言葉はいつまでも生きている。そして責任を持つものでありたい

2015-05-18 11:15:58 | 日記

言葉はいつまでも生きている。そして責任を持つものでありたい

 

  今年も庭の剪定を始めた。とは言うもののその剪定をするのは私ではない。毎年依頼をしてやって頂いている。庭をつくって頂いた職人は次のように言っていた。「庭師は、自分の好き勝手な庭をつくり、お金を頂く、ありがたい職業です」。そしてこうも言っていた。「枝を落とす。その切り口から出る香りは一番の良薬です。長生きできるということを感じます」と。素人の私が、柿の木の剪定するにあたって知り合いの庭師に聞いたことがある。「どこを、どのように切ればよいのか」と。その答えは「木ばさみを持つ貴方に、ここを落としなさいと枝がささやく。決して難しいことではない」と述べていたのを思い出している。そこでじっと見つめていると「あの枝は切っても良いのでは」ということに気づくことがあるのは事実である。

  さて、本日も来られた職人が、まず一番最初に手掛けたのが「松のみどり(新芽)摘み」である。その延びることの早いこと。あっという間に600ミリリットルのボトルを超えるまでに伸びてしまった。そこで思い出す。子どもの頃、この発芽したばかりの松の新芽を摘んで池に浮かばせた。すると切り口から出る「松の油」が推進力となって新芽は池面を走る。その速さと距離の競争をしたものであった。当時は何でも遊びの道具にしたものである。

  自宅の庭をつくってくれた職人は今はいない。だが言葉は残っている。残っている言葉には重みがある。言葉が大切であることはいつの時代も変わらない。その意味では今の政治家が発する言葉くらい無責任なものはないことを感じる。

  5月17日のNHKの日曜討論である。そこには自民党の稲田政調会長が出席をしていた。そして、いわゆる後方支援における討論に入る。「戦闘行為が行われていない地域での支援であるとするが、その支援が武器・弾薬の補給であるとすれば、その場は『兵站基地』である。当然にして相手はその兵站基地を狙うであろう。となれば殺す、殺される戦場となる。どうして自衛隊の安全が守られるのか」という質問に対し稲田会長は答える。「その場合は後方支援を休止する」と、そして「逃げれば良い」との言葉を認める。

  今はやりの「戦争ゲーム」に興じている子どもに同じ質問をしてみよう。子どもは何と答えるだろうか。「逃げるわけにはいかない、戦うしかない」と答えるだろう。麻生副首相も述べている。「この法律は理解できない」と。そのような中で、さも物知り顔に語る言葉に無責任な政治家の姿を見たのは私だけであろうか。そしてさらに付け加えたい。「保守派の論客」と評される貴女は戦争を体験していない。もちろん、体験をしていない者が「戦争を語る資格が無い」と言うつもりはない。しかし、「戦争とは何か」を知る、語るだけのものを持ち合わせていないことを貴女は顕著に受け止めるべきではなかろうか。

  「生命を生み出す母親は、生命を育て守ることを望みます」。これは母親大会のスローガンである。「己の命をかけて生み、そして育てたわが子を戦争に駆り出される」ことを望む女性はいない。女性である政治家稲田氏に、あらためて命の大切さを尊ぶ政治姿勢と責任ある言葉の発信を望む。それは私だけではないだろう。