兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

「漫画『BEASTARS』から読み取る、女性に内在するフェミニズム的性向」を読む(最終回)

2021-04-17 19:38:56 | アニメ・コミック・ゲーム


 みな様、目下『Daily WiLL Online』で兵頭の記事が公開されております。
『映画秘宝』の例の問題ということで、それなりに話題性はあると思うのですが、話が少々マニアックで難しいかもとも思え、反応が気になっています。
 ランキングは目下のところ、五位。
 より以上の応援をよろしくお願いいたします。

 ――さて、いよいよ感動の()最終回です。
 元は匿名用アカウント氏の本作品評への感想であり、まずは本ブログの前回前々回前々々回前々々々回前々々々々回前々々々々々回前々々々々々々回、及び匿名氏のnoteを読んでいただくことを推奨したいところですが、まずは匿名氏のnoteをご覧いただいて、そっから(お気に召したら)辿っていただくことを推奨します。
 まあ、気が向きましたら、上の第一回から辿ってください、すごい長編ですが……。
 それとおわかりでしょうが本作のファンの方、ネタバレを回避したい方はお読みになりませんよう。
 ものすごい勢いでネタバレした上、貶しますから

・肉、やっぱ食っちゃダメだってよ

 さて、記者会見でルイが「肉食を認めよう」と語ったため、街には大暴動が巻き起こります。
 が、肉食獣は決して牙を立てようとはしない。殴りあいはするものの、そこに食うという選択を持ち込まずにいるのです。ここも意味がわかりませんが、「市民たちは意外に理性的であった」という「いいシーン」のようです。
 そんな最中、いきなり発生する大規模停電。
 メロンは大量食殺が起こる、などと言うのですが――復旧してみると草食も肉食も仲よく手をつないでいました。よかったね。要は和解が成立したという描写なのですが、過程がすっ飛ばされているので、何だこりゃとしか。
 大体、クライマックスがメロンとのバトルというのが微妙と言えば微妙。本来であれば草食と肉食の双方の大物が争うみたいな話であるべきですが、そうした役目を果たすはずのヤフヤとゴーシャは、終始傍観者ですし……。
 さらに、ルイの演説につられ、草食が裏市へと入ってくるのですが、それを見た裏市の住人たちは「草食にこんなものは見せられない」と街を壊し始めるのです。草食にも武器を手渡し、一斉に裏市そのものを壊し始める一同。草食的な優しさを持つ、平和的な暴動でいいと思いま~す。
 要するに肉食が自らを省みて恥じ入る、ということのようです。
 で、この騒動の後、裏市は正式に取り壊されることに。
 メロン自身が最後まで改心しなかったり、また裏市は別に作られてしまうだろうとの言葉があったりで、そこまで甘ったるいラストではないのですが。
 結局、ルイの発言の真意はよくわかりませんが(本気だったのか、何故いきなりあんなことを言ったのか)、そしてまた、ハルがメロンに自分を食べていいと言ったことも回収されてないように思うのですが、話としては「肉食否定」で終わるんですね。
 まあ、植物性タンパクを取っていれば死にはしないので、「お前らがそれでいいんならそれでいいんだろうな」以上の感想は湧きません。卵とか昆虫を食う選択もありますし(それらについてはここでは言及されないのですが)。
 ただもう一つ、最後にはクジラとヤフヤの会見がなされ、「これを食ってはどうか」とクジラの差し出した魚肉ソーを(手もないのにどうやったんだろう)、ヤフヤが「貿易は争いを生む」と断る様が描かれます。海生生物は死生観が違う(死をあまり悲しまない)ため、海生生物を食うならば問題ない、という選択肢があったのですが、どういうわけかヤフヤは(自分は肉食でもないくせに独断で)それを断るのです。
 何だよそれ! 海生生物出した意味ねーし!
 上の経緯と並行してレゴシとお隣さんであったセイウチとの別離も描かれるのですが、一度は海へ戻ろうとしたこのセイウチはあっさり「やっぱりやめた」と元の鞘に納まる。もうわけがわかりません。「海生生物とは棲み分けよう」というヤフヤの判断からして意味不明ですが(だってその前に肉食と草食が棲み分けろよと思いますから)、そう結論づけた上でセイウチが陸上に永住するんじゃ、さっぱり意味がわかりません。
 正直、「草食対肉食」の対立構造を、本作が描き得たとはとても言い難いと思うのですが、作者の感情レベルでは「男は女の肉体を得られないまま、ただ女に奉仕せえ」といった辺りが結論なんじゃないでしょうかね。
 これを現実世界で喩えるとするならば、アレですかね、頼んでもいないのに女が男の場(例えば、少年漫画誌)に入ってきて、「エロがけちから~ん」とか言って、で、男の中のチンポ騎士が「女性様をお迎えしなければ~」と彼女らに平身低頭して武器を与え、ともにエロ漫画の打ち壊しをするとか、何かそんな感じの話だったんじゃないスかね。

・恋人たちのオチ、つけるってよ

 はい、もう数話で終わりです。
 もうちょっとです、ガンバりましょう。
 ルイ×ジェノ。結局ルイはエラいさんの娘かなんかと政略結婚せざるを得ず、ジェノとは別れることに。ジェノは「私とのキスはよかったでしょ(忘れられなくなったでしょ)」的なことを言って、自分からルイの下から立ち去り、一人になって「食らえ! 可愛いオオカミの呪い」などとつぶやきます。
 かあぁぁぁぁっっっっこいい~~~~~!!(大爆笑)
 だぁぁぁぁいてぇぇぇぇ~~~~~~!!
 ジェノが当初はレゴシに惚れてたとか、作者自身忘れてそーだなー。
 後、当初はこの人、「私がビースターになる」と言ってた(肉食であり政治的にも上の位置に立つことを目指すという、「男」足らんとした)とかも、作者自身忘れてそーだなー。
 さて、最後はハル×レゴシ(嫌味でレゴシを後にしました)。
 えぇとね、もう書くのもヤです。
 平和になった中、デートする二人ですが、その最中、ずっとハルは耳をおっ立てています。これはウサギが不機嫌でいる証拠。ハルも顔は終始ニコニコなのですが、レゴシはずっとおろおろしています。
 案の定、最後に「イラつく」と切れ出すブス。
「レゴシ君、結婚しよ。そしてすぐ離婚しよ。そうすればあなたは一生私を追いかけてくれる。今のあなたは歴史を変えたヒーローであり、私には勝てる部分が何もない。そこが苛立たしい。あなたが私を追ってくれれば対等になれる」。
 あぁ、そうですか。〇ねばいいと思うよ。
 一応、この後、レゴシがそれを一度拒否して、自分からプロポーズをする、ブスが自分の負けを受け容れるというオチにはなります(「また負けたわ」とぼやく程度であり、自分がいかに身勝手なことをやり続けたかについての反省があるわけでは一切、ありません)。
 まあ、何かいずれにせよ最後までこのままです。
 あとがきでは作者からハルへのメッセージとして、「絶対浮気すんなよ! 世界一幸せになってね」と呼びかけています。これ、最低最少限の倫理を説いているようにも見えるんですが、まさか反語的な意味で言ってたりは……いやいやいやいやいや、さすがにしない……よなあ……?

 ……以上、読後感は「やれやれ」以外のものがありません。
 以前述べたヒツジも似たことを言っていましたが、結局「草食獣は肉食獣に勝てないからイキっていい」という倫理観がわけがわからない、無残なものとしか言いようがありません。
 メロンの母親についても当初は肉食獣の女性という存在を登場させ、価値感の転換を狙ったようにも思えるが、手に負えずに結局父親をクズにすることで母親を免責してしまいました。
 それに対し、ゴーシャの妻はゴーシャの毒で死んだわけで、それは男の「原罪」を強調するため、男に罪悪感を植えつけるためそうしたように読めます。
 先にも書いたように、ハルがそこまで「レゴシに敵わない」ことが気に入らないなら、自分も戦場に出ればいいのです。しかし彼女は、前にも述べたように食殺事件篇では最終決戦の夜、家でテレビを観てましたし、このクライマックスでも姿を見せません。キューというウサギは妙な超能力で肉食以上の力を得るのだから、「ハルにはそれができない」との言い訳は効きません(考えればこの能力もクライマックスでは登場せず、尻すぼみです)。まあ、「女は守られるべき」「その上で守られたことに文句を言うべき」なんでしょうね、レゴシの(テンとの戦いの時の)言からするに。
 一体、どこまで甘えきってるんでしょうか。
 時々書くように、オタク文化以前の漫画界では少女漫画が聖書のように持ち上げられていました。まあ、価値ある傑作も存在することは別に否定はしませんが、基本、少女漫画ってすごい若い子が描くんですよね。だからぶっちゃけ稚拙だったり節度がなかったりするものもあったりしました。しかし何より読者の少女たちに同世代感覚を持ってもらうことが大事だとされ、そのためそうした欠点もよしとされてきたのだと思います。要するにラジオDJだったんですね。
 ぼくが時々オタク文化を「裸の男性性」と形容するように、オタク文化もそれに倣ったもので、実のところ昔の同人誌とか、クオリティ非道いの多かったんですわ。描きかけで投げたようなのをぼったくり価格で売ってたり。でもそれも、友だちとだらだらしゃべってるような面白さがあったわけです。DJの別に面白くもないアドリブが親しみを感じさせる感じですね。
 だから、本作についてもクオリティが低いとか道徳的にけしからん、といった文句をつける気は、ぼくには全然ありません。少女漫画誌に連載されていたら、文句を言うこともなかったはずです。『ガガガ』でも全く同じことを言っていましたけど。
 しかし漫画界は女性様へと男性向けメディアを明け渡してしまいました。テレビとかが女性向け一色なのは、マーケティングでやってると思うんですが(何しろ日本人女性ほどテレビを長時間観る民族はいませんから)、漫画界ってフェミイデオロギーで無理からに女性を重用してる感じがします。
 もう四十年以上前の話ですが、内田春菊とかがそうですよね。「女の子のホンネ」とやらに多大な意味と価値とがあると勘違いした人たちが、単なる馬鹿女の戯言が並んでいるだけの落書きを聖骸布のように崇拝した。時々言うようにそれは「萌え」の台頭により消え去った……はずが、オタク文化の衰退と共に、彗星のようにカムバックし始めたのがこの十年でした。
『ガガガ』について書いた時、ぼくは「おもちゃのかんづめ」の男の子向けと女の子向けの違いがなくなっていることを漫画界の現状に準えました。
 そう、今の漫画界は「女の子向け」のおもちゃを男の子に押しつけることが「ポリコレ」になってしまっているのです。
 それはきっと、漫画界を、否、人類を衰退させる役にしか、立たないことでしょう。

『STAND BY ME ドラえもん2』――ドラえもん謀殺!そして男性否定妄想へ

2021-02-21 19:03:45 | アニメ・コミック・ゲーム


※この記事は、およそ8分(課金コンテンツを含めると13分)で読めます※

『Daily WiLL Online』様で新しい記事が掲載されています。

「お母さん食堂」まで標的に――過度な言葉狩りで墓穴を掘るフェミニストの矛盾

 フェミニストが何故、非現実的な認識と反社会的な行動を繰り返すのか、かなりわかりやすくまとめられたのではないかと思っています。
 記事の拡散や動画の登録、いいねボタン、コメントなどよろしくお願いします!
 いろいろ頼むなあ。

 さて、前半を掲載してからちょっとブログの更新を怠っておりましたが……未読の方は、前回記事から読んでいただくことを推奨します。
 それと、本稿では『STAND BY ME ドラえもん2』を「ドラ泣き」と呼称、また前作と区別をつける時は『1』、『2』と表記します。

 前回では宇多丸師匠がフェミニズムに洗脳され、恋愛も結婚も否定していることが明らかになりました。
 もはや「映画評論家」と称する職業には、ポリコレの洗脳装置、以上の存在意義がありません。
 しかし師匠の発言については、他にも違和を感じる点がありました。
『1』において、大人ののび太は小学生ののび太に「ドラえもんに会っていかないか」と誘われ、「彼は子供時代の友だちだから」とそれを拒んでいます。いえ、ぼくも観たのですが、そこは覚えてませんけどね
 宇多丸師匠はここを『1』の数少ない長所であり、『2』ではそれをひるがえして大人ののび太が平然とドラえもんと会い、その道具に頼っていることを批判していました。もちろん両作のつながりが悪い、という意味では正しい批判なのですが、しかし、と思います。
 そもそも前作の「ドラえもんに会わない」という選択自体が、おかしくはないでしょうか。(本作がフォーマットにした)原作の「45年後」でも、初老ののび太はドラえもんと会っています。そこで二人は「久し振り」と挨拶するものの、感激に抱きあうでもない。つまり、ドラえもんはいずれ(おそらくは小学校卒業後くらいに)のび太の下を去ると想像できるのですが、同時に人生の端々で再会していると思しいのです。
 そもそものび太はおばあちゃんとも、折に触れて「再会」しているのだから、ドラえもんとのそれをタブーとする理由はどこにもありません
『1』を評した回でも師匠は「ドラえもんと別れる話」である「さようなら、ドラえもん」を大仰に称揚しつつ、しかしながらその直後に描かれた「帰ってきたドラえもん」に「のび太の成長が否定された」と少々の不快感を示しています。
 いえ、師匠の評は「ある意味、イニシエーションが挫折したと言えなくもないが、しかしあらかじめドラえもんとの別れを暗示し、内包することによって『ドラえもん』は名作となった、また、のび太の成長というテーマそのものは映画版に引き継がれた(大意)」といったもので、これはぼくがかねてよりしている主張と全く同じです。
 もちろん、ぼくと同意見なのだからそこは同意できるのですが、しかしあまりにも師匠が「成長」、「卒業」を強調する辺りに、ぼくは違和を感じずにはおれないのです。
 宇多丸師匠は繰り返し、『ドラえもん』を「のび太という主人公の人生をどう立て直すかという成長譚」と言っており、いうまでもなくそこにぼくは全面同意するものですが、しかし師匠は「ビルディングスロマン」を金科玉条とした「べき」論に囚われすぎ、「成長してないからけしからん」と言いすぎ、ということができるのです。
 しかし、のび太が怠け者なのは、男の子が目指せるものがなくなったからでしょうがないじゃん、というのが前回でのぼくの説明でした。

 実は去年は本作以外にも『ドラえもん』が上映されています。普通の、アニメの劇場版である『のび太の新恐竜』です。
 こちらについても実は、『801ちゃん』の作者である小島アジコ氏が極めて緻密な酷評をしていました*1
 それは端的には『ドラえもん』とはダメ人間の肯定の物語であり、それを根性論、凡庸な成長譚にしたのは許せぬ、というもの。
 つまり、宇多丸師匠の本作についての批評と全くの正反対なのです。
 なるほど、では小島氏の『新恐竜』に対する酷評、それこそが正しいのか……となると、またそこも微妙なのです。
 いえ、この『新恐竜』評は極めて妥当であり、全くもって同感ではあるのだけれども、ただ、「のび太が怠け者であること」を無制限に肯定するのもまたどうか、そうなると「ドラ泣き」が正しいことになってしまうのではないかとの疑問も浮かぶのです。
 この両者の対立は、ぼくがかつてしつこく採り挙げた『ドラがたり』*2と『ドラえもん論』*3の対立と全く構造を同じくしています。

*1 ドラえもん のび太の新恐竜が自分にとってやっぱり度し難い理由。
*2 ドラがたり あんた、藤子不二雄のなんなのさ
ドラがたり とよ史とフェミニン兵団
ドラがたり とよ史とチンの騎士
「無残」以外の形容の難しい、嘘を根拠にただひたすらのび太、そして、のび太に共感する(と、著者が無根拠に信じ切っている)ロスジェネ世代へのヘイトスピーチを繰り返すという、狂った本。こんなものが発禁もされず市場に流れている理由が、ぼくにはさっぱりわかりません。
*3 ドラえもん論 すぎたの強弁
ドラえもん論 すぎたの新強弁
ドラえもん論 すぎたの強弁2020
基本、『ドラえもん』を称揚する体裁を取っているので、上に比べて不快感はありませんが、やはり左派がイデオロギーにこと寄せて作品を捻じ曲げる、粗悪な評論に過ぎません。


『ドラがたり』において稲田豊史師匠は「のび太はダメ人間だから駄目だ、成長しようとしない」と虚偽の限りを尽くし、『ドラえもん』という作品を罵り否定しました。
『ドラえもん論』において杉田俊介師匠は「のび太は永久にダメ人間なのだ、だからよい」と強弁の限りを尽くし、『ドラえもん』という作品を称え肯定しました。
 二人は全くの真逆のスタンスを取っているように思えるのですが、共通点もあります。一つに言っていることにほとんど事実の反映や論理的整合性がないこと。二つ目にフェミニズムにどっぷりと浸かった結果として、キモいジャイ子萌えの限りを尽くしていること。
 正直、ぼくのスタンスは微妙であり、当ブログの愛読者の方にも伝わっていないのでは……との懸念があるのですが、要するにぼくが何故、稲田師匠ばかりでなく(『ドラえもん』を一応、誉めている)杉田師匠を批判しているかとなると、『ドラえもん』は必ずしものび太の現状をただ肯定し、「そのままでいい」と言い続ける作品ではないからなのです。
 原作にはのび太が父親となった自分に会いに行く、「りっぱなパパになるぞ」というエピソードがあります。ここで大人ののび太はいまだ冴えない男のままであり、子供ののび太を失意させるのですが、同時にまだあきらめていない、勝負はこれからだとも語るのです。
 そうしたある種、ナーバスなテーマを内包する『ドラえもん』という作品から、偏った一面的なメッセージしか受け取ることができず、弱者への憎悪を隠すことができない稲田師匠は狂ったようにのび太を罵り倒し、男性は幸福になってはならぬのだと考える杉田師匠は、のび太は一生ダメなのだと小躍りをし続けるのです。
 ぼくとしては小学生向けの漫画すら正しく読めないこのお二人の方が、のび太の何億倍も心配なのですが。
 結局、杉田師匠も宇多丸、稲田両師匠も一見スタンスは真逆ですが、実のところ同じ穴のムジナでした。
 三人とも「男の子の内面」、つまり弱い男の子の辛さ、そして同時に弱いままでいたくないという気持ちなど認めてはいないのです。

「ドラ泣き」のクライマックス、(大人の)のび太が結婚式に戻り、しずかちゃんに「ぼくはぼくが幸福になるために戻ってきた。ぼくが幸福になることで、君も幸福にできるのだ」と告げ、しずかちゃんは「よくできました」と(上から目線で)それを受容します。宇多丸師匠はこれに怒り狂っており、そしてまた、ただひたすらに身勝手な振る舞いを繰り返した挙句のセリフがこれだという点で、ぼく自身も師匠に完全同意するのですが(本作においてしずかちゃんは、周囲に迷惑をかけまくるのび太に対し「そのままでいいのよ」を繰り返しています)、しかしある意味、これは極めて深いセリフです。
 結婚によって男性が幸福になることは、今の世の中では(そのゴールに辿り着く過程も、ゴールインして以降も)極めて難しい、男はただ、「責務」を果たすためにこの世に生まれてきて、「結婚」もまたその一環に他ならない、と考えざるを得ないのですから。
 だから仮に本作のクライマックスに至る「過程」がそれなりに描かれていれば、のび太の最後のセリフも素晴らしいもの足りえた。しかし、そんな「過程」は描きようがない。
 男性にも幸福になる権利はあるはずですが、そこまでの「過程」、そうなるための「方法」など、誰にも、まるで、さっぱり、とんと、見当がつかないのだから。
 男性の幸福というものの不可能性を、山崎監督は敢えてのび太にムカつく言動を繰り返させることで、敢えて物語を徹底的に破綻させることで、描破してみせました。そしてまた、そうすることで「男性の敵」をも、炙り出してみせたのです。

 最後に、もしあなたが『ドラえもん』の単行本などお持ちならば、「雪山のロマンス」を見直していただきたいと思います(てんとう虫コミックス第20巻です)。そう、のび太としずかちゃんの将来が確定するエピソード。ここでしずかちゃんは「側にいないと危なっかしくて心配だから、のび太さんと結婚する」と告げます。
 宇多丸、稲田師匠が発狂する様が、杉田師匠が随喜の涙を迸らせる様が目に見えるようですね。
 しかし――このセリフは最後の最後に、そう、おばあちゃんの時と同じ「オチのギャグ」の前振りとして言われることなのです。
 タイムテレビでこれを見た子供ののび太は「こんなみっともないの、イヤだ」と嘆き、ドラえもんは「それなら、もう少し頼もしい男になれ」と言うのです。
 これは「結婚は確定したが、これでよしとは言えない」(相変わらずダメなのび太、しかし成長しようとする意志もある)という、絶妙な落としどころだと思います。
 その、「話の流れ」を読めない者たちが、勘違いしたまま一喜一憂している、そして彼らはそんな貧相な「評論」でドラえもんを謀殺し、世に害悪を垂れ流しつつ飯を食い続けている、というのが、この国民的コンテンツを巡るお寒い状況なのです。

 ――さて、今回はこんなところですが、ちょっとだけ過激なオマケを、課金コンテンツにしたいと思います。
「ドラ泣き」の立ち位置というか、時々言っている「オタク文化の黄昏」の一端に、本コンテンツを位置づけての感想を、ちょっとだけ。←よければ、ここをクリックして見てみてください。

風流間唯人の女災対策的読書・第16回『ムーミン谷の彗星』・第17回『ムーミン谷の夏まつり』

2021-01-09 19:26:41 | アニメ・コミック・ゲーム

 さて、『Daily WiLL Online』様で新たな記事を書かせていただいております。
被災地でレイプ多発⁉NHKはフェミニストの手先か」。
 どうぞご覧ください!
 
 それと、動画のお報せ。
 今回は北欧のおとぎの国から、『ムーミン』のお話をお届けします!
 それも豪華二本立て!
 ムーミンの豆知識をばっちり学んで、友だちに差をつけようぜ!

風流間唯人の女災対策的読書・第16回『ムーミン谷の彗星』


風流間唯人の女災対策的読書・第17回『ムーミン谷の夏まつり』

「漫画『BEASTARS』から読み取る、女性に内在するフェミニズム的性向」を読む(その5)

2020-12-05 22:39:57 | アニメ・コミック・ゲーム


※この記事は、およそ11分で読めます※

 ――ご無沙汰しておりました、『BEASTARS』評の時間です。
 正確には匿名用アカウント氏の本作評への感想であり、まずは本ブログ前回前々回前々々回前々々々回、及び匿名氏のnoteを読んでいただくことを推奨します。
 さらに、そもそもの『BEASTARS』も読んでいただくのがベストなのですが、ぼく自身、先日ようやっと十五巻までを読んだばかりでまだ読破はできていない状況なので、今回はその中間報告になります。

・兵頭、十五巻まで読んだってよ

 本作に関しては既に十一巻までをレビューしていますが、十二巻以降は「種間関係篇」と呼ばれる、言ってみれば最終章へと入ります。
 この最終章より、壮獣ビースター(といってもよくわかりませんが、悪い肉食獣をやっつける、街のヒーロー的なエラい人です)ヤフヤが登場、レゴシに接近します。
 彼は馬であり、強い草食獣。肉食獣を深く憎む存在であり、そのため悪い肉食獣をやっつける一匹狼のヒーローのようなことをやっているのです(ビースターという存在がいかなるものか今一不明であり、ヤフヤは権力者ともつながってはいるものの、フリーの自警団のような存在として描かれます)。
 その初登場シーンはというと――ブラックミルクメーカーで、四十代のメス牛が薬を飲んで母乳を絞られ、苦しんでいる。査察に来た役所の人間(?)も、何とか丸め込んでお引き取り願おうとするメーカーのエラいさんだったが……その役人はエラいさんの首根っこを引っ掴み、恫喝する。

この社会が成り立っているのはすべての草食獣が寛大だから、そして…僕がいるからだ


 この役人は実は……ヤフヤの変装(?)だったのだ~~~!!
 番場壮吉かよ!*
 この後もタンクを蹴り潰して脅したりオバさんを「淑女」と呼んだり、もう見てられません。
 このヤフヤ、レゴシの祖父とのBL的因縁もあり、彼がレゴシを自分の右腕にしようとし、レゴシもまた街の悪に戦いを挑むという展開が、この種間関係篇の主軸となります。


* https://www.youtube.com/watch?v=TkMllPpVt1E


 街に「麻薬の売人」ごとき者が現れる話があります。飲んだ者の肉食の衝動を高めるような薬をエナジードリンクと称して売る連中。レゴシは正体を見抜き、正義の怒りを燃やします。「このドリンクになった草食獣の痛みを知れ」。
 暴れ回り、レゴシはふと気づく。
 読んでいてここは当然、「暴力衝動もまた肉食獣の業だ……」とレゴシが内省するという展開が描かれるのかと、ぼくは思いました。
 が、レゴシが言うことには――。
「俺は草食獣フェチだ」。
 何だそりゃ?
「俺は正義のために戦っていたのではない、草食獣が好きなだけだ」。
 負傷したレゴシは見舞いに来たルイを見てまた「草食獣ってなんてきれいなんだろう」などと宣います。
「俺は草食獣フェチの変態だ」と自虐するレゴシに、ルイは「変態だろうと何だろうとそれで誰かを守れるならば正義だ」とか宣うのです。
 何というか……種間関係篇に入ってから、本作はいきなり(BL及び)無国籍活劇になってしまったかのようです。
「無国籍活劇」というのは(日本としか思えない場所なのに)登場人物がフランクに鉄砲を持っていることからそのように呼ばれるやくざ映画の類であり、これに影響を受けた特撮ヒーロー番組が『快傑ズバット』です。そんなこんなでレゴシも
 早川健かよ!*2
 と言いたくなるような活躍をするようになるわけです。
 要はこのシーン、自分の暴力性に対して内省があるのかと思いきや、そうではない。
 もちろん、フェミニズムは男性の攻撃性を非現実的なまでに恐れ、罵倒するものであり、それは全く同意できませんし、レゴシが自らの暴力性を内省する描写があるべきだとも全く思いませんが、あれだけ草食獣への暴力性をとがめてきた本作にしては、何だか肩透かしでした。
 言わば作者は「食欲」という形で「男の性欲の中の、暴力性」だけを恣意的に「悪だ」として切り取り、一般的な意味での「暴力」は「何か、格好いいアクション(であり、女性を守るための力)」としてあっさり免責しているように見えてしまうのです。
「女は暴力を揮う男が大好き」という本田透や近年の非モテ論者(小山氏とかあの辺)のようなことを言いたくなってこようというものです。

*2 https://www.youtube.com/watch?v=nzEEfDRXQjU


 さて、十四巻に至り、レゴシはヤフヤに招待され、その下を訪れます。
 ヤフヤはレゴシの友人の脚を食った過去を知り、謝罪しろと暴力で抑えつけます。もっともヤフヤは犯罪者の肉食獣の死体でニンジンを育てているような人物であり、言わば草食獣側のタカ派。レゴシもまた、罪を詫びるかのように自らの牙を抜くのですが、ヤフヤが全面的に正しい存在として描かれていないのは自明で、レゴシもその後、ヤフヤに殴りかかります。
 そう、匿名氏のブログでも重要視されていたこのシーンは、ここで描かれるものなのです。そこにあるのは、明らかに「肉食獣=男性」の原罪への激しい告発なのですが――しかしいかに大ゴマとはいえ、いきなりな描写の上、あっという間に義歯をつけるので「何だこりゃ」感が残ります。
 そんなこんなで、現時点でヤフヤはあまり印象的なキャラとも思えません(考えてみれば「草食獣側の悪者」というのを描くのは、作者の手に余るんじゃないでしょうか)。

 一方、印象的な悪役がメロン。彼は肉食獣草食獣ハーフであるがため、言わば「レゴシとハルの未来の子供」のネガティビティを負った存在。「いかに多文化共生は素晴らしいと言ったところで、生まれて来る者が背負う苦難に、お前は責任を取れるのか」という、これはかなりラディカルな問いかけを象徴したキャラになっています。
 ヤフヤと共にメロンを捜索し、レゴシはいったん、彼を捕縛。しかし言葉巧みに相手の心を掴むメロンに、レゴシは手錠を外してしまうのです!
 アホか!?
 ここ、匿名氏も「作者が消耗していたのではないか」と書いていた箇所なんですが、普通であれば「油断させ、手錠の鍵をすり取る」とかでいいんだから、やはり作者が天然というか、元々こうしたことにあまり深く気を回さない人なんじゃないかなあ。

・女性キャラ、全員ビッチだってよ

 ――さて、今までぼくが行ってきた、本作への評を一言で言うと、「多様性」「多文化共生」とでもいった自分の用意したテーマに自縄自縛に陥った作品、とでもいったことになるかと思います。
 基本、本作に対するツッコミのほとんどは、「そもそも肉食獣と草食獣とが何でいっしょに暮してるんだよ、別々に棲め!!」というものでしたから。
 ただ、種間関係篇において、レゴシはうどん屋をバイト先にしてボロアパートを住居と定め、これ以降本作はちょっとだけ「下宿物」の楽しさの片鱗を覗かせることになります。
 前にもちょっと書いたことがありますが、70年代の漫画作品には「まだ何者でもない青年」が「仮住まい」としてのアパートで暮らすというジャンルがありました。『マカロニほうれんそう』や『めぞん一刻』のように、そこは往々にして非常識的な住人との「ハレ」的な非日常の空間として描かれます。
 本作も、例えば独自の死生観を持つ海生生物などの個性豊かなお隣さんとの生活という、楽し気なムードが漂い始めるのです。いや、ホンの一瞬漂うだけですが……。

 しかし何といっても顕著なのは「ムカつくメスキャラ」の台頭。
 他にもお隣さんとして雌羊が登場し、延々「自分語り」を始めます。毎朝「雑種専用車両」に乗って会社に出かけるOLなのですが、本人の語るところでは「男と対等になるために」、その車両に乗っているというのです。
 何が何だかわかりません。この世界で存在すべきなのは「草食獣専用車両」であり、話の流れを考えれば、肉食獣と対等になるために「肉草共用車両」に乗る、となるべきだろうに、「雑種」ってナニ? 単純に「共用」の意味で「雑種」と言っているのか?
 まあ、要は「男社会で男に負けまいとガンバるOLへの応援歌」的な話なのですが(或いは、ひょっとして、「少年漫画誌で孤独に奮闘する自分」を投影しちゃってたりなんか、するのかなあ……)、ともあれこの女はレゴシと出会うことで気づきを得、「自分を罰して欲しくて雑種専用車両に乗っていたのだ」とか言い出します。何だそりゃ。
 これは後の巻のあとがきで、作者自身の経験談を元にした話だと書かれます。女子高生時代の作者は現実のストレスから逃げ出したくて、「通学電車の隣のおじさんに誘拐してもらおうと、何か媚びた仕草をしてみた」ことがあるそうなのです!
 何というか、随分幼い行動ではあるものの、「そのおじさんにも失礼であった」と自分の愚行を内省する作者の筆致は極めて冷静で、好感が持てるのですが、正直、漫画だけ読んでいるとよくわからない描写です。
 考えようによっては「女が、女の武器を利用して男に加害性を発揮する」というかなりラディカルな女性批判足り得るシーンのはずなのですが、これ以降もこの羊、何だかエラそうなことばかり言っています。
 この人、スポーツ用品のメーカーに勤めており、若い男性の意見を求めてレゴシをスポーツシューズショップに誘います。
 そこで(かつての)同僚に出くわし、「女の子だから」とからかいを受けるのですが、その元同僚たち、レゴシに注意されると、一転してしゅんとなります(肉食獣もいたのですが、狼はその中でも強いってことなんでしょうか?)。
 あぁ、やだやだ、「何ら落ち度のない私が悪の男にいじめられていたが、現れた正義の男の騎士的行動に救われる」との嘘松話だよ……と思っていると!
 この羊、レゴシに対して「子供のくせに何でエラそうに私を助けるのだ」と激昂するのです!!
 何で?
 自分が頑張ってきたのに肉食獣の迫力に敵わないことを思い知らされ、不快だと。
 知るかよ、そんなこと!!
 レゴシもまあ、「草食獣の騎士」ですからひたすらへこへこするばかり。フェミ様の癇癪におろおろと頭を下げ続けるチンポ騎士そのままです。
 落ち着いてからの羊はレゴシに「あなたは悪くない」と言ったりもしますが、相も変わらずウエメセ。せめて怒鳴ったことを謝罪しろよ! 助けてもらったことに礼を言えよ!!
 とにもかくにも読んでいてこちらが感じるのは、話の本筋よりは、こうした「女の天然な傲慢さ」ばかりです。

 一方、当初はセカンドヒロインのように設定されていたジェノ、すっかり影が薄くなってしまいます。そりゃ、メインヒロインであるはずのハルだって影が薄いんだから、当たり前なんですが。
 このジェノ、食殺事件篇ではビースターを目指すと宣言したり、重要キャラになっていくのかなあ……と想像していたのですが、再登場時に描かれるのは、ルイの義足を見て思わずルイへとキスをする、というシーンです!
 何だそりゃ!
 また、これは十六巻の描写ですが、何とまあ、レゴシのボロアパートを訪ね、「恋愛相談」をするシーンが描かれます。つまり、彼女はもうはすっかりルイを恋愛相手として定めているのです。
 あまりのことにページを飛ばして読んだのかと思ったくらい唐突な展開です。
「女はいつでも男をとっかえひっかえする権利があります」がこの作者の道徳律なんでしょうね。

 もう一つ、これも十六巻にまで渡って描かれる描写ですが、レゴシの母の霊のエピソードも登場します。
 実はレゴシ自身もトカゲとオオカミのクオーター(いくら何でも爬虫類と哺乳類が普通に混血するって、どうなんだ?)。母は美しいメスオオカミだが、身体に鱗が生えてくるのに耐えかね、レゴシが12歳の時に自殺を選んでしまいます。同情すべきとはいえ、レゴシの立場になって見れば、幼い日に自分を捨てて死を選んだ非道い母親です。
 しかし(他のあらゆる女性様作品と同様)レゴシは母にも従順な騎士のように誠実で、また母も(気の毒とは言え自殺した人間なのに)妙にエラそうに達観した言葉を垂れます。
 全てが間違っているように、ぼくには思われます。

 あ、メインヒロインのハルちゃんは大学へと進学。キャンパスライフで「目指せキラキラ女子!」をしていたら、友だちがライオンとの異種族カップルであることを自慢気に押しつけてきて、つい本音でdisってしまいう、といったエピソードで活躍しますw
 あぁ、はいはい。
 で、その直後、見るからに温厚なライオンの彼氏は、見るからに嫌なヤツであるそのメスウサギに苛立たし気に「キスしてよ」と求められ、悪気なく牙を立ててしまうのです。
 まさに地獄。肉食動物にとっての。
 だから、要するに棲み分けてればいいんですよ、両者。
 正直、このエピソードをどう解釈すべきかは今一、わかりません。
「意識高い系」の獣たちが上っ面の「ダイバーシティ」を謳い、きれいごとの「共生」を謳歌しているのだ、といったエピソードは実は以前にも描かれ、ここではその因果応報で事件が起きたのだという、一応、本作の深みだと、評価しなければならないのかもしれません(事実、この後ハルがそうしたきれいごとを嫌い、レゴシに裏市へと連れて行ってもらう描写もあります)。
 しかし何というか、ぼくには単にブスが「リア充爆発しろ」と怨嗟の念を吐露し、そして彼女の思い通りに「リア充が爆発した」というなろう的幼稚な描写に見えてしまうのですが。
 つーことで『BEASTARS』評、もうちょっとだけ続きます。

「漫画『BEASTARS』から読み取る、女性に内在するフェミニズム的性向」を読む(その3)

2020-10-17 18:54:39 | アニメ・コミック・ゲーム


※この記事は、およそ13分で読めます※

 ――というわけで、続きです。
 匿名用アカウント氏の『BEASTARS』評の感想であり、まずは本ブログ前回前々回、及び匿名氏のnoteを読んでいただくことを推奨します。
 さらに、そもそもの『BEASTARS』も読んでいただくのがベストなのですが、ぼく自身、先日ようやっと第一部とも言える六巻までを読んだばかりで、本稿もあくまで匿名氏の批評を根底に置いたものなので……。

・兵頭、四巻まで読んだってよ

 さて、上にあるように六巻までを読んだのですが……何というか、匿名氏のnoteではここでひと段落つくようなことが書かれていたのですが、何か次回への引きで終わってしまっており、全然話としては片がついていません。
 一応はハルがシシ組というヤクザに捕まり、食われそうになるのをレゴシが助け出す(その後、期せず「外泊」となり、ベッドを共にしかけてレゴシが臆する)のがクライマックスなのですが、その後、一巻分日常話を続けた挙げ句、ぶった切ったように話が終わってしまいます。
 そう、シシ組というからにはこのヤクザ、ライオン集団。そして彼らが根城にするのは「裏市」の最奥部。
 この「裏市」が描写されるのが三巻で、レゴシたちが仲間で繰り出す話が描かれます。前回挙げた悪役のトラは、ここでクッソ汚い老人が自分の指を売っているのに出くわし、大枚はたいて指を食ってしまう。嫌悪を覚えたレゴシは裏市から出ていく。
 裏市で売られているものの多くは病院や葬儀屋から流されてきた死肉であり、非合法であれ、殺害は(シシ組がいるような最奥部では行われているけれど、浅い部分では)行われていない。
 トラがここを「平和を保つために存在する必要悪」であるように語り、また作者が大体の肉食獣がここを利用していると書くように、また匿名氏が評していたように、ここは歌舞伎町のようなニュアンスで描かれています。
 ここでこの裏市の顔役ともいうべきパンダのキャラクターが登場します。彼はこの裏市でパニクっていたレゴシを見て殺獣経験のある者だと判断、彼を拉致して肉食の悪を解き、ハルと別れろと諭します。「お前は狩猟欲を愛と勘違いしているだけだ」と。
 ここもまた匿名氏が評していたところで、ここで語られるのは「悪しき性欲」と「真の愛」は別という世界観だ、というわけです。
 パンダちゃんは「若いヤツらはロクなモンじゃねえ。何にかにつけて恋愛だ何だとはしゃぐ」と嘆きます。
 80年代に恋愛資本主義というものが生まれ、女性は社会の主役になりました。しかし苦界で女が辛酸を舐めているという設定でしか「シコれない」女性たちはレイプ物のBLを生み、レディコミを生んだ。そして、本作もその一つなのです。
 パンダはレゴシに「小動物物のエロ本」を渡し、語ります。「これに反応したらお前は特殊性癖だ。しかしそうでないのにハルにこだわっているなら、むしろそっちの方がヤバい」。そう、ここで本作はペドファイルをダシに男全体を叩くフェミニズム本であると明らかになるのです。
 ウサギであるハルは、背丈もレゴシの1/3ほど。レゴシは「幼女に欲情するヘンタイ」であった(事実、七巻で「ロリコン」と呼ばれるシーンが登場します)。ハルは精神的には自立している女のように描かれつつ、何故だか幼女のように弱者という聖性を持つ女であった、のです。
 で、このダークな巻を読み終えると描き下ろしページで「ハルのひみつ!」みたいな企画をやっててうんざり。ハルは自分に嘘をつかない、思っていることをずけずけ言うところが魅力なんだそうな。
 あ、はい。
 四巻に読み進めるとハルの描かれ方はいよいよ妙なものになります。
 ハルが安易にレゴシと寝ようとしたことを、レゴシは「安っぽく自分を差し出さないでほしい」と諭すと、ハルは、「常に死と隣り合わせの動物の気持なんか知りもしないくせに」と見開き大ゴマで怒り出すのです。
 そんなこと言ったって、「死と隣りあわせ」だったら、なおのこと、「安っぽく自分を差し出すな」というお説教が正しくなるもんなー。
 この後、揉めた二人を見た周囲の連中が「暴行を加えているのか」と騒ぎだし、二人は逃げ出す。「あなたなんて捕まったら少年院行きだ」とハル。
 そう、ここでハルはまた、支離滅裂な理論を展開してしまっているのです。
「死と隣りあわせ」なのは女ではなく男の方であると、ハルは知りながら、気づかずにい続けているのです。
 また、レゴシもレゴシでここでハルの手を引きリードすることで(別に抱きかかえているわけでもないんだけど)「初めてオオカミの自分を肯定できた」と感じます。いや、でもそこで逃げる必要が生じたのは自分の「肉食」性が原因では。
 この辺、どうも何が描きたいのかが、よくわかりません。
(この後のお茶してるだけのシーンにわざわざ「レゴシのおごりです」と説明を付け加えるのもいい感じです)

・兵頭、六巻まで読んだってよ

 何やかんやで五巻、シシ組編に入ります。
 先に書いたようにシシ組はボスに献上するため、ハルを拉致するのですが、ボスは彼女を食べる前、羞恥の感情が肉を美味にするなど、かの国の人のようなことを言い、その身体を「検品」します(要するに服をひん剥いて〇〇〇を覗き込むのです)。しかしハルはそこで強がり、「私は冷静だから、もう肉は美味くないぞ」と言うのです。
 何だかよくわかりません。いや、羞恥が肉を美味くするという設定があるので一応、強がりとして成り立っているのですが、それはこの瞬間にいきなり出てきた設定に過ぎません。現実と対応させれば、レイプされそうな女性が「私は恥ずかしくない、イヤじゃない」と強がるのと同じです。強姦者が「羞恥せずに身体を開いたので興醒めだ」と感じることはあるかもしれませんが、それは同時に「レイプされる側の痛み」の否定でもある。フェミニストってよくこういうマウント取るけど、あまり意味ないんじゃないかなあと。
 まあ、何やかやで現れたレゴシが「愛のパワー」で勝利、ハルを助け出すのですが、その時、思わず「ハルは俺の獲物だ」と口走ってしまう様が見事です。これはいまだレゴシが潔白な正義ではなく「悪」の側にいるぞとの保険を、作者はここでかけているのですね。
(もう一つ、このエピソードでも、またこれ以前にも、劇中に銃が登場します。そりゃあ、スマホすらある世界で銃がないのも不自然ですが、これを持ち出すとパワーバランスが崩れちゃうんじゃないのかなあ)
 五巻終わりから六巻にかけて、ハルとレゴシが帰宅手段もなく、ホテルで一夜を明かすのですが、ここでハルは(レゴシを誘うと共に)自然とレゴシに飲まれるような体勢を取ってしまい、「捕食本能があるように、被食本能もある」などと言うのです!
 ねえよ!!
 いや、もし「ある」という世界観にするのであれば、これはこれで前回挙げた『ミノタウロスの皿』に近い価値観が設定されているといえましょう。「草食獣もまた、一方的な被害者ではないぞ」と。しかし、果たして作者はこれ以降、そこまでを描くのか。現段階では甚だしく疑問という他ありません。
 このホテルのエピソードそのものは、まあ微笑ましいというか生々しいというか、レゴシにそれなりに感情移入して読めるんですが。

・兵頭、最終回書くってよ

 ――さて、先にも書いたようにこの六巻までが一つのまとまりであるかのように語られつつ、話はばっさりと終わります。まだ先がどうなるのか読めないのですが……ただ、一つだけ匿名氏のnoteに戻りたいと思います。
 前々回、ぼくは「本作は細かい世界観設定などないのではないか、フィーリングで描かれているのではないか」と繰り返しました。
 が、物語が進むにつれ、この動物たちの社会の形成の経緯がちょっとだけ匂わされるそうです。
 驚くべきことに、それは「かつて、別々に生息していた肉食獣は草食獣に出会い、そして草食獣を守る対象として認識した」というもの(!)。
 自然界において、肉食獣は「罪もない植物さんを屠る草食獣という悪魔から、植物さんを守る正義のハンター」として、神様に配置されています。そう、肉食獣が草食獣を食することこそ、正しい「共生」なのです。
 ですが、本作では当初は両者は棲み分けていた、ところが肉食獣が草食獣へと奉仕したくて、「共生」を選んだといいます。
 普通に考えて、「共生」する意味などないのに(肉食獣もそれ以前は肉食獣同士で食いあっていたのだから)。
 肉食獣が、共食いするより草食獣の方が「美味い」から、ないし肉食獣同士のホモソーシャルな結託を強化したくて、下位存在(食べるための存在)としての草食獣を欲した、というのであれば、辻褄はあう。
 ところが驚くべきことに、「守らなくてはならないから」、自主的に草食獣との「共生」を望んだのだ、というのが本作の世界観なのです。
 もうおわかりでしょう、「私は男なんかキョーミないのに、男どもが寄ってくるのよね」というわけです。
 この社会では草食獣も充分権力を持っているわけで、だったら、ゴタゴタが起こらないよう、肉食獣と草食獣を棲み分けさせればいいのです。
 本作の学園では「草食動物寮」「肉食動物寮」が設定されています。ここまで来て、これが「男子寮」「女子寮」のメタファだと理解できない人はいないでしょう。
 しかし、寮を分けるのであれば、そもそも別に暮らせばいいものを、何故、それをしない?
 そう、肉食獣が草食獣に奉仕したくてしたくてならないので、頭を下げて「共生」を望み、草食獣は半目でタバコを吹かしながら、「寮は分ける」という妥協案の下、それをお許し下さったのです!!
 ここにあるのは、女性の果てしない被愛妄想です。
 そもそもが動物が立って歩き、スマホをいじっている時点でフィクションなのだから、こうした支離滅裂な、女性の「情緒的整合性」にのみ則った設定もまた、許されるのでしょう。
 一方で草食獣と肉食獣の間で戦争があった、との歴史も語られはするのですが……。
 ――さて、いい加減、最終回を語ってみましょう。
 いや、何か実際本作、ちょっと前に最終回を迎えたらしいのですが、以下は「ぼくのかんがえたさいきょうのびーすたーさいしゅうかい」になります。
 一応、上の設定もお含み置きの上、お読みください。

 動物たちの世界に、宇宙船が降り立つ。
 そこから現れたのは、裸の猿を思わせる生物。彼らは自らを、「地球人」と名乗った。
「申し訳ないことをした。かつて我々の祖先がここを訪れた時、『文化汚染』を行ったのだ」。
 地球人のリーダーが動物たちのリーダー、ヤフヤに謝罪する。
 その様子に、ヤフヤたちは不思議がる。自分たちが異星人と接触した歴史など、残ってはいない。いや、そもそも彼らにとって過去の歴史は極めてあやふやなものだった。かつてあった大戦争のため、歴史を失った民族であったのだ。
「場所を隔てて生きていた草食動物の下へ、肉食動物が奉仕をするために現れた」といった記述が、聖書でなされてはいたが……。
 地球人は説く。その聖書とは、この星を訪れた地球人の書いたものだ。
 彼はこともあろうにこの星の家畜、「ウス」に恋愛感情を抱き、「ウスを食べるのはよくないことだ」と指導者たちに弁舌を揮い、それでも通じぬとなるや民意に訴えようと、自分の主張を本にして出版した。そこには「ウスが優れたよき存在であり、そんなウスに対し、ズン類は奉仕しなければならないのだ」といった内容が書かれていた。同時にそこにはウスに対する訴えも書かれていた。「君たちは食肉とならずとも、ただそこにいるだけで賞賛されるべき存在なのだ」。
 この主張を受け容れるウスたちが現れた。多くは肉の固くてまずい種族だ。彼ら彼女らはこの本を信じ、自分たちはただ、そこにいるだけでその見返りを得るに足る存在と信じ始めた。
 その結果、ウスとズン類との徹底した断絶が起こった。
 ウスたちの娯楽として、「ズン類が自分の美しさのあまり、食べることなく自分を愛で、奉仕の限りを尽くす」という「不味コンテンツ」が流行した。一部論者が、「本来であれば美味故に得られる栄誉を、何のコストもかけずに得られるべきゲインと勘違いしている」として、そうした欲求を「負の食欲」と呼んだり、ウスに媚びたいズン類がウス批判者の著作を自著でデタラメな根拠によってあげつらったり、こっそり裏市でウスを食っていることがバレたが、ウス側の糾弾からは逃れたりといったことが起こった。
 やがてウスから得られる利がゼロになった時、ズン類はウスと接触を断つ道を選び――しかしズン類の称賛を必要とするウスはそれを押し留めようとし、両者が武力衝突。「第一肉草大戦」が勃発した。
 ついには禁断の「D兵器(多様性兵器)」が投入された。遺伝子を変換するその兵器のためにウスもズン類も多種多様な姿に変貌してしまい、両者のボーダーは曖昧となった。
 ウスは「草食獣」と呼ばれるように、ズン類は「肉食獣」と呼ばれるようになって、その中でも巨大獣、小型獣といった多様性のある種族が溢れ、それぞれの種の都合を忖度して生きねばならない非常に高コストなエココレ(生態学的正義)社会が現出。元の文明も忘れ去られ、永い時が経った。
 生存するため、再びウスとズン類は共生関係を築き上げ、しかし草食獣は数の少なさから(希少な自分たちを巡って肉食獣を争わせることで)優位性を得、政治権力を握るようになっていた。彼らの中でも有力者は自ら動物たちの長、「ビースターズ」と名乗り、肉食獣を支配するに至った。彼らはあの地球人の出した本を「聖書」として崇め、その記述はいつしか「肉食獣は草食獣に尽くすために、共生を望んだ」と解釈されるようになっていった――。
 草食獣たちは、肉食獣に引き金を引かせた時点で自分たちが勝利するシステムを作り上げた。自分たちの肉体を小出しにすることで、相手にそれを求めさせ、そして求めたとたん、相手を糾弾し、優位に立つ支配のシステム。
「肉食獣が草食獣に奉仕するために現れたのではなかった、草食獣が奉仕されたいがために肉食獣へと働きかけていたのだ」との歴史を白日の下に晒され、パニックに陥る草食獣たち。
 いずれにせよ、肉食獣が肉食を止めたことは今までなかった。また、草食獣の中に自分の肉体の美味さに対するナルシシズム――食べられることで、相手の心を捉えたいという衝動――はあった。
 ならば、互いの欲望を詳らかにして、肉食獣と草食獣は今一度、共生するか分立するかを見直すべきではないか――。
 ようやっと、大戦以降初めて、草食獣と肉食獣は異質にして対等なる者として、この星に並び立ったのだ――。
 ――とまあ、こんなところです。
 ぼくは、本作は女性性の持つ大いなる利、即ち男性にモテることで自己承認欲求を満たせるとの「事実」を隠蔽した上で成り立っている、と指摘しました。女性側は、自らの欲望を隠し、綺麗なままでいると。
 ハルは「自分に被食本能がある」と語り、また後の話ではレゴシ以外の男に食われようとする。そこに、彼女の「汚れる覚悟」を見て取ることができるのかは今のところ、判然としません。
 後、本作にはもう一匹のキービーストが登場しますが、それについてはいまだ述べることができていません。
 そんなわけでまあ、ぼかしたオチになってしまいました。
 つーことで『BEASTARS』評、もうちょっとだけ続きそうです。