平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2010年3月7日 キリストの体なる教会

2010-07-17 23:22:09 | 2010年
第一コリントの信徒への手紙12章12~26節
   キリストの体なる教会

 キリストの教会について説明する前に、神様からいただいているいろいろな賜物について述べています。「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です」と言っています。また、すべての賜物は、「同じ唯一の霊の働きであって、霊は、望むままに、それを一人ひとりに分け与えてくださるのです」とも述べています。つまり、賜物というのは、同じ神様からいただき、同じ聖霊の働きだと、言っているのであって、それに与る側にそれを誇る何の根拠もないことを伝えています。ですから、それらの賜物について、互いに優劣をつけること自体が、的外れなことでありました。パウロが、このように言うのは、その賜物を得ている者同士、優劣をめぐって仲間割れや差別的な発言、扱いをする者がいたのではないか、と想像させられます。
 そして、今日の箇所に入ります。教会には、いろいろな人々がおります。「一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるためにバプテスマを受け、皆一つの霊をのませてもらったのです」とあり、いろいろな立場の者が、洗礼を受けて一つになったことを述べています。キリストの体として組み入れられた、ということです。
 コリントの教会には、ユダヤ人からキリスト者になった者もおりましたし、ギリシア人のように異邦人でありながらキリスト者になった者、奴隷という身分でなった者、自由な身分でキリスト者になった者と、さまざまでした。賜物の例と同じように、教会に連なる同じ群れの仲間に対して人種や身分などにより、この点においても差別的な発言や扱いがなされていたのではないかと、思われます。当時の社会においては、そうしたことは何ら違和感のないことだったのでしょう。しかし、キリストの教会はそうであってはならない、というのがパウロの主張です。
 パウロは、このように、いろいろな人々がいるキリストの教会をどのように捉えたらよいのかをコリントの教会の人々に示しています。まず、教会は、キリストの体だと、いうことでした。体を構成する部分、手や足や、その他多くの部分からキリストの体は構成されております。このようにいろいろな団体を体に喩えることは、当時の社会ではよくあったようです。しかし、このような喩えは、その団体の下位に属する成員に、自分たちの置かれた社会秩序に留まり、上位の者に反逆し、自然の平衡を覆さないように促すために使われていました。しかし、パウロは、そのようなよく用いられる喩えで、まったく違うことを述べようとしました。キリストの体なる教会の姿でした。
 キリストの体となって組み入れられている人々は、皆一つの体となるためにバプテスマを受け、同じ霊をのませてもらった人々である、言っています。同じ霊を飲んだということで、与えられた恵み、資格のようなものも皆同じ、それでひとつになったと言っているように思えます。ところで、体というのは、同じ部分からだけ、例えば、足だけで構成されているものではありません。多くの部分から成っています。
 そのとき、「足が『わたしは手ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が『わたしは目ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか」と言っているのですが、それはどのようなことでしょうか。自分は、あなたがたとは一緒ではない、それは優越感を格別に感じていて、あなたがたと同じにされては困るというような場合もそうですが、逆に、教会にとって、自分は価値がないとか、重要ではない、などと言って、教会の群れの人々と距離をおいている場合もそうでしょう。
 パウロは、そこで、「もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし、全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、ご自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです」と述べています。それぞれの部分に、つまり、教会を構成している一人ひとりに役割や目的が神様から与えられている、ということです。意味のない部分は、一つもないのです。「すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです」。それぞれの機能を果す部分部分があって、初めて、人間の体全体が、命あるものになるのです。また、キリストの体から離れてしまえば、命を失ってしまうのです。
 それから、次のような喩えも語られています。それは、「目が手に向かって、『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって、『お前たちは要らない』とも言えません」。これもまた、そのように振舞っている者たちがいるということです。目とか、頭とかは、手とか足よりも上位にあるという考え方から、下位にある手や足に向かって要らないという喩えでもって、教会の中に、自分たちは知恵ある者、すべてを許されている者、もともとユダヤ人、自由な身分の者といったようなことを誇り、そうでない人々を見下している者たちがいたのでしょう。
 これが、一人の人間を構成している各部分であれば、手や足がいらないなどということはありえません。どこかの部分が、どこか他の部分に対して、いらないなどということは、人間の体ではありえないのです。体の各部分というのは、互いが互いを必要としているのです。人間の体にはいろいろな役割を果す部分が多様にあり、そして、それぞれが互いを必要とし、依存し合っているのです。キリストの体というのは、まさに人の体、そのようなものなのです。
 しかも、キリストの教会の特徴であろうと思われることが、次に述べられています。「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」、ほかよりも弱く見える部分というのは、普通の社会では、隅に追いやられることが多いのではないでしょうか。強く見える部分だけが、必要であり、それで動いていくというのが、一般の社会です。私たちは、経済活動に関しては、資本主義、競争原理の只中で生きておりますから、自然とそのようになっています。
 しかし、このような社会の中で、弱り果ててしまうこともあります。そのようなときに隅に追いやられたり、疎外感をおぼえたりということになります。それに対して、キリストの体なる教会は、「体の中で弱く見える部分が、かえって必要なのです」と、その必要性を説いております。そうした部分は、必ずなければならない、ということです。また、このようにも述べられています。
 「わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと格好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします」。ここでは、そうした部分への配慮について語られております。ここも人ということで言うならば、当時であれば奴隷の身分や経済的に貧しい人、病の人々や弱いという条件や境遇をいろいろと抱えている人々などのことが考えられますが、それぞれに対して、配慮することを教えています。恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとする、つまり、そうした部分を手厚く配慮することが述べられています。
 そして、その次の言葉が大切です。「神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました」。キリストの体なる教会が立っていく条件というのは、この見劣りする部分を神様がさらにさらに引き立たせて、つまり、要にすえて組み立てられたところにあります。「それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています」。体のどこかが弱い方、持病のようなものを持っている方は、そこを労わるために、用心をされます。そのことが、ひいては、体全体を労わることにつながって、大病もせず、健康を維持できているということはあるでしょう。
 コリントの教会は、分裂しておりました。その理由は、コリントの教会の場合は、一つ二つではありませんでした。ここでは、その分裂の理由は、賜物の違いの優劣を云々することから始まり、ユダヤ人、ギリシア人、奴隷、自由な身分の者といった、民族、人種、身分などの違いから発生していました。それで、パウロは、キリストの教会は、キリストの体なる教会なのだということを、具体的な文字通り体の例を用いて説明をしたのでした。
 なかでも、特に、キリストの教会の特徴を、「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分がかえって必要なのです。・・神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています」と説明したのでした。
 そして、最後にこのように述べています。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」。これは、キリストの教会の理想ではなく、キリストの教会の普通の姿といってよいでしょう。一人の兄弟、あるいは一人の姉妹の苦しみや痛みが、教会の群れ全体の苦しみや痛みとなるのです。指先にちょっとしたとげが刺さっても、痛みは全身を走り、気分も憂鬱となり、内臓の働きは悪くなり、いろいろな身体の動きに支障をきたすほどになります。ちょっとだからで、済ますことはできません。一刻も早くその棘をとってしまいたいと思うでしょう。そして、とってあげなければ可愛そうです。
 しかし、私たちは、それがたとえ小さな痛みや苦しみでも、それが自分である場合は、他者に少しでも理解してほしいと思わないではおれませんが、他者の大きな苦しみや痛みということになると、いったい、どれほどに感じることができるでしょうか。私たちは、他者の苦しみを思い、共感したり、理解しようとしますが、どれほどの深さでそれができるかということになると、なかなか難しく、なかば不可能ではないかと思うほどです。他者が苦しんでいるさまは見守るしかない、近くにいることしかできない、それが実情です。刺さったとげをすみやかにとって差し上げるなどということも、簡単にはできそうにありません。
 そして、今の日本社会はもっと悲惨です。最近の事件などを見ますと、ご高齢の方々への、また幼子たちへの、つまり、力弱い者たちを笑ったり、虐待を加えたりという事件が増えているように思うのです。それを平気でネットで流すなどということもやります。人の心は、どうなってしまったのかと思います。「一つの部分が苦しめば、すべての部分がそれを笑い、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がそれを引き摺り下ろそうとする」のです。むしろ時代は、キリストの教会へ大きな挑戦状をつきつけているのです。世にある教会は、キリストの体なる教会であることを世に知らしめす役割があるのです。
 私たちは、このような日本社会にあって、キリストの教会に加わる人々を一人でも多く与えてください、それも早く与えてください、手遅れにならないうちに、と祈る必要に迫られています。同時に、このような本来あるべきキリストの体なる教会から、一人も離れることがないようにと、この荒波の日本社会へ放り出されることがないようにと、祈らなければなりません。
 キリストの教会は、キリストが十字架の上で流された血が一人ひとりに行き渡っています。この熱い血のぬくもりを強く感じるとき、私たちは、教会の兄弟姉妹をはじめ他者の苦しみや痛みを自分のものとすることができるのかもしれません。キリストの体なる教会、その教会を構成している一人ひとり、その一人ひとりに流れているキリストの血、そして、どこを切っても同じ血が流れるのです。どこが傷つけられても、体全体でその部分の痛みを感じるのです。
 多くの部分から構成されていても、一つのキリストの体です。私たちはキリストに結び付けられて一つです。キリストから離れては何もなしえません。これからも、いかなることがあろうとも、いかなるときが来ようとも、この体から離れることがないように、致しましょう。私たちがつながっているのは、キリストの体なのです。しかも、私たちが、その体の一部を構成しているのです。聖なる主(神)イエス・キリストの体の一部、それがここに集われているお一人お一人です。私たちは、そのイエス・キリストを証しする者たちです。


平良師

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