったように、浄土宗とは別の宗派を立てようとは考えてもみなかった。浄土真宗の開祖になったのは、その子孫が興したものだ。



iinaブログでは、『シンドバットの七つの遺産』を引用して
[神は存在するか?] についても考えてみました。

また、神による天地創造の可能性についても、 "数学的に"トライしました。
[天地創造] 

   
コメント (4)    この記事についてブログを書く
« お経のドラマ性 | トップ | 不良猫たち »

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
コメントに感謝 (iina)
2007-02-12 20:58:28
(住職のちょっといい話)さん へ (iina)
「愚者になりて往生す」とは、浄土宗なのに、存知ませんでした。
まだまだ知らぬことばかりです。
多聞広学な人、布施や起塔を多くなす人は自力本願を心がけてしまい、
仏にすがるという他力本願から離れてしまうため、自戒をこめて
「愚者になりて往生す」とでも諭すのでしょうか?
ありがとうございました。

(マガジンひとり)さん へ
宗教観は世界共通ではないので、なかなか難しいです。
「万物に霊が宿る」というのは素朴でイメージし易いし、日本に向きます。
こんど♪「千の風になって」に耳を傾けてみようと思いました。
返信する
んと、 (ハイジ)
2007-02-12 22:47:09
やおよろずの神は天皇陛下のことですか?
返信する
(ハイジ)さん へ (iina)
2007-02-13 17:09:07
八百万の神は、日本ではありとあらゆるものに宿る神をいいます。
神仏混合も行われ、仏さえ神になっていますよ。
山、樹木、岩、滝にも宿っており、その神域を神主さんがいる
という存在ですから、天皇陛下はその総元締めともいえますね。
一神教しか許さぬと、宗教間で争いが起こりますから、
総ての宗教を許す風土は、アル意味紛争を避けるガス抜きに
なっているかも知れません。
しかし、好い加減といえばその通りですね。
返信する
(tenjin95) さん へ (iina)
2020-07-05 09:56:08
tenjin95さんには、拙宅への訪問をいつもありがとうございます。^^

「無量世」については、拙ブログでは扱ってないですが、本「浄土宗」には「無量寿経」「感無量寿経」が出て参ります。

「一十百千万・・・」のうんと先の数に「 無量大数」と名づけられた位があります。10の88乗のことです。 
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/5f3e4e666001c9c7625e16f7e3b8775b

無味乾燥な「数」ですが、ご先祖の数を追うと前述のような仏教的な呼び名の数に出会います。
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/64b3e9b0a96e431c2f94b7f172ce5f43

(tenjin95)さん宅は、大層むずかしい話題が豊富ですから、読み飛ばすことが多いです。もうしわけありません。
思いつくまゝを書いてしまいました。失礼しました。

*  (tenjin95)さんの当該ブログ記事のアドレスをコメント上(iina)のURLに置きました。

返信する

コメントを投稿

歴史」カテゴリの最新記事