日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていると、ギリシア語を話すユダヤ 人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出たため、12人が他の弟子たちすべてを 呼び集めてことの解決に臨みました。つまり、その頃はまだ、12人の弟子たちがこうした分 配に関すること、つまり食事の世話もしておりました。そのため、このような苦情も彼らが処理することになっていました。そうして、本来の神様の言葉を語るという仕事がおろそかになっていたのです。
そこで、12人は、「兄弟たち、あなたがたの中から、霊と知恵に満ちた評判のよい人を7人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。私たちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします」と言って、一同がこの提案に賛成したのを受け、ステファノ以下7人を選んだのでした。そして、「使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた」、とあります。手を置く、このときの按手の祈りは、職務の委託、権威の賦与、祝福といった意味があったかと思われます。
その結果、「こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った」とあります。祭司というのは、ユ ダヤ教の祭司のことです。このときの7人が、いわゆる執事だったとの理解もできるでしょう。教会の運営が成り立っていくために、実質的ないろいろなお世話をするのです。それら の人々は、「霊と知恵に満ちた評判のよい人」ということを基準に致しました。一言でいうなら誠実な教会生活をおくっているということでしょうか。
しかし、ステファノに見られるように、彼らもまた、イエス・キリストの福音を語り、不思議な業としるしも行っていたのです。使徒たちと同じような働きもしておりました。万人祭司といった概念は、このようなところからも来ているのかもしれません。教会を造り上げるのは、教会員ひとり一人ですが、執事は、その中の祈りをもって選ばれた人々です。 . . . 本文を読む