兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

私の居場所はどこにあるの?(その2)

2012-05-05 00:00:12 | アニメ・コミック・ゲーム

 さて、お約束通り、藤本由香里師匠の処女作についてのパート2です。
 今回はBLについて述べられた章について、細かく見ていきたいと思います。
 前回は敢えて抑えめにしていましたが、「少女漫画」の醍醐味と言えば何と言ってもその過激なBL描写です。
 いえ、今でこそBL、腐女子といった言葉が人口に膾炙し、良くも悪くも――いえ、これははっきりと「いいこと」でしょう――「俗化」してきましたが、当時こうした趣味は「深窓の文学少女が美少年同士の禁忌の愛を夢見て……」的なお耽美なイメージで語られ、それに乗っかったフェミニストたちが大いにフカシていたわけです。
 前回、本書のことを
「古い古い」と繰り返しましたが、その印象の半分はBLについて語った章によっているとも言えます。
 実のところ本書に収録された文章の初出を見てみると、その多くが91年とか、その辺り。出版されたのが98年。この七年間に『セーラームーン』は出るわ『エヴァ』は出るわでオタク文化全体に劇的な変化がありました。だから、もし仮にぼくが本書を出版当時に読んでいたとしても、明らかに「古い」という読後感を持ったはずです。90年代初期の古典的少女漫画評論と、90年代後期の、既にBLを含めたオタク文化が花開いた後の評論は異なっていてしかるべきなのですから。
 読後、感じてしまうのはフェミニズムが当の女の子たちから裏切られ続け、しかし論理のアップデートは追っつかない、といった状況です。
 何しろやおいのネタにされる作品として出て来るのが(多少なりとも加筆でもすればいいものを)『星矢』『トルーパー』『シュラト』止まりなんですから。
 まあ、章ごとに書き下ろしの節も添えられ、そうした時代の変化に対処はされてはいるのですが……その辺もひっくるめて、今回はBL関連を中心に、本書を眺めていきましょう。


 さて、「出版当時も古かった」本書ではありますが、それを今の目で見ると、更に隔世の感を憶えないわけにはいきません。というのもBL関連の章を開いてみると、まず真っ先に『リボンの騎士』を採り上げて


 その後、少女マンガは、少女の内なる世界、つまり基本的には性差のない世界(ジェンダーレス・ワールド)で性別越境の実験を繰り返していくという奇妙な発展をとげていくことになる。


 とぶち上げ、またマネーの著書『性の署名』を持ち出して、「基本的な考え方はすべてこの本によっている。」と書いているのですから。
 このマネーという性科学者は、人間のコアジェンダーアイデンティティ(「私は男/女だ」というジェンダーアイデンティティの根幹)は生後に後天的に決まるのだと唱え、「ジェンダーとは全て社会の作り上げたフィクションである」とのフェミニズムの理論の支柱となっていました。
 が、本書の出た数年後、マネーの理論は偽の研究に基づいていたことが『ブレンダと呼ばれた少年』によって暴露されてしまったのです。それを知ったフェミニストたちは、今までさんざん論拠にしてきたクセに大慌てで「マネー? 何それ? 美味しいの?」とすっ惚けてみせ、しかしその一方で「でも、ジェンダーフリーは正しい」といまだ自説を曲げようとしないという、もうダブルスタンダードどころかトリプルスタンダードと呼んでも追っつかないようなデタラメな主張を続けています。しかし、ここまでふざけた言動を繰り返しておきながら『ブレンダと呼ばれた少年』が復刻された時、「保守派が政治的意図を持って復刻したから許せん」とか言えるその心理って一体、どうなってるんでしょう……?


 閑話休題。
 今のは余談です。本書で語られる「ジェンダーフリー」観に同意はできませんが、あくまでマネーが正しいとされていた時期に書かれたものなので、そこは割り引いて見ることにしましょう。
 さて、師匠は上の『リボンの騎士』を初めとする女の子が男装する作品を採り上げ、こう言います。


 これらの作品に共通しているのは、“成長忌避の表現としての男装”というモチーフである。


 これまた、随分と懐かしいフレーズが出て来ました。
 そう、90年代初期のフェミニストたちはBLに対して「女性の性役割へNoを突きつけるための成長忌避としての表現」と極めて持って回った政治的な意味を付与し、盛んに語っていました。
 思春期の少女の患う過食症、拒食症も精神医学的には「成長忌避」と解釈されるそうで、中島梓師匠は「腐女子のほとんどは拒食症だ」などと言い募っていました(過食、じゃなく拒食、という辺りがいやらしいですね)。本当かと首を捻りながら知人の腐女子の何人かに聞いてみたところ、みんな「そんなの聞いたこともない」「いや、あの人もお歳ですから」と笑い飛ばしていましたが。
 しかしこうした作品の多くは、何らかのきっかけで女性としての姿を取り戻すことをクライマックスとしているようで、考えればそれって「ブスが眼鏡を取ると実は美人で彼氏をゲットしてハッピーエンド」といった古典的な少女漫画のバリアントなわけです(ただ、師匠自身もこれと近い分析はしています)。
 漫画とは読者の欲望を満たすツールなのだから、ぼくもそこにイデオロギーを持ち込んで上のような作品を否定するつもりは、ありません。しかしそれならそれでフェミニストたちもそんな漫画を持ち出して、「ジェンダーレスワールド」なんて言葉を使って政治的な意味づけをしちゃいけないでしょう。事実、BLこそ「性役割」の再生産コンテンツだといった指摘は、近年よくされています。
 ただ、逆に考えるならば、進歩派のセンセイ方がオタクコンテンツの「家族主義」をネトウヨ的であるとして執拗にバッシングしますが(彼らは何故だかどうしてだかオタク女子は何があろうとも絶対に叩かないのですが)、やはりBLを含めオタク文化は「家族」「古典的性役割」に忠実であるということは言えるのかも知れません。
 師匠はまたBL漫画に描かれる「女性嫌悪」を取り出しては、社会に「女性が女性嫌悪に陥らざるを得ないからくり」があるから少女たちは成熟拒否、女性性の拒否をするのだとも言います。
 しかし上にも書いた通り、本書が出ていた時点で、既にそうした分析はとっくに過去の遺物と化していました。それは『セラムン』を考えればわかることです。『セラムン』ブームの時、今まで少年同士の絡みばかりを描いていた腐女子たちの多くが、セーラー戦士たちのレズ漫画を描き出し、それは美少女系のエロ漫画に女流作家が増える一つのきっかけになったように思います(さすがに本書でも「書き下ろし」の節では『セラムン』が大いに採り上げられていますが)。
 ぼくは前回のエントリで藤本師匠も斎藤師匠も(一見、漫画やアニメに対するスタンスは真逆ではあっても)その本質は同じだ、そして両者とも一言で言えばただただ
「古い」のだ、と申し上げました。
 ですがそれはこうしてみると、斎藤師匠が「わざわざ古い作品を土の下から掘り出して」男の子(そして女の子向けアニメ)に筋違いな攻撃を加えているのに対し、藤本師匠は「わざわざ古い作品を土の下から掘り出して」女の子文化を筋違いに称揚している――といった具合にまとめることができそうです。


 さて、師匠はいよいよBLの古典、『風と木の詩』の評論に着手します。
 しかし女流エロ漫画家の手によるショタ漫画などが市場に普通に流れるゼロ年代を経て、この古典漫画についての評論を読んでみると、何だか妙な感慨が湧いてきます。


 主人公のジルベールは、実の父親であるオーギュの手で性戯を仕込まれ、というより凄まじいやり方で飼い慣らされ、性愛なしでは生きていけない存在、しかも常に相手の攻撃的な欲望を喚起する存在に仕立てあげられている。(中略)受動の苦しみを刻印されているのだ。


 

 これって今の腐女子の描くショタ漫画といっしょですよね。
「男から求められたい」けれども、「あんまりえぐい責められ方はしたくない」。「鞭打たれる痛み」は感じたくないが、「鞭打つほどに強引な男性の求愛」は受けたい。BLの本質はそんなところです。だからBLにおいては非常に度々、無垢な少年が凄惨な性的虐待を受けます。ぼくはショタ漫画を描く腐女子複数から、「女の子を非道い目に遭わせるのは可哀想だから男の子を描く」という言葉を聞いたことがあります。
 師匠もこの後、この「受動の苦しみ」こそ女性の特性だ、と書いています。「ジェンダーレスワールド」と書いて
10pも経たないうちにそれを忘れてしまっているようです。いえ、師匠ご自身、本書で当時(文章の初出である90年当時)、既に「やおい漫画」が、性を自己から切り離した上での屈託のない遊びとして消費されつつあることを指摘してもいました。


 しかし、ここで描かれている少年たちが現実の男性ではなく、少女の心に少年の身体――基本的には少女たちの分身であることは、そのセリフや状況設定があまりに少女のそれであることからも知られる。


 

 これはなかなかの卓見だと思います。ぼくは従来、藤本師匠に対しては比較的、「わかってんじゃん、この人」という印象を抱いていたのですが、当時、この部分を読んでのことだったのでしょう(実は雑誌で初出を読んでいたのです!)。
 事実、上にも書いた『セラムン』についての書き下ろしの項では師匠も


 基本的に“性”というものの捉え方が以前とは格段に変わってきていることをはっきりと感じさせる。


 かつて私は、性というのは女の子にとってはまず一番に“怖れ”であり、少女たちが過激な性を描く時必ずといっていいほどそれを少年の姿に仮託して表現するのは、その痛みを自分から切り離してコントロールしたいからだと言った。しかし、ここには、すでにそうした操作を必要とせず、性をまっすぐに、あるいは純粋な快楽として捉えることのできる女の子が存在している。


 

 と繰り返しています。やはり「わかってんじゃん、この人」と感じます。
 この「わかって」るぶりは、上野千鶴子師匠のバブル期の発言に近しいように思います(上野師匠のバブル期の「わかって」るぶりは「チェリーボーイの味方・上野千鶴子の“恋愛講座”
を参照のこと)。
 しかし彼女らが「わかって」いれば「わかって」いるほど、こちらとしては、では何故彼女らはフェミニズムの過ちが「わか」らないのかが「わか」らなくなってきます。
 ぼくは前回のエントリで


 しかし、あの頃のおじさんたちの「少女漫画」への欲情ぶりは何だったのだろうか、と思います。


 と書きました。
 当時はフェミニストが少女漫画をダシに非現実的なジェンダー論を唱え、おじさんたちがそれを真に受けていたという平和な、というか間抜けな時代でした。考えると内田春菊師匠を筆頭とする(今は見る影もない)女流エロ漫画家が神のごとく崇められていた時代でもありました。
 翻って今、少女漫画といってイメージされるのは新條まゆ的なものです。そこではいきなり現れたイケメンが主人公の少女をレイプしたりレイプしたりレイプしたり或いはレイプしたり繋がったまま街中歩いて頭がフットーしたりレイプしたりスコープのついてないアサルトライフルで狙撃したら弾丸が薬莢ごと飛び出したりレイプしたりします。
 そうした漫画は上の『セラムン』のレズ漫画の「次」の文化として認識されるべきものです。いえ、歴史的にはこの種のエロ少女漫画というのは『セラムン』以前から、師匠が本論を書いていた初出の時期から吐いて捨てるほどあったのですが、要は「少女たちが性を屈託なく消費するようになった現象」の最終段階として、それら漫画は位置づけられるべきもののはずです*。
 フェミニストたちがこれらを決して評論しないのは「怠惰」でも「片手落ち」でもなく、はっきりと「
卑怯」です。いくら何でもそうした漫画の存在を、藤本師匠がご存じないわけは、ないのですから(知らなかったらすみません)。
 恐らく師匠も本当は、フェミニズムが古びた思想であるということをどこかで感じているのでしょう。しかし既にフェミニズムから得られる既得権益を捨て去るには遅すぎるところにまで、師匠は到達してしまった。だから今更後戻りもできず、古いロジックを振りかざし続けている。斉藤師匠の仕事に対しても、惜しみなく絶賛を送ってみせる。そういうことなのだと思います。こうした人たちの寄りあいは、とにもかくにもフェミニズムの誤謬から目を伏せ、フェミニズムを延命させることだけが目的化してしまっています。
「フェミニストはオタクの味方だ」と強弁し続ける若手オタク系文化人のセンセイとかがそうですね。
 昨今、フェミニズムに対してかなりラディカルに鋭く批判をして見せつつも、やはり今更そうした人脈から抜け出せないのか、すっぱりと捨て去ることができずにいる人たちをあちこちでお見受けします。
 所詮、ライター業界も人脈であり、人脈のない人間は飢えて死ぬしかないのだと痛感しているぼくとしては、今からでもフェミ論者に転向しようかとつい、考えてしまいます。


*更に言うと、『セラムン』以前から少女たちの性は充分「解放」されていたことが、ここからもわかるわけです。ややこしい言い方になって恐縮ですが、これも藤本師匠が何重にも何重にも渡って転倒した理論を重ねたことが原因です。


 まとめに入ります。
 本書は90年代前半のフェミ論壇のうわっついたジェンダー論の見本、と言っていい内容のものです。ところが初出から単行本にまとまるまでの間に、それらジェンダー論はすっかり古びてしまったという『絶望先生』の羅列ネタ状態。
 しかしそれは奇しくも、後戻りできずに古いロジックを振り回すフェミニストたちの「リアル」を極めて忠実に活写してしまいました。
 師匠が本文で引用し、BLの章の冒頭に掲げている秋里和国『ルネッサンス』のセリフを、最後にここに紹介しましょう。


「ねえ! まさか異性しかダメな人じゃないわよね」
 ドキッとした主人公が答えていわく、
「今どきまさか…、そんなヘンタイじゃないさ」


 これに師匠はいたく感動したご様子で、


 そうか! なるほどねえ、こう考えればいいんだ。私はこれを読んだ時、思わずヒザをたたいてしまった。完全両性愛社会――そうすれば、今ぐちゃぐちゃ言ってるようなすべての問題を吹きとばしていっぺんに解決にたどりつく。


 とおっしゃいます。
 いや、今の百倍くらいゴタゴタが増えるだけだということは、腐女子とホモがあれだけもめているツイッターの状況を見れば明らかだと思うのですが。
 この後師匠は、「体制が許しさえすれば、人はみな多様で豊穣な両性愛者へと変身するのだ」とでも信じているかのような、邪気のない幼稚な妄想を繰り広げます(師匠の信じる「完全両性愛社会」とやらに移行すればホモも「女も」愛するようになるのですかね?)。それはまるで、「体制が許しさえすれば、女性はみな社会進出して自立するのだ」と信じ続けた、とある、イデオロギー集団のように。しかしそれは傍から見れば、おぞましい両性愛強制社会でしかないのです。
 願わくば、そうした歪んだ「政治的意図」を持った方々が、オタク文化という場を「私の居場所」としてどっかりと座り込むのはやめてほしいのですが、もう言っても遅かったりします



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