仙台からいわきへ。そこで見た、感じた光景は

2015-05-23 21:07:29 | 日記

   仙台からいわきへ。そこで見た、感じた光景は

     仙台東部道路・ 常磐道・国道6号線を走る

 

  仙台での会合があり、その帰り道、車でいわき市に向かうことにした。常磐道路は開通し、国道6号線も通行が可能となったためである。車は、仙台東部道路を走り仙台空港を左に見て常磐高速道路へ。今回は空港には寄らなかったが4年前の大津波に見舞われた光景を思い出す。駐車場にあった車はぷかぷかと浮かび。そして飛行機も浮かんている。家屋が屋根だけを見せて流されてくる。まさに自然の猛威の恐ろしさを目のあたりにした。しかし、今は復旧し飛行機の離着が繰り返されている。そして多くの乗客が飛行機の中に吸い込まれていく。何事もなかったように、あの惨事が忘れたかのようにだ。だがその周囲は今もって爪痕を残ている。コンクリートの基礎だけを残したところに女の子の人形が置かれていた。もしかしたら、ここに住んでいた女の子が流されたのであろうか。そんなことを思い瞼がうるんだことを記憶している。

 そして国道6号線に入り「道の駅・相馬」に寄る。そこでコーヒーブレーク。そこは普段の「道の駅」とは変わらない光景である。屋外にテーブルがありそこで食事をしているグループもいた。これを知った方の中には多分眉をひそめる人もいるだろう。合えて写真を載せた。南相馬市内は、一部避難立ち入り禁止区域を残しているものの、生活の気配が伝わってくる街並みが続く。市役所の壁には、地元出身の今井正人さんのマラソン日本代表祝賀の幕も飾られていた。また同市の議会は「脱原発宣言」を全会一致で決議している。それだけではない安倍政権による「集団的自衛権の行使容認の憲法解釈」に対し、「震災時に駆けつけ、支援・救援をしてくれた若者たちを戦争に行かせてはならない、殺してはならない」として、反対決議案が保守議員から提出され決定している。そして国の重要無形文財に指定されている「相馬野馬追」の中心地でもある。

  そこから浪江・双葉・大熊・楢葉へと6号線を走る。先に進むに従い「生活の気配」はなくなる。無人の町である。車を降りて左右には立ち入りができない。

  2年前、このあたりはセイタカアワダチソウの「黄金畑」であったであろう。しかし、昨年から今年にかけて1メートル位の木立が稲田の土地に根をはってきたのが目立つ。中には柳の木もある。古老の言葉に「柳の木が育ち始めたらその土地は元に戻せない」というものがある。仮に復元させようとしても20年はかかるだろう。今回は牛の姿を見ることはなかったが富岡「夜ノ森」の牧場を訪れたことがある。そこは居住禁止区域で人が住めない。牧草が生えない時期は牧場主が干し草を運んでくる。現在何頭いるかはわからない。死んだ牛もいれば、小牛も生まれているが何匹かは把握されていない。飼い主が手を貸して交尾、出産をしていた牛が今は野生化して生き抜いている。

 

  そして、至る所に除染物の入った「フレシキプル・コンテナ」が集められ、野積みされている。この除染作業はいつまで続くのだろうか。

  楢葉に入ると光景が一変する。生活の匂いを感じる。子どもの姿も見ることができる。だが壊れたままの家屋はその儘である。手を加えようもなければ、戻る決断ができない住民も多いのであろう。とりわけ、若い皆さんは新しい生活を求めて離れていったと言われている。親として子への責任がある。いつ戻れるかはわからない状態に甘んじるわけにはいかなかったのも当然であろう。

  道路沿いのコンビニや食堂などの前は、原発基地内で働く作業者の姿や車が目につく。また、朝はいわき方面などから向かってくる車が軸つなぎになる。政府や地元自治体の方針は、除染を進め、インフラを整備して帰還を促進をはかるとしている。そのことが住民に対する行政の責任となるのかどうか。今回もそのことを考える場面に直面した。

  とは言え、かく言う私も現地のものではない。ひと時の臨場感だけで判断できるものではないことは確かであるこを最後に述べたいと思う。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


言葉はいつまでも生きている。そして責任を持つものでありたい

2015-05-18 11:15:58 | 日記

言葉はいつまでも生きている。そして責任を持つものでありたい

 

  今年も庭の剪定を始めた。とは言うもののその剪定をするのは私ではない。毎年依頼をしてやって頂いている。庭をつくって頂いた職人は次のように言っていた。「庭師は、自分の好き勝手な庭をつくり、お金を頂く、ありがたい職業です」。そしてこうも言っていた。「枝を落とす。その切り口から出る香りは一番の良薬です。長生きできるということを感じます」と。素人の私が、柿の木の剪定するにあたって知り合いの庭師に聞いたことがある。「どこを、どのように切ればよいのか」と。その答えは「木ばさみを持つ貴方に、ここを落としなさいと枝がささやく。決して難しいことではない」と述べていたのを思い出している。そこでじっと見つめていると「あの枝は切っても良いのでは」ということに気づくことがあるのは事実である。

  さて、本日も来られた職人が、まず一番最初に手掛けたのが「松のみどり(新芽)摘み」である。その延びることの早いこと。あっという間に600ミリリットルのボトルを超えるまでに伸びてしまった。そこで思い出す。子どもの頃、この発芽したばかりの松の新芽を摘んで池に浮かばせた。すると切り口から出る「松の油」が推進力となって新芽は池面を走る。その速さと距離の競争をしたものであった。当時は何でも遊びの道具にしたものである。

  自宅の庭をつくってくれた職人は今はいない。だが言葉は残っている。残っている言葉には重みがある。言葉が大切であることはいつの時代も変わらない。その意味では今の政治家が発する言葉くらい無責任なものはないことを感じる。

  5月17日のNHKの日曜討論である。そこには自民党の稲田政調会長が出席をしていた。そして、いわゆる後方支援における討論に入る。「戦闘行為が行われていない地域での支援であるとするが、その支援が武器・弾薬の補給であるとすれば、その場は『兵站基地』である。当然にして相手はその兵站基地を狙うであろう。となれば殺す、殺される戦場となる。どうして自衛隊の安全が守られるのか」という質問に対し稲田会長は答える。「その場合は後方支援を休止する」と、そして「逃げれば良い」との言葉を認める。

  今はやりの「戦争ゲーム」に興じている子どもに同じ質問をしてみよう。子どもは何と答えるだろうか。「逃げるわけにはいかない、戦うしかない」と答えるだろう。麻生副首相も述べている。「この法律は理解できない」と。そのような中で、さも物知り顔に語る言葉に無責任な政治家の姿を見たのは私だけであろうか。そしてさらに付け加えたい。「保守派の論客」と評される貴女は戦争を体験していない。もちろん、体験をしていない者が「戦争を語る資格が無い」と言うつもりはない。しかし、「戦争とは何か」を知る、語るだけのものを持ち合わせていないことを貴女は顕著に受け止めるべきではなかろうか。

  「生命を生み出す母親は、生命を育て守ることを望みます」。これは母親大会のスローガンである。「己の命をかけて生み、そして育てたわが子を戦争に駆り出される」ことを望む女性はいない。女性である政治家稲田氏に、あらためて命の大切さを尊ぶ政治姿勢と責任ある言葉の発信を望む。それは私だけではないだろう。

  

 


 それが「私たちの生活とどのようにかかわるの」・それが知りたいのです

2015-05-16 11:20:44 | 日記

 それが「私たちの生活とどのようにかかわるの」・それが知りたいのです

  一昨日のブログには「数にものを言わせる安倍首相」というタイトルで書いた。再度繰り返したい。安倍首相の記者会見におけるパフォーマンス発言に終始した安倍首相も、今後の国会論議においては「戦争法案とか無責任なレッテルを貼るのではなく、中身のある議論をしたい」とけん制したと報じられている。そうであれば尚の事、いつもの「かわす発言(回答)」はしないでほしいと言いたい。

  例えば、安倍首相の好んで用いるホルムズ海峡の機雷掃海がある。「日本国内の油の枯渇を意味する・それは存亡の危機」であるとして集団的自衛権を正当化する。そうであればそのための自衛隊の派兵。そして殺す、殺される危険を伴う事態の覚悟と引き換えるだけの「国民の生活のリスク」を具体的に説明すべきである。また後方支援においては、自衛隊の安全が守られない場合は速やかにしかも「無傷」で撤退すると力説している。であれば、その「絵」を具体的に書いて国民、そして自衛隊とその家族に見せるべきである。いみじくも今回の記者会見で、武器を使用することによる隊員の危険(戦死)を指摘する質問があった。首相は「自衛隊員のこの間の旬死者1800名を例に上げ、隊員の使命感を力説している。的外れの回答である。「殉死」ではないのだ、「戦死」なのである。

  そんなこともあって、今回は中央紙三紙の記事を貼りつけることにした。

  安保法制は「平安法」?呼称「平和安全法制」に

政府・与党は14日に閣議決定した新たな安全保障関連法案について、「平和安全法制」という呼称を普及させようとしている。

これまで政府・与党では、法案に関する与党協議を「安全保障法制整備に関する与党協議会」と命名するなど、「安全保障法制」と呼んできたが、今月に入ってから、「平和安全法制。略して『平安法』」に呼称を変更した。「戦争法案」などと批判する野党側に対抗する狙いがあるようだが、与党内からも「呼び名に頼るのは姑息(こそく)では」(自民党幹部)と指摘する声が出ている。

                                      読売新聞 - ‎2015‎年‎5‎月‎15‎日 ‎金曜日

  民主・榛葉氏「麻生さんらしい」 「難解」コメント評価

  「ユニークな麻生(太郎)さんらしい、的を射たコメントだ」。民主党の榛葉賀津也参院国会対策委員長は15日、安倍内閣が閣議決定した安全保障関連法案について、麻生財務相がその難解さに触れたエピソードをこう「評価」した。 麻生氏は14日、政府高官から安保関連法案の説明を受けた自民党国会議員の妻が「全然わからなかった」と感想を述べたとの話を紹介していた。 榛葉氏は、15日の会見でこの発言に触れ、「お茶の間のお母さん、お父さん、おじいちゃん、おばあちゃん、投票権を得る18歳の若者を含め、国民が『なるほどこういう法案なんだ。だから私は賛成。だから僕は反対』と思ってもらえる議論をしないといけない」と強調。「国会議員でも分かっていないと思う。私も理解するのに苦労している」と述べた。(上地一姫)

                                      朝日新聞デジタル - ‎2015‎年‎5‎月‎16‎日 ‎土曜日

  安保法案:「丁寧な説明心がける」首相が答弁

  安倍晋三首相は15日の衆院本会議で、安全保障関連法案について「多くの国民、与野党に法案の趣旨を理解いただき幅広い支持が得られるよう、分かりやすく丁寧な説明を心がける」と述べた。野党側は首相が4月の米国議会演説で法案成立を「夏までに実現させる」と表明したことを「前のめり」と批判したが、首相は「戦争法案とか無責任なレッテルを貼るのではなく、中身のある議論をしたい」とけん制した。

  首相は自衛隊の活動範囲が拡大することについて「実際に派遣するには、国益、自衛隊の能力も踏まえ主体的に判断する」と説明した。自衛隊員の危険が高まる懸念に対しては「後方支援を部隊の安全が確保できない場所で行うことはなく、危険が生じた場合は業務を中止するなど明確な仕組みを設け、自衛隊員の安全に十分配慮している」と理解を求めた。一方、首相は議会演説で表明した「先の大戦への痛切な反省」について「犠牲になった米国の方々に哀悼の意を表し、戦後の日本が先の大戦に対する痛切な反省を胸に歩んできたこと、自らの行いがアジア諸国に苦しみを与えた事実から目を背けてはならないことなどを明確に述べた」と強調した。【加藤明子、当山幸都

                                      毎日新聞5月15日金曜日

 

 


 数の力にものを言わせる安倍首相・どこに丁寧な討論が

2015-05-14 20:10:10 | 日記

 数の力にものを言わせる安倍首相

   11の法案を一括して上程、どこに丁寧な討論があるのか

 

  安保法制関連法案の閣議決定を終え、各閣僚が首相官邸を後にする場面がテレビに報じられていた。その画面には、官邸前に抗議のため集まった皆さんの叫び声が入っている。そしてその前を通り過ぎる閣僚の車の中にも、官邸内の首相の耳にも届いていることだろう。そして6時からの記者会見である。前もって質問内容は提示されていることであり、安倍首相はいろいろな例示をもって説明に臨んでいるつもりだろうが、形式的な言葉の羅列であり、緊迫したものを感じないのはいつものことである。鋭い記者からの指摘があって良いのだろうが、それは見当たらない。多分所属会社の報道部から抑制されているからだろうか。

  さて谷垣自民党幹事長は次のように述べている。「アジアの力関係も、アメリカの力も、昔と変わってきた。そういうなかで、日本がどういうふうに自らの国を安定させるか。いろんな試行錯誤をしながら一歩一歩、展開してきた議論のなかで、こういう(新たな安全保障法制の)結論が出てきた。「戦争法案だ」とか言う人がいるが、やはり大事なのは日本が戦後、平和国家として国際法を尊重し、法の支配を尊重し、国際紛争の解決には平和的な手法を重んじる国であると、高く評価をされてきたことだ。そのうえで、大きな国際情勢の変化に日本がどう対応していくのか。なぜこういうこと(安全保障法制)が必要なのかを丁寧に説明していくことが極めて大事かなと思う」。(自民党のインターネット番組で)

  歴史の受け止め方、そして現状の分析についての違いはある。それは当然である。だからこそ丁寧な説明が必要であると与党の幹事長は述べていると思う。しかし実態はどうであろう。閣議決定された安全保障法制を構成する11法案のうち、新たな恒久法案を除く10本の改正法案を一括して「平和安全法制整備法」との名称で国会に提出するというのである。つまり11本の法律を2本にまとめて審議するやり方であり、まさに異常であり乱暴である。安倍首相は記者会見で主張している。「私たちは選挙によって国民の信託を得たのだ」と。先の米国議会における発言にしても「私の決意を述べた事、決して国会を無視したものではない」とも発言している。そこには、昨年2月の集団的自衛権行使をめぐる衆院予算委員会において「最高責任者は私だ。政府の答弁には私の責任において答える。その上で選挙の審判を受けるのは私だ」と宣言した。あの時の記憶と重なる。そして「私は国民の信託を得た」と居直る。

  とはいえ、そのような中でも麻生副総理の言葉が漏れてくる。自らの派閥の会合での発言である。「これから国会で『平和安全法制』の審議が始まるが、みなさん方の奥さんに『この問題について、全然地元で説明ができない』と言われた。誰か紹介しなさいということになったので、岩屋毅先生を予定していたら総務会が入ってしまった。そこで、初級者向きの(岩屋氏)ではなく超上級者向きの(内閣官房副長官補の)兼原信克氏に説明に行ってもらったが、全然わからなかったと。なかなか難しいものだ。有権者、後援会の方々に丁寧に説明していただけるよう努力していただきたい」と。

  有権者、後援会の方々に丁寧に説明するとは、開かれた国会の場で、国民を前にして、各々の違いを明確にし合う討論があってこそはじめて成り立つものであろう。はじめから意見の違いを、数の力によって否定する国会論議は麻生副総理も納得しないし、諸先生の奥様方も地元にあって苦しむだろうと思うがどうだろう。

 


他国人の太平洋戦争への徴用、その責任は誰がとる

2015-05-12 11:38:39 | 日記

  他国人の太平洋戦争への徴用、その責任は誰がとる

   5月11日の毎日新聞の「余禄」を見る。その余禄には太平洋戦争において徴用された台湾人の事が書かれていた。その一部が次の文である。「先の大戦では20万人以上の台湾人が、軍人、軍属として徴用され約3万人が死亡した。しかし、日本国籍を捨てさせられたために、戦後補償の対象にならなかったことが記されている。そして、この湖を望む奥多摩の地は、台湾の景勝地日月潭(にちげつたん)に似ていることから選ばれたと解説が加えられていた。そして、今月28日には現地で法要が営まれる。戦後70年を語り継ぐべきことは多い」として記事は終わっている。

  原発立地県でもあり、そして事故による被害を受けた福島県もかつては「水力発電王国」であった。とりわけ阿賀川、只見川本流とそこに注ぎ込む幾多の流域には大小幾つもの水力発電所が建設されている。その中でも「巨大なダム」をつくった田子倉発電所・只見発電所は世界に誇れる水力発電所と言えるだろう。もちろん、湖底に沈んだと、そこを定住の地としてきた人々の犠牲があってのことではあるが。

  私は、この田子倉ダムに用いられる発電タービンを目にすることができた一人である。それは日本の有力電機メーカーの製造所にいた時である。その工場最大の大型クレーンで吊ったタービンを床におろした際、コンクリートの床が「ぎしっとうなり、ひび割れ陥没した」のである。それだけ大型で、とてつもない重量を持つタービンである。63年前であった。そして今も現地で稼動している。

  再生エネの主軸になってきた水力発電ではあるが、そこには幾多の歴史が刻まれていることも確かである。その一つを、冒頭の「余禄」に合わせ報告したいと思う。

  福島県猪苗代湖から、国道456号線を裏磐梯に向けて車を走らせること30分程度。その途中に三つの「慰霊碑」がある。一つは昭和18年に着工された「沼倉発電所」の工事に徴収され亡くなった中国人のものである。そして100メートル離れたところにの「碑」は沼倉発電所の「取り入れ口」にそばに建てられている。そこには明確に「朝鮮人慰霊の碑」と刻まれている。そして300メートル先に赤い欄干の橋があり、その奥に「中国人殉難烈士慰霊碑」に建てられている。その案内版には次の説明がある。「太平洋戦争の末期、約4万人の中国人が中国から強制連行され、全国135箇所の建設工事に従事させられた。そのうち6830名の中国人烈士が過酷な重労働のために殉死している。福島県でも沼倉・宮下発電所に1000名の中国人が従事し25名が殉死している。以来事実の調査、遺骨の収納慰霊を行った」と書いてある。そして、その沼倉発電所の歴史をひも解いてみる。資料はヤフー・ジャパンによる。

  「1944年4月、日本の連行政策のもと熊谷組の職員が中国に行き、華北労工協会と400人の連行「契約」をむすんだ。1944年6月、青島を経て塘沽の収容所へと送られた。連行用貨車の扉は外から鍵がかけられていた。塘沽の収容所から船に乗せられ下関へ。そこから汽車に乗り、豊橋で乗りかえて平岡へと連行された。 平岡に到着すると連行された人々は二隊にわける。1944年10月には平岡から福島県沼倉の猪苗代発電工事へと200人が転送された。そこには10月末から11月にかけてすでに512人の中国人が連行されていた。沼倉では15人の逃亡者が出たが、14人が捕らえられて二人が死亡、一人は行方不明のままだった。捕らえられた12人は12月末に、北海道のイトムカ鉱山にある地崎組「第一華人収容所」へと送られた」。死亡者は作業による殉死だけではない。弾圧による死亡者・行方不明者も出ているのである。

  余禄を読み触発された私は現地を訪れた。しばしば通る道であり、同行する妻はいつも助士席からではあるが目礼をする。その日は初夏を思わせる穏やかな日であった。しかし、僅か数十年前のそのあたりが「地獄絵を繰り広げられたの地」であったのだ。そのようなことを知る人も少ない。また知っていたとしても記憶にとどめることも無くなっているだろう。「記憶は薄れ、あの時の過去は歴史」となってしまっている。しかし、その歴史に描かれた具体的な事実を決して忘れてはならない。あらためて心に刻んだ2015年5月11日であった。

  なお、そのように思いながら車をそのまま裏磐梯に走らせた。重くなった気持ち解きたかったからである。最後に明るい光景の写真を付け加えた。

 沼倉発電所中国人慰霊碑                              

   沼倉発電所朝鮮人殉難者慰霊碑

 福島県中国人殉難烈士慰霊碑

                    

  福島県が誇れる「裏磐梯の初夏」・暗い写真の後におまけの明るい風景を