平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2003年9月28日 献げる者の恵み

2006-05-29 16:23:49 | 2003年
IIコリント9:1~15
     献げる者の恵み

 今日で、コリントの信徒への手紙は、終ります。私は、4月より、ほとんど日本バプテスト連盟の発行している「聖書教育」の聖書箇所に則って、その日の主日礼拝説教を行っています。コリントの信徒への手紙の1,2は、7月より始まりまして、9月、今日で終了です。その最後の箇所が、9章であることを思うとき、これは、日本バプテスト連盟は、最後に、その運動の要としての、協力伝道で締めくくろうとしているのだなと、思いました。
 そして、それはそれで良いとも思っていますし、9章からは、そのことを考えるによい機会を与えてもらえるでしょう。そして、この箇所は、同時に、献金の姿勢も私たちに示してくれるだろうと考えるのです。
 ここでの手紙の趣旨は、まず、コリントの教会の人々にお金を用意しておいて欲しいということです。それは、エルサレムの教会の人々へする献金です。献金というのは、神様への恵みの応答として私たちはしています。すべてのものは、神様からいただいているお恵みです。その一部を私たちは献金として献げている、お返ししているのです。そして、神様に献げられたお金は、福音の種を蒔くなどの神様のみ国を建設のために用いられていくのです。
 エルサレムの教会には、使徒と呼ばれる人々がいて、彼らは、専らユダヤ人たちへの伝道を行っていました。経済的には、かなり厳しくて、宣教活動が活発にできないという状態があったのでしょうか。パウロは、エルサレムで行われた使徒たちの会議で、パウロたちは、異邦人伝道へ、エルサレム教会の人々は、ユダヤ人伝道へ、それぞれ使命をもって取り組んでいきましょうという約束を交わしています。ガラテヤの信徒への手紙の2章9,10節にあります。
 そのときに、パウロは、異邦人の教会から、エルサレムの教会へ献金をして、援助することを約束したのでした。これはエルサレム教会からの申し出もあったのでしょうが、パウロの方にも、そうしたいという考えがあったようです。それは、エルサレム教会の人々が、異邦人の教会に対する偏見や無理解を持っていたからです。
 最初、エルサレムの教会の人々の中には、キリスト者は、いったんユダヤ人になってからだという理解のしかたをしていた者たちもいました。異邦人たちの文化や習慣に嫌悪感をおぼえていた人々もいたことでしょう。ですから、この異邦人の教会からの献金を通して、異邦人教会に対する理解が深まり、異邦人教会の人々の信仰を認めてもらい、両者の関係が良好になればと、願っていたのでした。
 6節からのところには、その際、献金をする者の姿勢が述べられています。これは、献金する者の一般的な考え方といってもいいでしょう。「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです」。これは、たくさん献げる者は、たくさんの祝福を得るということでしょうが、これは額の高い低いのことを言っているのではないことは確かです。
 イエス様が、レプトン2枚しか献げられなかったやもめを見て、彼女が一番献げたと賞賛された出来事が福音書に載っています。それは、他の者は有り余る中から献げているが、彼女は、生活費全部を献げたからだという理由でした。つまり、持てる生活費を失って、明日からどうして生きていくかという問題があるのですが、それでも神様への感謝の思いや賛美したい思いは抑えられない、感謝の思いは、明日のことを考えるということ以上の思いである、そして、そこには、同時にこれからのすべてを神様に委ねて生きていこうという女性の姿が表われていたのでした。
 それから、7節です。「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくれるからです」。献金というのは、嫌々ながらしたり、誰かに強制されたからとういうので行ったり、するようなものではありません。神様との関係において、祈って、自分はこれこれしたいというように、自主的に考えて、しかも、喜んでするべきものだということです。
 「神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ち溢れるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります」。
 考えてみると、神様は、私たちをこれまでも豊かに恵んでくださいました。そして、これからもすべてのことを満たしてくださる、そういうことのおできになるお方です。神様の恵みを思うとき、今あるだけのものに満足する心を私たちは、ますます強く与えていただけるのかもしれません。恵みがさらに恵みを呼ぶのです。エルサレムの教会の人々に献金するという、よい業を行った結果、さらに善い業に満ち溢れるようにしてくださる、と言います。神様はさらに恵みを増し加えてくださるのです。
 神様が、種蒔く人に種を与え、パンという糧を与えてくださいます。そして、さらにその種を増やしてくださるとは、献金に励むコリント教会の人々に、神様はそれができるように、さらに神様が多くのものを与えてくださるようになるということです。そして、それによってまた、惜しみなく献げることができるようになって、その姿をみたエルサレム教会の人々が、さらにまた神様に感謝するようになると言います。
 ここには、献げる者がやせ細っていく話は書かれておりません。献げる者が、さらに祝福に与り、恵みを与えられて、それがまたさらに献げる行為につながるという、うれしい循環を描いているのです。そして、献げる者もそれを受ける者も、双方が、神様の恵みに感謝し、神様を褒め称えるということになるのだ、と言うのです。
 13節「この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます」。ここにパウロのコリントの教会の人々がエルサレムの教会の人々へ献金するというねらいが書かれていると言ってもいいでしょう。
 つまり、コリントの教会の人々をエルサレムの教会の人々が認めるということです。彼らの信仰を認めるということです。コリントの教会の人々が一生懸命に献げるようすをみて、キリストの福音を従順に素直に、彼らコリント教会の人々は、宣べ伝えていることがわかるようになる、それによって、彼らと一つであるという思いをエルサレム教会の人々が持つということができるようになるということです。
 そして、同時に、惜しまずに献げるようすから、神様をここでも賛美するようになると言います。それだけではありません。「更に、彼らは、あなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです」。エルサレム教会の人々は、コリント教会の人々がほんとうに主に祝されているさまをみて、コリントの教会の人々を愛し、慕うようにさえなる、そして、彼らはあなたがたのことを祈りにおぼえるようになる、言うのです。
 決して、ここには、片側だけの恵みについてだけ、書かれているようなことはありません。双方の恵みが述べられています。献げる側もそれを受ける側も、双方が、恵まれる話が書かれてあります。そして、双方が、神様に感謝する話が書かれてあるのです。
 ところで、コリントの教会は、余裕があったから献金をすることになったのでしょうか。そうではありません。「主の晩餐」を巡っての不和が述べられている箇所で、貧しい人々が恥をかかされているようすが、書かれてありました。貧しい人々もいたのであり、富む人ばかりではありませんでした。
 ですから、一方においては、自分たちの教会のそうした人々に目をもっと向けるということも考えられたはずです。しかし、よその教会の貧しい人々へ目を向けることを彼らは示されたのでした。それは自分たちのことだけを考えていては、大きな祝福に与ることはできない、外へ向かって献げる気持ちが同時並行で必要なことを私たちに教えているように思えるのです。
 私たちの教会も最初はアメリカ南部バプテスト連盟の宣教師によって、基礎を創っていただいた教会です。戦後しばらくは、南部バプテストの諸教会の尊い献金によって、宣教師が送られ、土地や建物を取得できたのでした。そして、今の平尾バプテスト教会もあるのです。戦後の間もない頃、アメリカは、確かに日本よりは随分と富んでいた国でした。しかし、南部バプテストの貧しい兄弟姉妹たちの献げた献金もその中には含まれていたと聞いています。私たち日本の救いを願い、宣教をしてくださったのです。そして、日本バプテスト連盟の多くの諸教会が、彼らを通して与えられた神様の恵みに感謝しているのです。
 それは、日本バプテスト連盟が、アジアのタイやシンガポールに宣教師を送っているのも同じです。日本国内のキリスト者の数は1パーセント未満ですから、自国のことにもっと力を入れるべきだとする考えもあるでしょう。タイやシンガポールの方がよほどキリスト者の数は多いでしょう。そんなことを考えますと、他の国の宣教どころではないのです。
 しかも、統計的に推し量ってみますと、バプテストの約3分の2は、経済的には、十分ではない状態にあります。それでも、隣国の救いのために力を注いでいます。そして、その宣教師たちのタイやシンガポールからの報告を通して、私たちは励まされ、恵みをまたいただいているのです。
 日本バプテスト連盟というのは、協力伝道体です。いっしょに協力して日本の宣教のために働きましょうという趣旨で集まった団体です。それぞれ自立した教会が協力伝道のために、連帯をしています。私たちの教会も毎年、協力伝道献金をしています。
 私が、前いた富士吉田教会は、全国拠点開拓伝道所ということで、全国の諸教会の支援をいただいた教会でした。私は、そういった意味で、ほんとうに多くの恵みをいただいたのです。励ましのお便り、草刈、掃除の奉仕、伝道体の派遣、数々でした。そして、私たちもまた、神様に感謝し、諸教会の働きをおぼえて、ほんとうに祈ることができたのです。
 そうした支えの中、8年して、伝道所も何とか、教会組織を成すことができたのでした。私の中に残っている財産があります。受けることの恵み、それも祈られていたということの恵みを想い起こすことでができます。この記憶が私の財産ですし、富士吉田教会の財産ともなっているはずです。そして、思い出しては、神様に感謝するのです。また、奉仕に来られた方々も、いつも恵まれたといって、帰っていかれました。
 惜しみなく与えるときに、それは主の祝福によって恵みのことがらに変えられていくのです。与えた者は、さらに恵みを増し加えられていきます。それで、また献げるというよき循環がなされるのです。そして、最後に残るのは、神様への感謝と賛美です。
 イエス様の5000人の給食の話を想い起こします。差し出された5つのパンと2匹の魚をイエス様が祝福されて、分け与えたときに、そこにいた人々が食べて満腹し、パン屑を集めると12の籠にいっぱいになったという物語です。パンは増えていたのです。何百倍、何千倍という途方もない量に増えていたのです。主が祝福されたものは、分け与えることで、さらにいっぱいの恵みに変わっていきます。私たちは主に祝福してくださいと、持てるものを差し出します。それを主は祝福され、もっともっと多くの恵みにあずからせてくださいます。
 マラキ書3:10に「十分の一の献げ物をすべて倉に運び、わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと、万軍の主は言われる。必ず、わたしはあなたたちのために、天の窓を開き、祝福を限りなく注ぐであろう」。
 私たちは、すべてのものを神様からいただいています。それは恵みです。そして、その恵みの中心は、イエス・キリスト、このお方です。「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」とあるとおりのお方でした。
 恵みの応答として献金は献げられるべきものです。そして、喜んで献げるその献金が、祝福され、福音の種まきとして、み国の建設のために用いられていきます。そして、その献金によって、支えられ、祈られた教会や人々は、さらにそのことを通し、神様を賛美し、宣教の働きに力を強めていくことになります。

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