細沼園のお茶飲み話

お茶の時間のひとときに、思いつくまま書きました。

出津文化村  (長崎県)

2014-07-17 21:45:40 | 散歩・旅  九州

重要文化的景観の範囲は、長崎市西出津町、東出津町の全域及び新牧野町の一部の面積約456.1ヘクタールです。この範囲には、「単位景観」という8つの景観のまとまりがあり、石積集落の特徴をよく表しています。   (パンフレットより)

重要文化的景観

長崎市外海の石積集落景観

外海地域は角力灘(すもうなだ)に面した西彼杵半島の中心部に位置しており、標高400m内外の起伏のある山地の間を流れる出津川によって作られた谷地形が発達しています。

海岸付近は急傾斜の断崖が多く、平地はごくわずかであるため、集落は1か所にまとまっておらず、河川流域部のわずかな平地や、北西の季節風を避け、水脈に沿って造られた斜面地などに点在しています。

幕末に作られた絵図には、住居や畑地、墓地などを一つの単位として点在する集落の姿が描かれており、現在もなお、こうした集落構造が継承されていることも外海の特徴です。

ド・ロ神父記念館

    

 ド・ロ神父記念館は、昭和43年11月に開館しました。

 深い人類愛の精神と素晴らしいフロンティア精神をもって、外海地方の産業・社会福祉・土木・建築・医療・移住開拓・教育文化などに奉仕したフランス人宣教師マルコ・マリ・ド・ロ神父の遺品を一堂に収めて、偉業・道徳を顕彰することを目的として記念館を設置しました。記念館は明治18年(1885)にド・ロ神父が鰯網工場として用いるために自ら設計・施行した建物で、翌年からは保育所として使用されました。昭和42年2月に長崎県の史跡に指定され、平成15年12月に旧出津救助院の一部として、国の重要文化財に指定されました。建物は、木骨煉瓦造、平屋建で、上屋にキングポストトラス(三角形をつくって構造を構成するトラスのうち、中央に真束と呼ばれる支柱の立っている形式)を架けた明治時代の洋風建造物として特異な建物で、平成14年3月に創建時を偲ばせる明治中頃から昭和初期の姿に修復されました。

 ド・ロ神父は1840年にフランス・ノルマンディー地方のヴォスロール村に生まれました。バイユの神学校を卒業後、パリ外国宣教会に入会、1868年(慶応4年)宣教師としてだけではなく石版印刷の技術を伝えるために28歳で来日しました。74歳で亡くなるまでの46年間を日本で過ごし、そのうち33年間を神と外海の人々に仕えようと意を尽くし、貧しく厳しい生活を強いられている人々の魂と肉体を救うため、社会福祉や産業開発などに力を尽くしました。

 ド・ロ神父は、建築技術にも造詣が深く、明治8年完成の旧羅典神学校(国指定重要文化財)をはじめ、教会や各種施設の建築を手掛けています。ド・ロ神父の建築は、風土に密着した洋風建築で、堅牢で実用的なところに特色があります。

 旧羅典神学校、出津協会、大野協会、旧出津救助院は世界遺産候補「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の構成資産に選ばれています。

 

旧出津救助院 

 国の重要文化財に指定されている旧出津救助院は、ド・ロ神父が村人の窮状を救うために資材を投じて設立した授産・福祉施設で、後に修道会に発展します。明治16年(1883)に授産場が竣工、その東側にマカロニ工場を配し、道路に面する一部は、神父の独自の工法で築かれた「ド・ロ堀」があります。続いて、鰯網工場(現ド・ロ神父記念館)が明治18年に竣工しました。授産場は、木造及び石造二階建寄棟造りで一階をマカロニ・ソーメン製造・染色・搾油作業場、二回を機織工場や修道女の生活の場、礼拝堂として用いられ、使用された機械器具はド・ロ神父がヨーロッパ諸国から購入したものでした。この3棟の建物は、明治初期の授産、福祉施設という他に例をみない貴重な遺構です。また、我が国近代における西欧建築技術受容の一端を知るうえで重要で、歴史的価値が高く、顕著な地方的特色を有する文化財です。

 出津教会は明治15年(1882)、ド・ロ神父の設計・施行により建てられた教会で、住民の心のよりどころとなっています。創建時から2回の増築を経て現在の形になりました。ド・ロ神父はこの教会を建てる時にも、台風の被害を避けるために屋根を低くしたり、視線を祭壇に向けさせるために平天井にするなど独自の工夫を凝らしています。

外海歴史民俗資料館

 

外海のキリシタン

 1549年、フランシスコ・ザビエルが、鹿児島に渡りキリスト教の布教を始めてから、西彼杵(にしそのぎ)半島は長崎県平戸に次いで、早くからキリスト教が栄えたところである。当時村人たちのくらしは貧しく、交通も不便で恵まれない環境の中にありながらも、自然の幽玄な美しさがあり、そこに住む村人たちの精神活動は極めて旺盛であったと伝えられる。
 なかんずくここ外海(そとめ)は、宣教時代、迫害時代、そして明治六年(1873)キリシタン禁止高札撤去までの約250年間、長い険しい苦難の歴史に彩られている。
 藩主大村純忠が、1562年、トーレス神父に内海の横瀬浦を開港して翌年に授洗(この時、日本初のキリシタン大名となる)した。純忠に続いて家臣たちもキリスト教に改宗した。間もなく後藤貴明のクーデターで横瀬浦が焼打ちされ、宣教師たちの普及活動も挫折した。
 二年後、宣教師たちは福田港を根拠地として、長崎外海地方にキリスト教を広めていった。
 1592年、外海では神浦(こうのうら)の教会が中心となり、城主神浦正信、その子息正房もキリスト教になった。その頃は大村領全域がキリスト教化していた。
 1614年、徳川家康の迫害によって多くの宣教師は投獄、火刑、斬首、熱湯責め、穴吊りなどの激しい拷問を受けて殺された。
 1630年には外海の池島、出津、黒崎、永田のキリシタンが捕らえられ、火刑や斬首の刑を受けた。幕府は1636年から西彼杵半島の海岸に小番所を設けて、外国船の取り締まりとキリシタンの動きを監視した。
 キリシタンは潜伏し、あるいは殉教する中で、絵踏みや間引きによる幼児殺しまで強要された。そのため多くのキリシタンは財産を捨て、信仰と自由の安住の地を求めて、五島、平戸へと逃散した。
 西彼杵半島を布教した最後の宣教師は、金鍔次兵衛(きんつば じひょうえ。修道名:パードレ・トマス・デ・サン・アウグスチン)といわれる。
 その後宣教師は日本にいなくなった。キリシタンたちは指導者を失い、ひそかにコンチリサン(キリシタン用語で、痛悔の祈り)を唱え、バスチャン暦を大切に守り、バスチャンの予言を信じながら、肉体と精神的非道な拷問に耐えてひたすら信仰を守り続けた。1868年、太政官のキリシタン禁令が公布され再び弾圧が始まった。肥前佐賀藩に属する外海のキリシタンは、高島炭鉱、深堀の堤防工事など強制労働にかり出されたり、算木責め、吊り責め、たたき責めなどのむごたらしい拷問にかけられた。
 1871年、岩倉具視一行のヨーロッパ使節団に向けられた諸外国の人道上の問責と道理の説得に反省し、1873年やっと日本にキリスト教禁止の高札がおろされたのである。
 外海はキリシタンの母郷といわれ、迫害に耐えたキリシタンの子孫たちが、宣教師の到来を待ちうけて、自由に明るい信仰の灯火を灯し続けて今日に至っている。
 ここに展示するキリシタン資料は、外海キリシタンたちの永い苦難の時代の貴重な遺品である。

 

外海から長崎に向かう途中で入った回転すしやさんで食べた美味しかった貝・・・なんだったかなぁ・・・

 


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