細沼園のお茶飲み話

お茶の時間のひとときに、思いつくまま書きました。

慈恩の滝から日田へ向かいます

2015-07-30 15:03:04 | 散歩・旅  九州

慈恩の滝から日田へ向かう途中にあった『女子畑発電所』。

じょしはたけ?調べてみたら『おなごはた』と読むそうです。

日田市

中条河岸
この河岸には日田郡内の年貢米輸送のため二十六艘の川舟が用意され、竹田河岸からの通船とともに関村(夜明け)の蔵所まで舟運(当時の日田川通船)をしていました。
文政八年(1825)当時の西国筋郡代塩谷公の許可をうけた広瀬九兵衛や草野宗内らが中心となり、荷物積込みのため河岸が建設され、川幅は広く御米蔵所や御計屋(年貢米計測所)などが建ちならび、港として栄えていました。現在の港町の町名は、これに由来するものです (案内板より)

 

『霖雨』 著者 葉室燐 を読んで・・・この目で見たいなぁと思って来てしまいました、咸宜園。

暑い暑い咸宜園の向こうに見えるのは雨雲

国史跡 咸宜園
 江戸時代後期には日本全国で教育熱が高まり、各地で藩校や郷校といった学校のほか、個人による私塾が多く開設された。豊後日田の儒学者・広瀬淡窓(1782-1856)は豆田町の豪商広瀬家の長男として生まれたが、生来病弱のため家督を弟・久兵衛に譲り、自らは学問教授の道に進んだ。文化2年(1805)長福寺学寮を借りて開塾、その後「成章舎」、「桂林園」を経て、文化14年(1817)淡窓36歳の時に、自ら幼い頃に教育され、俳人として著名であった伯父月化の居宅・秋風庵の隣に塾を構え、「咸宜園」と呼んだ。咸宜園の「咸宜」とは『詩経』からとった言葉で、「ことごとくよろしい」という意味である。
 入門時に身分・年齢・学問を問わない「三奪法」、学力に基づき等級別に評価した「月旦評」、門下生に塾の運営に関わる役割を与えて社会性を身につけさせる「職任制」などの独自の教育手法が評判となり、全国から多くの門下生が集まった。現在も4,600名を越える「入門簿」が残されており、著名な人物に、大村益次郎、長三州、上野彦馬、清浦奎吾、横田国臣らがいる。このほかに淡窓の日記などに名前が記された門下生を加えると、咸宜園で学んだものは5,000名を超える。門下生の多くは咸宜園で学んだ後に、藩校の教授となったほか、自ら私塾を開いた。あるいは、明治学制発布後に学校の教師となり、近代教育の発展に貢献した。咸宜園は淡窓没後も弟や義子、門下生に引き継がれ、明治30年(1897)に閉熟するが、江戸時代の私塾としては最大の規模を有していた。
 咸宜園の建物は、門下生が増え、塾の規模が拡大するに従って増加した。発掘調査の成果や残された絵図等から、門下生の学びと生活の場や、塾主の居宅・書斎を含めた多くの建物が確認された。道を挟んで東側に講堂・東塾・秋風庵・遠思楼など、西側には考槃楼・西塾・南塾などがあったが、明治以降、次第に失われていった。その後、咸宜園蔵書を保管するための書蔵庫や淡窓図書館が敷地内に建設され、現在は東側に秋風庵・遠思楼・書蔵庫(移築後修理)・井戸屋形・外便所が残り、西側に井戸が現存している。       (説明文より)

豆田町を散策

暑いよ~お昼は蕎麦です。

 薫長酒造資料館

 岩尾薬局

 広瀬資料館 お休みでした

やはり・・・・雨が降ってきました。雨男です。

 


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