前回のエントリでは、藤本師匠に対して結構非道いことを書きました。
いい年齢してミニスカを履いてはしゃいでる婆さん、とか何とか。いや、そこまでは書いてませんでしたか。
要するに彼女の主張は「女としての業」と「フェミニズム理論」の整合性が取れてないよ、という指摘なのですが、本書の初出である90年代前半は、藤本師匠に限らず多くのフェミニストにそのような矛盾が見られました。何しろ当時はフェミニストたちが結構有名な総合誌からお座敷がかかっていた時期です。彼女らは「男たちのブルセラ少女への性的視線」に憤っているはずが、オヤジ雑誌にお呼ばれされたことが嬉しくてたまらない、といった混乱ぶりを見せていました。
本書は多くがマニアックなフェミニズム雑誌で書かれた文章が元になっているのですが、六章だけは『別宝』という(彼女らの業界用語で言うところの)「オヤジメディア」が初出であるため、その筆の浮つきっぷりが見ていて大変微笑ましくなってきます。
そういやこの頃はブルセラ系エロ本というのが流行っていて、その編集者をやったことがあるという経歴を売りに、「女子高生オルガナイザー」という肩書きを名乗ってセーラー服を着込み、『SPA!』とかでよく取材を受けてたオバハンがいたよなー、ということをふと思い出しました。忘れ難いので、特に記しておくことにします。
とは言え、師匠もそうした矛盾に対して、全く無自覚なわけではありません(と、思います)。本書を見ていくと、矛盾に対する師匠なりの苦闘の後(と思しき箇所)が見て取れます。
それは専ら、「典型的なレディースコミックの構造(≒女の業)」への不満と、それを乗り越えようとした意欲作への称揚、という形で現れています。
順を追って、見ていきましょう。
二章「ポスト対幻想論――〈対〉に閉じない恋愛の諸相」においては典型的なレディースコミックのストーリーを紹介し、
この作品に限らず、少女マンガにおいては「性的に自由な女」「割り切った女」というのは常に脇役である。そして、美人でセクシーな彼女たちを尻目に、男と「恋人」になること以外は考えない、一途な女の子たちが、見事に恋に勝利していく。
と不満そうに漏らします(そうしたものが現実問題として女性に受けている、と理解できていらっしゃるのかどうかは不明です)。
そして師匠は石坂啓師匠のヒット作、『キスより簡単』を持ち上げてみせます。これは要するに「性に奔放/だが男に対しても容赦なく噛みつく」といった主人公・まあこの物語だそうで、まあ、読まずとも内容は何となく想像がつくし、それを持ち上げる師匠の気持ちも手に取るようにわかります。
とは言え、まあこは後半、本気で恋愛感情にのめり込んでしまい、人間の感情が「後腐れのないセックス」など許さないことを知り、葛藤を始め、作品カラーはガラッと変わってしまうそうです。それに藤本師匠は不満げな感想を漏らしています。
これはいかに石坂師匠とは言え、人間の感情に向きあって描いているうちに、そのようなストーリー展開にせざるを得なかった、ということでしょうし、漫画家として誠実であったのだろうと、ぼくは想像します。
結局フェミニストや進歩派たちの主張するジェンダーフリーもフリーセックスもフリー結婚もフリー氏姓も、人間の気持ちというものを一切無視した、バーチャルなものでしかないということですね。
そもそもが『キスより簡単』が少女誌でも女性誌でもなく『ビッグコミックスピリッツ』という青年誌に載ったのは何故かと言えば、まあこのような「後腐れのない女」こそが、(大多数の女が男との結婚を望んでいるという「客観的事実」を鑑みるならば)男にとって都合がいいからだ、くらいのことはちょっと考えればわかるはずです。まあ、編集者がアレだったから、ということもありそうですが。
「男にモテることだけが自己存在の証明である」という少女漫画の命題(それは同時に、女性たちのメンタリティの忠実な反映です)の前に苦悩する師匠。「男のせいだ男のせいだ」とつぶやきつつ、しかし「男にモテたい」との本音からも逃れられない師匠。
それはまさに、上の漫画のまあこの辿った運命そのものと言えましょう。
進退窮まった(のかどうかは知りませんが)師匠は三章において、「実験小説――ワンナイトスタンド」()を書いて見せます。わかりにくいですが前回の「実験アニメ」はこの企画のパロディです。
内容は、出版社でOLをやってるおねーちゃんが17歳の少年の童貞を食っちゃいます、というだけのお話で、最後は少年のアナルに指を入れたりもするのですが、これのどこが実験小説なのかはよくわかりません。大体、一時期風俗でおねーちゃんが男のアナルを責めるというのが流行ったはずなのですが(この小説の後か先かは知りません)そういうのは師匠も多分、「女性差別」であるとして怒りそうな気がするのですが。
こんなふうにある種、慈しみあって肌をあわせた二人にしかわからないような何か……。それは世間でいう恋愛などとは全然違うものだ。しいていえば同志愛というのに一番近いかもしれない。一緒に快感を追求し共有することで、相手の生命に対する自然な敬意が生まれてくるのだ。戦場でまだ生きている味方に遭遇して、お互いに目礼を交わして駆け去っていくときのような気持ち。
どう見てもフツーの、単なる恋愛です。本当にありがとうございました。
この二人は行きずりの関係であり、その「フリーセックス」な感じが恋愛と違う男と女の新しい関係、というのが師匠の考えなのかも知れませんが、そこに情が生まれたのであればそれは普通に「恋愛」でしょう。とにもかくにも「恋愛」を否定しようと躍起になりつつも、そこから抜け出せずにいる師匠は、まさしく『キスより簡単』のまあこそのものです。
そしてそうした言動は「ミソジニー」「ホモソーシャル」と言った空疎な造語だけは熱心に作り出すけれども、思想としては結局何ら「新ネタ」を提供できずにいるフェミニストにふさわしいとも思う一方、いや、しかしそのフェミニストたちの中では「BLは男女の恋愛と何ら変わらない」と喝破した聡明な藤本師匠にしてはいささか物足りない、という気も同時にしてしまいます。
(いささか余談ですが、これは以前にも言及した小谷野敦博士の「友愛結婚」に近しい感じがします。言葉だけを取り敢えず提唱してみましたが内実はありません、という)
続く四章「欲望論」で、女性のナルシシズムを主題としたレディースコミックを例に挙げ、
マゾヒズムをナルシシズムに結晶させることで、女たちは、価値の逆転を手に入れたのだ。ここから女たちは、男たちの手をすりぬけはじめる。
などと書くに至っては何だか切なくなってきます。本論が書かれてから二十年、師匠も指摘した『セラムン』の百合本ブームから二十年経っても、女性たちは一向に「男たちの手をすり抜け始め」てはいないのですから。
(ただし、昨今ではBLの百合版とでもいったニュアンスでGLといった言葉が使われることは普通になっています。もっとも、オタク界ではそれ以上に「マゾヒズムをナルシシズムに結晶させることで、男たち」が「価値の逆転を手に入れ」、「女たちの手をすりぬけはじめ」た表現であるヘテロセクシャル男性向けの美少年エロ、いわゆる「男の娘」*というのがブームを起こしているわけですが)
*考えると本書や『私の居場所はどこにあるの?』が書かれた90年代の後半には、既にオタク男性向けのエロメディアでも男の娘の前身とも言えるショタブームがありました。しかしながら『私の――』では、男性向け漫画について
残念ながら少女マンガほど豊穣な実りをうんでいるとはいい難いし、新しい性別イメージをうちだすには至っていない。
などと評しています。
そのくせいわゆる三流エロ劇画の中の「女装漫画」は妙に子細に採り上げているというのは、権威主義のフェミらしいッスねー。いくら何でも、師匠が(男性向けの)ショタや男の娘というジャンルについてご存じないはずはないと思うのですが(知らなかったらすみません)。
一方では、女王様的な女性が男を下僕とするみたいなレディコミ、『女王聖典レイヌ』を紹介してエビス顔。しかしその作品もまた、途中で路線変更したそうで、そのことを嘆く師匠は、
おそらく編集部から抑えがはいったのだろうが、残念である。
……ってやっぱり「ヘンシュウシャガー」かいっっ!!
確かに90年代前半はそういうの(女=責め/男=受け)ってちょっと流行ったんだよなー。すぐ廃れちゃいましたけどね。
ただ、ぼくはむしろそうした作品を採り上げつつ、師匠が
女だと多少は官能的に感じられないでもないこんな場面も、姦(や)られるのが、いくら美貌とはいえ筋骨隆々たる男だとかなり異様である。
いかに我々が、女が姦られる場面を官能的だと感じる見方になれっこになっているかを試す試金石ともいえよう。
などと無邪気におっしゃることが気にかかりました。
つまり藤本師匠は男が責められるのをエロいと感じてないってことです。
そしてそれは他の多くの女性にも共有されている感覚のはずです。
端的に表現するならば、男も女も「女の裸」は性的と感じるけれども、「男の裸」はそうは感じない、ということです。
ホモネタがギャグとして使われやすいのも、実はそれは全くいっしょで、「男が責められる表現」はエロではなく「異様なギャグ」として受け止められるのが普通だ、ということです*。
田亀画像の受け止められ方、そしてそれに対して田亀氏本人が怒っていらっしゃることなどを考えれば、それは自明なはずです。
本書においても「Mっ気がある」と幾度も自称するように、師匠は「女が責められる性表現」を楽しみ、そして「男が責められる性表現」をエロとは感じない。
師匠がいかにラッパを吹こうとも、女性たちが自らの立つセクシャリティから動こうとしなかった、びっくりするくらい誰も乗ってこなかったのはもはや明らかです。そしてその「乗ってこなかった女性」には師匠自身も実は、含まれていたわけです。
じゃあ、もう「女が責められるエロ」で楽しんでれば、いいじゃないですか。
更に言えば現実世界においてもレイプやセクハラに至らないように(そしてまた、男性をその裏面であるそれらの冤罪に陥れないように)注意しつつ、受け身の性を楽しむ、というのが現実的な選択であるはずです。
そこをドウォーキンを持ち出して言い訳してみたり(詳しくは前エントリで)例外的な女王様ネタのレディースコミックなんか持ち出してドヤ顔してみたり、ましてやそれの路線変更を編集者のせいにしてみたりは、無意味です。
*「ではBLはどうなんだ」という疑問もあるでしょうが、腐女子たちがカップリングにこだわりを見せることが象徴するように、それは少年の「肉体性」よりは「関係性」を主眼に置いた表現である、と考えるべきでしょう。そのことは、腐女子としての素養が大いにあるはずの師匠からして上のような反応をしていることが、何よりも雄弁に証明しています。
また、そもそも「ボーイズラブ」という言葉が示す通り、キャラクターたちは少女的美少年として描かれることが普通なわけです。男の娘ブームを見ればわかるように、「美少年」は例外的に性的対象足るわけですね。
ベジタリアンと呼ばれる人々がいます。
彼らはイデオロギーから肉食をしないのですが、とは言え本音では肉を食いたいと思っているらしく、ベジタリアン向けの食材サイトなどを見ると、大豆で作ったハムやチキンナゲット、焼き鳥、寒天で作ったマグロの刺身、湯葉で作ったフィッシュフライなどが並んでいます。
結構うまそうだし健康にはよさそうですが、しかし第三者の視線からこれらを見ていると、ある種の奇妙さを感じずにはおれません。それは肉を食わないために、そして肉っぽいものを食うためにこれだけのエネルギーが注がれているのかといった一種の感慨であり、ぶっちゃけたことを言うなら、「アレルギーや健康上の理由で食えないならともかく、そうじゃないなら肉くらい食えよ」という感想です。
いや、むろん肉を食べないのも、肉の代替食品を食べるのも個人の勝手ではありますが、もし彼らがぼくたちの隣人で、ぼくたちにベジタリアニズムを勧めてきたら、当然うっとおしく感じることは、想像に難くありません。事実、上のサイトを見ていたら肉を使ってないドッグフードなんてのも売られていました。そりゃ栄養上は問題ないんだろうけれども、犬には肉食わせてやれよ!!
今回の藤本師匠の著作も、こうした「ベジタリアンのための肉っぽい食品」のカタログだったのでは、ないでしょうか。しかも、ベジタリアニズムの正しさについてのご高説がいっぱい書いてあるタイプの。
☆補遺☆
ネットをぱらぱら眺めていたら、本書が「大学の授業の副読本として使用」されているとの記述がありました。
そりゃまあ、おかしな人間が増えるわけですわ。
大学の授業って教師が好き勝手できる分、バカ教師に任せるととことんバカな授業になるんですよね・・・
下劣で支離滅裂なフェミイデオロギーを人に刷り込むには理想的環境です。
まあそれはさておき。
藤本師匠、自分のマゾ気質に自覚的なんてフェミとは思えない冷静さですね。それでもドウォーキン信者って頭の中どうなってんだか。
自分は最近オタク文化を学ぼうとラノベなんかを読んだりしてるんですが、『ハルヒ』とか『とらドラ』とか『俺妹』とか蛸壺屋さんの同人とかを読むとオタク文化ってのはフェミも少女漫画もはるかにぶっちぎって思想の最先端まで行っちゃった感があります。上述の作品に出てくるような、エキセントリックで男主人公を振り回すヒロインを見た時、藤本師匠はじめフェミのお歴々はなんと言うのか、少々興味がありますね。
こっちもその作戦を使いたいところですが、アカデミズムってあの人らにのっとられてますしね。
>エキセントリックで男主人公を振り回すヒロインを見た時、藤本師匠はじめフェミのお歴々はなんと言うのか
ほっかむりして、
残念ながら少女マンガほど豊穣な実りをうんでいるとはいい難いし、新しい性別イメージをうちだすには至っていない。(`・ω・´)キリッ
っていうんじゃないでしょうかw
或いは「フェミニズムを理解した好ましい作品」として抱き込むのかも知れません。
「男の娘」ブームの時、やはり「何故ヘテロセクシャル男性がそんなものを好むのか」には全く触れず、評論家たちが「女性への理解」「セクシャルマイノリティへの理解」とばかり繰り返していたことが思い出されます。