20代の若者が親の介護者に・その犠牲はあまりにも大きい  

2014-06-19 11:36:09 | 日記

   20代の若者が親の介護者に・その犠牲はあまりにも大きい  

NHKの受信料を拒絶しようかと考えることもあるが、今回のような番組があると「やはり払うか」となる。6月17日に放映された「クローズアップ現代」である。

「若者が介護者」になる実態を報じる企画であった。

今までは妻が夫を、夫が妻を、そしてお嫁さんがお舅さんを介護するという実態を多く見てきたし、またそのことに触れてきた。しかし、父の介護をしている25歳の娘さん。26歳の息子さんが、母の介護をしている事実を目のあたりにしたとき、その重みは並々ならぬものであることを痛感した。

高校生の時から父の介護を続けてきた彼女であったが。働いていた母が突然倒れ共同の介護者を失った。今はすべてが娘さんにかかってきた。やむなく大学を中退した。その場面では取り上げてはいなかったが病を持つ母親である。いずれは母親も面倒を見なければならないかもしれない。仮に両親の介護となれば、まさに「介護地獄」である。当然にして在宅は困難。その時に「介護制度」の適用が受けられるか、どうか。

もう一人の男性。母親の介護をはじめたときは就職したばかりであった。休暇をとり介護を続けていたものの、次第に会社に居づらくなったという。「上司が『10年・20年勤めて貢献している人が、そうやって家庭の事情で休むならわかる部分もあるが、1年目なのに、休んでいるのはおかしいね』」と言われ、僕もうなずくしかなかったと。父は働いている。どちらが辞めるかについて迷ったという。当然にして収入の多い父はそのまま働き、息子の決断を優先した。今もって、それがベターであったか、どうかと悩む父である。

5月14日のブログに「介護は先が見えない。いつまで続くかわからない介護はきつい」ということを書いた。病気であれば、それが良いわけではないが看病の見通しがつく。それならば頑張って看取ってやろうとなる。それでもきつく、大変であることは事実である。

識者はいろいろと解説をしていたが、20代の若者が学校を中退し、あるいは職場を中途退社してまでの介護を終えた時、その若者「娘や息子」の将来がどうなるのか、そこに私の想いは集中した。

いつまで続くかわからない。ある意味で「自由を得たそのとき」、二人は何歳になっているだろうか。将来を見つけ出すことができるだろうか。見つけることができない挫折感を受けることにならないか。「私の将来を父や母が奪った」と嘆いても、当然の重さである。

二人とも、この介護の経験が活かせれと良いと語っていた。どうぞ、そのことが実現し、それまでの時間を取り戻せることを祈るものである。

折も折、参議院でも自・公の賛成多数で「介護・医療一体改革法案」が成立した。いつぞやのブログにも書いたが、両院の法案の審議は、テレビ中継も含め、余り国民の前に示されることはなかった。しかも審議時間は最短であったと報じている。

麻生副総理の言葉を思い出す。「ワイマール憲法が、いつしかナチス憲法に変わっていた。あの手口を学ぶべきである」。つまり「静かに、国民の判らぬように進める政治」という発言(撤回はしたが)であったが、この法案の審議もまさにその通りである。

近代的な社会保障として「保険制度」を導入された介護制度である。それは「誰もが、どこでも、いつでも、必要な時に介護が受けられる」。これが立法の精神である。この改定法案は、これを根元から切り捨てたと言っても過言ではない。今まで国の政治のあり方を根本から変えるものである。

子どもが、自分の将来を犠牲にしてでも、親の介護をしなければならかった事実はあまりにも大きい。

静かに決められてはたまらない重要な法案であった。にもかかわらず、私たちも静かでありすぎたのではなかろうか。

整備期間として3年がある。これからは自治体への働きかけを始めなければならない。用意しよう。

 

 

 

 


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