平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2010年3月14日 もっとも大いなるものは愛

2010-07-18 23:17:52 | 2010年
第一コリントの信徒への手紙12章31節~13章13節
    もっとも大いなるものは愛

 12章の31節で、パウロは、いろいろな賜物を神様は教会を構成している一人ひとりに与えられていることを述べたあと、「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるように熱心に努めなさい」と助言しています。続いて、「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」と語り、実は、そのもっとも大きな賜物が愛であり、最高の道が愛することであることを伝えています。
 もう一度、パウロの教会の状況を考えてみましょう。パウロは、12章の4節で「賜物はいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。努めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です」と言いました。このようなことを言う背景には、賜物の優劣をめぐって、いろいろと議論があり、仲間割れがあったことを示唆しています。特に、異言の賜物などは、特別なものであるように言う人々がいたとみえて、パウロは、あえてそれを最後の方にもってきています。
 13章の最初にも「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル」と言っています。異言というのは、聖霊に満たされているしるしのように言われ、言葉にならぬ音声の羅列とでもいったらいいのでしょうか、一種の恍惚状態に入っているという見方もされるようです。その異言を語るに際し、そこに愛がないのであれば、騒音でしかない、ということです。
 また、預言をする賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、愛がなければ無に等しいといっています。賜物というのは、能力や才能でしょうが、それは神様から与えていただいた贈りもの、プレゼント、恵みです。ですから、何ら、自らを誇ることなどできるものではありません。
 預言をすることができたとしても、神秘について詳しいことを知っていたとしても、いろいろな知識をもっていたとしても、それを用いるに際して、愛がなければ、ないのも同じだときっぱりとパウロは述べています。また山を動かすほどの信仰を持っていたとしても、愛がなければないのも同然だと言います。
 この山を動かすほどの信仰というのは、イエス様が、マルコの11章23節からのところで言われた言葉「はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、立ち上がって、海に飛び込めと言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」と教えられましたから、そうしたイエス様の言葉を頭におきながら語っているのだと思いますが、このように言うイエス様には、弟子たちに対する愛がありました。
 彼らのは、パウロからみると、おそらく愛のない、自分を誇るためのものだったのでしょう。それから、全財産を貧しい人のために使い尽くそうとも、愛がなければ何の益もないと言います。財産を貧しい人のために使い尽くそうというのは、そこには貧しい人への愛があるように思えますが、そうではない場合もやはりあって、ここでも自分を誇ろうとしての行為だったのでしょうか、それなら何の益もないと言います。
 また、誇ろうして我が身を死に引き渡す、これは殉教のことを言おうとしているのでしょうか。それもまた誇ろうなどという気持ちからするのであれば、そこに愛がないのであれば、わたしに何の益もない、と言います。この最後の言葉などは、自爆テロなどをして、殉教をしようとしている人々には是非、読んでいただきたい箇所です。
 パウロは、コリントの教会の中に、異言を語る人々、預言をする人々、神秘や知識に通じていると高ぶっている人々がいて、彼らが自分たちの賜物を誇っている姿をみて、たとえそうでも、愛がなければ無に等しいというのでした。また、実際に、全財産を貧しい人々に施す人がいたり、殉教さえ辞さないと強気の人がいたのでしょう。あるいは、たとえ仮にそのような人がいたとしても、それが自分の名誉のためにしようとしているのであれば、それは一切意味がない、わたしには何の益もないことだとパウロは言うのでした。
 どうして、私は、私たちは、このことをしようとしているのか、それは、キリストの愛のためである、キリストの愛に押し出されて、と言うことができなければ、私たちがしようとしていることは、そのことはよいと、その正しさを強くは主張できないのではないでしょうか。
 それから、今度は、愛というものをいろいろな言葉に置き換えて説明をしています。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」。キリスト者は、できればこのようなでありたいと思います。
 つまり、忍耐強い、情け深い、ねたまない、自慢しない、高ぶらない、礼を失しない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みを抱かない、不義を喜ばない、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。キリスト者としての人格はこのように形成されたらよいと思います。パウロは、コリントの教会の人々の間に、忍耐のかけらもないと思えるような人がいたり、薄情だったり、ねたんだり、傲慢になったり、自分のことしか考えない者がいたり、すぐに腹を立てたり、不正を働いたり、お互いに信用できないという思いが蔓延していたりと、実に情けない状況があったのでしょう。
 これでは、キリストの体なる教会とはいい難いのです。パウロは、ですから、彼らのしていることの反対のことを書き連ねて、愛の本質を説いたのでしょう。そして、それらのことはパウロ自身が日頃からそのように努めていたのでしょうし、そして、それは何よりも、イエス様を模範としてのことだっただろうと思います。愛についてのすべてをこれらの言葉で表現することはできないでしょうが、これらの内容が愛だという説明は、私たちを納得させるものがあります。また、よく言われることに、この愛の部分にイエス様を入れるとピタリとおさまりがつくというのです。
 イエス様は、忍耐強い、情け深い・・、また、同時に、忍耐強くないというように、否定的、或いは逆の内容の文章にして、主語を自分にすると、それもまた、ピタリとおさまるのです。例えば、平良憲誠は、忍耐強くない、情け深くない、ねたみます、自慢します、傲慢になります、無礼です、などとなって、そういえば何となく、しっくりくるなあ、と思う方もいるかもしれません。しかし、私たちは、そうであってはいけません。私たちは、イエス様に倣わねばならないのです。イエス様が備えられていた人格を私たちも望みたいと思うのです。愛によって、私たちの人格もまた作り変えられることが求められているのではないでしょうか。
 パウロは、愛は滅びることはないが、預言は廃れ、異言はやみ、知識も廃れるといいます。それは、時代の預言、知識などは一部分でしかないから、と言います。完全なものがきたときには、つまり、終末のときにそれはくるのですが、そのときには、それまでの部分に過ぎなかった内容の預言、知識は廃れると述べています。
 だから、コリントの教会の一部の者たちで、預言できる、異言を語れる、知識を得たといって何かたいした賜物を自分たちはいただいているかのように、高ぶって、他の人々を見下げている者たちは、実は、ほとんどたいしたことはないのだ、ということを言おうとしているのでしょう。異言もまた、完全なものがきたときには、やんでしまうということです。
 預言、異言、知識、これらの賜物をコリントの教会の一部の者たちは、自分たちはそれを得ていると高ぶっていたでしょうから、そのようなものは、あなたたちが思っているほど、完全なものではありませんよ、とパウロは、忠告をしていているのです。終末のときに、完全なものは現れます。
 それまでは、幼子のように話し、幼子ように思い、幼子のように考えていました、また、今は、鏡におぼろに映っているものを見ているようなものだけれども、完全なものがきたときには、顔と顔を合わせてみるように、はっきりと見ることになります、すべてが明らかになります。とは、言いつつも、14章では、預言と異言について、パウロは、その違いを述べつつ、彼らが、その誇っている預言や異言について、正しい理解を得るように説明を加えております。
 もし、それらの賜物を得ていると思っている者がいるなら、パウロの説明している預言と異言のように、しっかりと考えるべきであって、これは、現代の教会においても、異言を語る人はおられますので、その方々はこういうところから正しい認識を得ていないとならないでしょう。
 パウロは、13章の13節で「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」と述べます。パウロは、他の手紙においても、これらの3つを組み合わせて信仰者の生活について論じているところがあります。テサロニケの手紙一の1章の3節「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです」。
 また、コロサイの信徒への手紙1章の4節5節「あなたがたがキリスト・イエスにおいてもっている信仰と、すべての聖なる者たちに対して抱いている愛について、聞いたからです。それは、あなたがたのために天に蓄えられている希望に基づくものであり、あなたがたは既にこの希望を、福音という真理の言葉を通して聞きました」。これらの手紙には、信仰と希望と愛が、固く結びついていることに気づかされます。
 イエス・キリストによる信仰をいただき、その信仰に基づいて働き、また、そのイエス・キリストをとおしていただいた愛、愛である神様のために伝道や信仰生活をとおして労苦し、そして、イエス・キリストに対する希望、いずれ完全にすべてが与えられるという終末における希望、これらのことは、キリスト者個人の生活スタイルでもありますが、教会の生活のありようを表していると考えられます。これらのものは、失われることはありません。その中でも、愛が最も大いなるものであると、パウロは、述べます。そして、コリントの教会には、これが欠けていたのです。
 ヨハネの手紙一の4章7節からのところにも、愛について書かれてあります。招詞で読んでいただいた箇所です。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。
 ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」それから、このようにも述べています。「神はわたしたちに、ご自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もまたわたしたちのうちにとどまってくださることがわかります」。
 神の霊を与えられている私たちは、つまり、神様からの賜物にしても、すべて同じ神様からいただいているのであって、そして、そのお方は私のうちに留まっていくださっています。どの賜物が優れているかなどを問題にすること自体が不適切であることがわかります。また、神は愛であるといい、愛はその神から出るのだと、言っています。ですから、もっとも大いなるものは、愛であるとは、そのとおりなのです。
 そして、その神様の愛はどのような形で私たちにもたらされたかというと、「神が私たちを愛して、わたしたちを償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」とあるとおりに、神様の愛は、キリストの十字架に極まっておりました。キリストが私たちの罪のために十字架で死んだ、そこに極まっております。そして、次に、私たちが互いに愛し合う根拠をこのように語るのです。「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」。
 コリントの教会の人々には、この互いに愛し合うという点が全くとまではいかないまでも、かなり抜け落ちておりました。パウロは、キリストの愛、神の愛を彼らに説く必要がありました。愛がないのであれば、その教会の群れに、神様、イエス様はいないことになるからです。一切が意味を失う、何もないのと同じだといったのは、大袈裟な話ではありませんでした。私たちの平尾教会もまた、愛があるのか、何をするにしてもキリストの愛からそれは出発しているのか、そのことを問うことが大事です。
 キリストの愛から出発しているのであれば、それは大いに取り組むべき事柄でしょう。逆に、とても立派に見えることがらでも、それが愛から出発していないのであれば、私たちはしないでおきましょう。14節の1節には、「愛を追い求めなさい」とあります。パウロの奨めにしたがって、私たちは、愛を熱心に追い求めようではありませんか。それは、神様を求めることであります。


平良師

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