陸軍飛行場・製塩工場、そして第一原発・双葉地区の歴史を見る

2015-05-04 23:24:26 | 日記

 陸軍飛行場・製塩工場、そして第一原発

                 双葉地区の歴史を見る

      

  地震、津波、そして原発爆発というトリプル被害をもたらした日から4年が経過した。

  その原発が建設され、稼働し、東京首都圏に送電をしていた第一原発の立地土地が、あの大戦時の飛行場であったこと、その飛行場から南方の戦地へ「片道きっぷ」で飛び立った若者がいたこと。そして戦後、西武鉄道の親会社である「国土計画株式会社」による製塩工場建設されたこと。その存続が長く続かなかったことをどれだけの人が承知しているだろうか。そして戦中、戦後を通して、この地にのみ生活の糧を求め続けてきた双葉地区大熊町の住民にとっては、降って湧いたような原発誘致に、将来の生活の道を求めた事は自然な成り行きであった。

  戦後70年が語られる今日、あらためて阿武隈山系と太平洋に挟まれた地区の歴史を、東京電力第一原発を見下ろす高台に建立された「磐城飛行場記念碑」を紹介しながら考えたいと思う。さらに、付け加えたいものに隣接する原ノ町に「雲雀ヶ原飛行場」がある。

  記録は次のことを記している。「昭和14年12月15日は決して忘れることが出来ない日となりました。この日役場に集められて聞かされたのは、軍の飛行場敷地として買収されるので、戦争完遂のため軍の指示に従い、を上げて期日までに移転せよというという立ち退き命令であり、一同は『ただ唖然とするばかりであった』。しかも、「代替地は各自で探し、期日までに明け渡すように」という、まことに勝手な言い分でした。「御国のため」という言葉の前には誰も逆らえない、そんな時代でした。住民強制移住の申し渡しから11日後の昭和14年12月26日、石神村議会は「雲雀ヶ原飛行場設置に関する件」を諮りました。軍への協力を否めない時代になっていたということと共に、雲雀ヶ原入植地の大半が借地で自作農が少ないという土地柄がこの決定につながりました。

  戦時体制ではあるものの、住民の移住が強行された歴史を持つ双葉地区である。強制移住は「土地収用法の適用」と同義語である。中間貯蔵施設の建設地をめぐる住民交渉にも、その歴史のあったことが頭をかすめる。

  「磐城飛行場跡記念碑」(全文)
  「この地起伏少なき松山に農家散在す、昭和15年4月国家の至上命令により突如陸軍で飛行場建設決定。住民11戸移転直ちに着工す。当時、工法はトロッコにスコップで手積み、人力で押し逐次軌道延長整地す、作業人夫は請負業者と郡内外の青年団、消防団、大日本愛国婦人会、学徒一般民等献身的勤労奉仕、半ば強制作業で工事が進められた。17年早春、宇都宮飛行学校磐城分校発足20年2月磐城飛行場特別攻撃教育隊として独立日夜猛訓練受け、第一線配属若者が御国のため大空に散華す。同年8月9・10日米軍空母艦載機の大空襲で施設破壊亦各地方の被害甚大なり。20年8月15日終戦となる。その後一部農地開拓す。昭和23年日本国土計画で中央部以北塩田化海水揚げ天日式で濃縮、旧長塚駅近くまでパイプで送り製品化す。34年イオン樹脂交換製塩発達のため閉じる。亦塩田以外の地に 23年旧地主に払下げ25年植林す。37年東京電力株式会社原子力発電所建設備候補地となり39年買収、41年本着工現在に至る。思い出の大きこの地忘れられるを憂い終戦43回忌に当り、大戦で亡くなられた人々の御冥福と恒久の平和を祈り兵舎跡地にこの碑を建立す。

 昭和63年8月15日        磐城飛行場跡記念碑建立有志会

    原ノ町雲雀ケ丘飛行場跡地に立つ「忠魂の像)


公海が存在しないホルムズ海峡・最狭部の幅33キロメートル

2015-05-04 10:55:30 | 日記

 公海が存在しないホルムズ海峡

          最狭部の幅33キロメートル

   68年前の5月3日現憲法が公布された。今年も各報道機関は企画をこらし、あるいは各地においては護憲グループや改憲グループの集会が開催された。しかし、総じて「静かな5月3日」であったことは間違いない。来年は参議院選が行われる。政権党の自民党も「改憲選挙」と明確に位置付けている。それに対し護憲グループの動きは、各論の微妙な違いの中で分裂の様相を見せている。問題はその選択をせまられる有権者国民の意識がどうかである。かく述べる私も、幼くはあっても戦争を体験した一人として、憲法第九条は守らなければならないとしながらも運動につくる。あるいは参加する意力・体力を持てないでいることも事実である。しかし、「私の戦後」をまとめなければならないとする意思は持ち続けているつもりである。

  さて、戦時の標語に「欲しがりません、勝つまでは」・「進め一億、火の玉だ」・「油の一滴・血の一滴」というものがあった。これは当時の国民の間に浸透した三大標語である。そして、飛行機の潤滑油として使うとした「ヒマシ油」がある。私たちはこぞって自宅前の路肩や、空地を探しては「ヒマの種」を植えた。そして実を絞り「ヒマシ油」にしたのであるが、果たして使われたかどうか。そして有効な働きをする「潤滑油」になったか、どうかは聞くことはなかった。朝ドラで、高い視聴率のあった「マッサンとエリー」がある。場面の中に海軍から「ワインの製造」を求められる。ワインに石灰を混ぜると「洒石」ができる。その酒石は潜水艦のソナーとして使うことができた。いわゆるワインの軍事転用である。山梨県のブドウ園でもこの「酒石」づくりに専念したと聞くが、これとて実効があったのかどうか。ヒマシ油づくりもしかり、国民の総動員体制への動員が目的であったと考えるのが至当であったろう。.

  戦争をするということは、教育も文化も、そして習慣も「軍事態勢になる」ということである。

  自民党が「ほのぼの一家の憲法改正ってなあに?」マンガ本をつくったという。まだ目にしていないが、コマの一つに「海に浮かぶ機雷の掃海と日本国内の油のひっ迫」がとり上げられているだろう。安倍首相が好んで用いるタイトルである。なぜなら中東からのタンカーが通る「ホルムズ海峡が機雷で閉鎖されたら、日本国内の石油はひっ迫する。それこそ「国の存立が脅かされる重大危機である」。「石油の一滴は・血の一滴」であるとする現代版の復元である。時の為政者はこの選択を国民に迫ることによって軍事態勢をつくっていった。

  ホルムズ海峡の最狭部は、対岸に位置し合うオマーンとイランとの幅は約33km(8里)である。イラン本土近傍には複数の島が海峡内にあり。よって、この最狭部には「公海」は存在しないことになる。

  機雷(地雷もそうだが)は、相手国の侵入を防ぐ軍事目的に使われる。侵入軍隊が機雷の触れて軍事力を落とす。そこに攻め込み壊滅に追いやる。まさに有効な武力行使である。タンカーが航海できないとして、日本が「集団的自衛力の行使」という名のもとに自衛隊が派遣(派兵)し、そして掃海を始める。軍事目的をもって海上に浮かばせた国がそれを黙って見ているだろうか。当然軍事攻勢をかけてくるだろう。では自衛隊は安全を優先して撤退するのか。そのような「マンガ」は存在しない。双方の武器使用が展開される。これを戦争と言わなくて何と表現するのだろうか。まさに「安保法制関連法は『戦争法』である」。スローガンだけでは大衆は理解、納得できない。具体的事例をもって、そのことが国民がどのような場面に直面するのか、そのことを具体的に出し合ってみたいものである。

  ヤフーブログより・「海上自衛隊・掃海艇『やくしま』の全景」