創世記32章23~33節
祝福してくださるまでは離しません
ヤコブは、伯父ラバンのところを去って、いよいよ故郷へ帰ることになりました。父イサクの家を離れて、20年の歳月が流れておりました。ヤコブは、ラバンのもとで、かなりの財産を築いておりました。それは、ラバンから、いろいろと不利な条件をいいつけられても、それを彼の知恵と工夫によって、悪く言えば抜け目なく、有利にことを運ぶことができたからでした。
ラバンも次女をお嫁にしてよいといいながら、長女を先に妻にさせるなど、ヤコブをだましたのですが、ヤコブの知恵はそれを上回りました。そして、次第次第に、一族の数も、家畜もどんどん増えていったのでした。ラバンの息子たちは、「ヤコブは我々の父のものを全部奪ってしまった。父のものをごまかして、あの富を築き上げたのだ」と誹謗中傷するほどになりました。
そして、その頃から、ラバンの態度も変り、ヤコブに冷たくなっていきました。ついに、ヤコブは、逃げ出さなければならないような恰好になって、ラバンのもとを脱出したのでした。実は、このとき、神様が、ヤコブに、「あなたは、あなたの故郷である先祖の土地に帰りなさい。わたしはあなたと共にいる」と言われたのです。彼は、一族を引き連れ、家畜を伴って、故郷へ向かって出発しました。
しかし、結局のところラバンたちに追いつかれます。そして、いろいろとこれまでのいきさつなどを忌憚なく互いに述べあい、確かめ、交渉をした結果、和解の約束を交わして、伯父のラバンはヤコブの妻になっている娘たちに別れを告げて戻っていきました。これもまた、神様が、ラバンに、ヤコブを責めないようにと、あらかじめ告げられていたからでした。
ヤコブの人生は、いわゆる波乱万丈です。彼のずる賢さのようなものが、災いして、敵意を抱かれることも多かったと思われますが、神様への信仰、神様によりたのみ、神様に従い、神様に甘え、祝福を願い求める姿勢には、私たちも多くを学ばされるのです。そして、そのようなヤコブを、神様は、愛されました。
ところで、このときヤコブにとって、故郷へ帰ることは、兄エサウに再会しなければならないことを意味していました。伯父ラバンとの関係に、一応の解決をみて、ひと安心したでしょうが、それも束の間で、すぐにエサウとの再会のことを考えなければなりませんでした。
ヤコブは、兄との再会をとても心配しています。彼は、神様に祈ったときに、こう言っています。「どうか、兄エサウの手から救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです。兄は、攻めてきて、わたしをはじめ母も子どもも殺すかもしれません」。エサウの、殺意に至るほどの憎しみをかうのは、当然といわれてもしかたのないようなことを彼はしていました。一杯のスープで、空腹の兄の弱みに付け込み、長子の権利を譲ってもらいました。また、目の見えなくなっていた父イサクをだまして、エサウが受けるはずだった祝福を自分がエサウになりすまし、代わりに受けたのです。
これらのことは、エサウには、赦しがたいことだったでしょう。そのようなことをしたヤコブでしたが、それでも、何とかうまく帰郷したいものだと、いろいろな策を弄するのでした。はじめに彼がしたことは、使いの者を送って、エサウに、挨拶をさせて、機嫌をうかがうことでした。ところが、使いの者は、帰ってきて、ヤコブに「兄上様の方でも、あなたを迎えるため、400人のお供を連れてこちらへおいでになる途中でございます」と報告しました。
ヤコブは、非常に恐れ、思い悩んだ、とあります。400人もの人間が、自分を迎えるためにこちらに向かっている、それは、ひょっとしたら、自分たちを襲撃しようとして向かっているのではないか、そう思ったに違いありません。
ヤコブは、非常に恐れました。そこで、彼は、連れている人々と家畜を二組に分けて、どちらかが攻撃されても、どちらかは助かるようにしました。そして、祈りました。その祈りの内容は、神様あなたが生まれ故郷に帰りなさい、そして、わたしはあなたに幸いを与える、と言ってくださいました、ですから、私は、故郷へ帰る決意をしました。それから、先ほどの祈りです。
自分は、エサウがとても怖い、彼の手から救って欲しい、と祈りました。そして、もう一度、神様がかつてヤコブに言われたことを、あのとき、神様はああおっしゃってくださいましたよね、と念を押すようなことを言うのでした。「わたしは必ずあなたに幸いを与え、あなたの子孫を海辺の砂のように数えきれないほど多くする」そうおっしゃってくださいましたね。
それから、ヤコブは、エサウへ贈り物をしようと考えました。それは、第一弾、第二弾、第三弾まで用意されました。それは、山羊、羊、ろば、らくだ、牛、などのたくさんの家畜でした。ヤコブは、贈り物を先に行かせて、兄をなだめ、その後で顔を合わせれば、恐らく快く迎えてくれるだろうと考えました。このように、ヤコブは、幾重にも、エサウと再会するにあたり、どのようにしたら、安全に再会できるか、兄に快く、迎えてもらえるかということを考えて、準備しておりました。
そして、その夜、彼は、野営地に止まりましたが、夜に起きて、二人の妻と二人の側女、それに11人の子供を連れて、ヤボクの渡しを渡りました。夜に行動したのは、大切な身内のより安全のためでした。そして、自分は、身内を送り出したあと、一人残りました。祈るためであったのか、どうか、それはわかりませんが、彼の中では、一人にならなければなりませんでした。これからいよいよエサウと会うというとき、彼は、不安の中にあったことは確かでした。彼はこのとき、その不安な思いと真正面に向き合わねばならなかったのでしょう。
一人残った彼は、このあと、何者かと格闘することになりました。それは、夜明けまで続くという、厳しい戦いでした。ところが、その何者かは、ヤコブに勝てないとみて、彼の腿の関節を打ったので、格闘している間に、ヤコブの腿の関節ははずれてしまいました。ある意味では、これでこの勝負は、ヤコブの負けとなったのではないでしょうか。非常な痛みがあったはずです。
それでありながら、この何者かの方から、「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」と言ってきました。この何者かは、夜が明けるとまずい何ごとかがあるようです。そこで、ヤコブは、言いました。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません」。
ヤコブは、関節がはずれて、それはひどい痛みがあったはずですが、戦いを止めようとはしませんでした。ヤコブの格闘のねらいは、祝福をいただくことでした。ヤコブには、この闘っている相手が、いったい誰なのか、何となく、わかっていたのかもしれません。彼は、ヤコブに名を聞きました。ヤコブは自分の名を名乗りました。ヤコブとは、兄エサウのかかと(アケブかかと)をつかんでいたので、そのような名が付けられたのですが、それは、人を押しのけようとする彼の人柄のようなものを表していたともとれるのです。
その人は、「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ」と言いました。ヤコブは、神様と格闘していたのだという確信を得ることができました。イスラエルという言葉の意味は、「神が戦う」、「神は、護りたもう」、「神は、支配したもう」、などです。
ヤコブは、この何者かに、名前を聞きましたが、彼は、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言っただけで、答えることなく、その場でヤコブを祝福したのでした。ヤコブは、イスラエルという名をいただき、おまけに、祝福までもらったのです。
ヤコブは、言いました。「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」。当時は、神様を見た者は死ぬと言われていたからです。ヤコブは、このとき明け方まで闘った何者かは、神様だと理解しました。この何者かが、ヤコブに、お前は神と人と闘って勝った、と言ったこともさることながら、それ以前に、彼は、すでにその確信を得ていたはずです。それゆえ、執拗に戦いを続け、痛手を負いつつも、この相手から祝福を得ることを求めたのでした。
ヤコブは、このとき、伯父ラバンとの一件を解決させて、やれやれと思ったのですが、これからは、それ以上に困難なことが待ち構えておりました。それこそ、兄エサウから危害を加えられても致し方のないような事態が予想されるのです。彼は、すべての者を送り出したあと、たった一人で、自分の抱えているこの不安と闘わねばなりませんでした。それは、神様との格闘でもありました。もう神様に守ってもらわねば、自分はおしまいだ、神様、これから危険の中を歩む私をお守りください、ああ、わたしだけでなく、妻も子どもたちも、殺されてしまうかもしれません。神様、私を祝福してください、そう彼は、願い、祈っておりました。
兄エサウに会うに際して、彼の胸のうちは、そうした不安と神様によりすがるという切なる思いでいっぱいだったことでしょう。ある意味では、その心の状態は、神様と格闘するようなことだったのではないでしょうか。なんとかして欲しい、それは、関節がはずれ、ひどい痛みの中にありながら、執拗に、「祝福してくださるまでは離しません」そういう必死な思いでした。
しかし、そのような彼に、ヤコブではなく、イスラエルという名を授けます。人を押しのけてでもして、多くのものを手に入れようとしてきたヤコブ、これからは、そういう生き方ではない、これからは、神様がお前に代わって戦う、神様が、お前を守る、だから、神様にすべてを委ねて歩むようにとのことだったのでしょう。そして、その後に、ヤコブは、祝福に与ることになりました。
しかしながら、そののち、ヤコブが、策を弄することをやめて、ひたすらに神様に信頼して、人生を歩んでいったかというと、そうではありませんでした。この直後、ヤコブは、エサウと会うことになりました。しかし、そのときもまた、彼は、まず側女とその子供、それから、レアとその子供、最後に、ラケルとヨセフという順番で進ませました。明らかに、自分の大切な者は最後に行かせるということをします。
そうした上で、ヤコブは、先頭にたってエサウのところに進み出て行きます。それも、エサウのところへ行き着くまでに、7度も地にひれ伏すということをします。そうしましたら、兄エサウが、走ってきてヤコブを迎え、抱きしめ、首を抱えて口づけし、共に泣いたのでした。よほど、エサウの方が、率直、正直で、人のよさが表れています。
しかし、神様からはエサウよりもヤコブが、愛されました。人柄がヤコブの方がよかったからというわけではありません。人柄でいうと、エサウは粗野なところはありますが、ヤコブよりも実直な感じのする人物です。ヤコブは、他人を押しのけようとするところやずる賢いと思われるようなところがありました。なぜ、神様は、エサウよりもヤコブを選ばれたかというと、それは、彼の人柄でも何でもなく、神様の選びがヤコブの方にあったからという以外ではありません。前回にも申し上げましたように、パウロも述べているとおり、神様の自由な選びがあるのです。
神様は、ご自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ、それは人の意志や努力ではなく、神様のただ憐れみによるものです。なぜ、エサウより、ヤコブだったのか、その理由は示されていません。ただ、そうやって選びに与ったヤコブは、エサウよりは神様に従う者ではありました。エサウよりは神様により頼む者ではありました。
ある意味では、神様への甘え上手な者ではありました。ここでも、しつこく、神様に祝福を求めております。神様しかもういない、そうした姿勢が表れております。そして、その姿勢においてのみ、私たちは神様に勝つことが許されているのです。そこまで、すがるのなら、求めるのであるなら、致し方ないか、祝福してあげよう、そういわれるのです。
「祝福してくださるまでは離しません」、こうした神様との闘いを私たちもこれからの人生の中で幾度も経験しようではありませんか。予想される困難や災いはすぐそこまで迫っている、そのときこそ、こうした姿勢を持ちたいと思います。そのときには、私たちには、神様へ勝利することさえ、お赦しくださるのです。
神様は、もう、負けた、そこまで、あなたが望むならば、そこまで、祝福して欲しいなら、そうしてあげよう、そう言われるのです。神様との格闘において、傷つくようななことがあったとしても、なお、執拗に求めることが大切です。そうすれば、私があなたの戦いを戦おう、と言ってくださり、祝福にあずかることになるのです。
平良師
祝福してくださるまでは離しません
ヤコブは、伯父ラバンのところを去って、いよいよ故郷へ帰ることになりました。父イサクの家を離れて、20年の歳月が流れておりました。ヤコブは、ラバンのもとで、かなりの財産を築いておりました。それは、ラバンから、いろいろと不利な条件をいいつけられても、それを彼の知恵と工夫によって、悪く言えば抜け目なく、有利にことを運ぶことができたからでした。
ラバンも次女をお嫁にしてよいといいながら、長女を先に妻にさせるなど、ヤコブをだましたのですが、ヤコブの知恵はそれを上回りました。そして、次第次第に、一族の数も、家畜もどんどん増えていったのでした。ラバンの息子たちは、「ヤコブは我々の父のものを全部奪ってしまった。父のものをごまかして、あの富を築き上げたのだ」と誹謗中傷するほどになりました。
そして、その頃から、ラバンの態度も変り、ヤコブに冷たくなっていきました。ついに、ヤコブは、逃げ出さなければならないような恰好になって、ラバンのもとを脱出したのでした。実は、このとき、神様が、ヤコブに、「あなたは、あなたの故郷である先祖の土地に帰りなさい。わたしはあなたと共にいる」と言われたのです。彼は、一族を引き連れ、家畜を伴って、故郷へ向かって出発しました。
しかし、結局のところラバンたちに追いつかれます。そして、いろいろとこれまでのいきさつなどを忌憚なく互いに述べあい、確かめ、交渉をした結果、和解の約束を交わして、伯父のラバンはヤコブの妻になっている娘たちに別れを告げて戻っていきました。これもまた、神様が、ラバンに、ヤコブを責めないようにと、あらかじめ告げられていたからでした。
ヤコブの人生は、いわゆる波乱万丈です。彼のずる賢さのようなものが、災いして、敵意を抱かれることも多かったと思われますが、神様への信仰、神様によりたのみ、神様に従い、神様に甘え、祝福を願い求める姿勢には、私たちも多くを学ばされるのです。そして、そのようなヤコブを、神様は、愛されました。
ところで、このときヤコブにとって、故郷へ帰ることは、兄エサウに再会しなければならないことを意味していました。伯父ラバンとの関係に、一応の解決をみて、ひと安心したでしょうが、それも束の間で、すぐにエサウとの再会のことを考えなければなりませんでした。
ヤコブは、兄との再会をとても心配しています。彼は、神様に祈ったときに、こう言っています。「どうか、兄エサウの手から救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです。兄は、攻めてきて、わたしをはじめ母も子どもも殺すかもしれません」。エサウの、殺意に至るほどの憎しみをかうのは、当然といわれてもしかたのないようなことを彼はしていました。一杯のスープで、空腹の兄の弱みに付け込み、長子の権利を譲ってもらいました。また、目の見えなくなっていた父イサクをだまして、エサウが受けるはずだった祝福を自分がエサウになりすまし、代わりに受けたのです。
これらのことは、エサウには、赦しがたいことだったでしょう。そのようなことをしたヤコブでしたが、それでも、何とかうまく帰郷したいものだと、いろいろな策を弄するのでした。はじめに彼がしたことは、使いの者を送って、エサウに、挨拶をさせて、機嫌をうかがうことでした。ところが、使いの者は、帰ってきて、ヤコブに「兄上様の方でも、あなたを迎えるため、400人のお供を連れてこちらへおいでになる途中でございます」と報告しました。
ヤコブは、非常に恐れ、思い悩んだ、とあります。400人もの人間が、自分を迎えるためにこちらに向かっている、それは、ひょっとしたら、自分たちを襲撃しようとして向かっているのではないか、そう思ったに違いありません。
ヤコブは、非常に恐れました。そこで、彼は、連れている人々と家畜を二組に分けて、どちらかが攻撃されても、どちらかは助かるようにしました。そして、祈りました。その祈りの内容は、神様あなたが生まれ故郷に帰りなさい、そして、わたしはあなたに幸いを与える、と言ってくださいました、ですから、私は、故郷へ帰る決意をしました。それから、先ほどの祈りです。
自分は、エサウがとても怖い、彼の手から救って欲しい、と祈りました。そして、もう一度、神様がかつてヤコブに言われたことを、あのとき、神様はああおっしゃってくださいましたよね、と念を押すようなことを言うのでした。「わたしは必ずあなたに幸いを与え、あなたの子孫を海辺の砂のように数えきれないほど多くする」そうおっしゃってくださいましたね。
それから、ヤコブは、エサウへ贈り物をしようと考えました。それは、第一弾、第二弾、第三弾まで用意されました。それは、山羊、羊、ろば、らくだ、牛、などのたくさんの家畜でした。ヤコブは、贈り物を先に行かせて、兄をなだめ、その後で顔を合わせれば、恐らく快く迎えてくれるだろうと考えました。このように、ヤコブは、幾重にも、エサウと再会するにあたり、どのようにしたら、安全に再会できるか、兄に快く、迎えてもらえるかということを考えて、準備しておりました。
そして、その夜、彼は、野営地に止まりましたが、夜に起きて、二人の妻と二人の側女、それに11人の子供を連れて、ヤボクの渡しを渡りました。夜に行動したのは、大切な身内のより安全のためでした。そして、自分は、身内を送り出したあと、一人残りました。祈るためであったのか、どうか、それはわかりませんが、彼の中では、一人にならなければなりませんでした。これからいよいよエサウと会うというとき、彼は、不安の中にあったことは確かでした。彼はこのとき、その不安な思いと真正面に向き合わねばならなかったのでしょう。
一人残った彼は、このあと、何者かと格闘することになりました。それは、夜明けまで続くという、厳しい戦いでした。ところが、その何者かは、ヤコブに勝てないとみて、彼の腿の関節を打ったので、格闘している間に、ヤコブの腿の関節ははずれてしまいました。ある意味では、これでこの勝負は、ヤコブの負けとなったのではないでしょうか。非常な痛みがあったはずです。
それでありながら、この何者かの方から、「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」と言ってきました。この何者かは、夜が明けるとまずい何ごとかがあるようです。そこで、ヤコブは、言いました。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません」。
ヤコブは、関節がはずれて、それはひどい痛みがあったはずですが、戦いを止めようとはしませんでした。ヤコブの格闘のねらいは、祝福をいただくことでした。ヤコブには、この闘っている相手が、いったい誰なのか、何となく、わかっていたのかもしれません。彼は、ヤコブに名を聞きました。ヤコブは自分の名を名乗りました。ヤコブとは、兄エサウのかかと(アケブかかと)をつかんでいたので、そのような名が付けられたのですが、それは、人を押しのけようとする彼の人柄のようなものを表していたともとれるのです。
その人は、「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ」と言いました。ヤコブは、神様と格闘していたのだという確信を得ることができました。イスラエルという言葉の意味は、「神が戦う」、「神は、護りたもう」、「神は、支配したもう」、などです。
ヤコブは、この何者かに、名前を聞きましたが、彼は、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言っただけで、答えることなく、その場でヤコブを祝福したのでした。ヤコブは、イスラエルという名をいただき、おまけに、祝福までもらったのです。
ヤコブは、言いました。「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」。当時は、神様を見た者は死ぬと言われていたからです。ヤコブは、このとき明け方まで闘った何者かは、神様だと理解しました。この何者かが、ヤコブに、お前は神と人と闘って勝った、と言ったこともさることながら、それ以前に、彼は、すでにその確信を得ていたはずです。それゆえ、執拗に戦いを続け、痛手を負いつつも、この相手から祝福を得ることを求めたのでした。
ヤコブは、このとき、伯父ラバンとの一件を解決させて、やれやれと思ったのですが、これからは、それ以上に困難なことが待ち構えておりました。それこそ、兄エサウから危害を加えられても致し方のないような事態が予想されるのです。彼は、すべての者を送り出したあと、たった一人で、自分の抱えているこの不安と闘わねばなりませんでした。それは、神様との格闘でもありました。もう神様に守ってもらわねば、自分はおしまいだ、神様、これから危険の中を歩む私をお守りください、ああ、わたしだけでなく、妻も子どもたちも、殺されてしまうかもしれません。神様、私を祝福してください、そう彼は、願い、祈っておりました。
兄エサウに会うに際して、彼の胸のうちは、そうした不安と神様によりすがるという切なる思いでいっぱいだったことでしょう。ある意味では、その心の状態は、神様と格闘するようなことだったのではないでしょうか。なんとかして欲しい、それは、関節がはずれ、ひどい痛みの中にありながら、執拗に、「祝福してくださるまでは離しません」そういう必死な思いでした。
しかし、そのような彼に、ヤコブではなく、イスラエルという名を授けます。人を押しのけてでもして、多くのものを手に入れようとしてきたヤコブ、これからは、そういう生き方ではない、これからは、神様がお前に代わって戦う、神様が、お前を守る、だから、神様にすべてを委ねて歩むようにとのことだったのでしょう。そして、その後に、ヤコブは、祝福に与ることになりました。
しかしながら、そののち、ヤコブが、策を弄することをやめて、ひたすらに神様に信頼して、人生を歩んでいったかというと、そうではありませんでした。この直後、ヤコブは、エサウと会うことになりました。しかし、そのときもまた、彼は、まず側女とその子供、それから、レアとその子供、最後に、ラケルとヨセフという順番で進ませました。明らかに、自分の大切な者は最後に行かせるということをします。
そうした上で、ヤコブは、先頭にたってエサウのところに進み出て行きます。それも、エサウのところへ行き着くまでに、7度も地にひれ伏すということをします。そうしましたら、兄エサウが、走ってきてヤコブを迎え、抱きしめ、首を抱えて口づけし、共に泣いたのでした。よほど、エサウの方が、率直、正直で、人のよさが表れています。
しかし、神様からはエサウよりもヤコブが、愛されました。人柄がヤコブの方がよかったからというわけではありません。人柄でいうと、エサウは粗野なところはありますが、ヤコブよりも実直な感じのする人物です。ヤコブは、他人を押しのけようとするところやずる賢いと思われるようなところがありました。なぜ、神様は、エサウよりもヤコブを選ばれたかというと、それは、彼の人柄でも何でもなく、神様の選びがヤコブの方にあったからという以外ではありません。前回にも申し上げましたように、パウロも述べているとおり、神様の自由な選びがあるのです。
神様は、ご自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ、それは人の意志や努力ではなく、神様のただ憐れみによるものです。なぜ、エサウより、ヤコブだったのか、その理由は示されていません。ただ、そうやって選びに与ったヤコブは、エサウよりは神様に従う者ではありました。エサウよりは神様により頼む者ではありました。
ある意味では、神様への甘え上手な者ではありました。ここでも、しつこく、神様に祝福を求めております。神様しかもういない、そうした姿勢が表れております。そして、その姿勢においてのみ、私たちは神様に勝つことが許されているのです。そこまで、すがるのなら、求めるのであるなら、致し方ないか、祝福してあげよう、そういわれるのです。
「祝福してくださるまでは離しません」、こうした神様との闘いを私たちもこれからの人生の中で幾度も経験しようではありませんか。予想される困難や災いはすぐそこまで迫っている、そのときこそ、こうした姿勢を持ちたいと思います。そのときには、私たちには、神様へ勝利することさえ、お赦しくださるのです。
神様は、もう、負けた、そこまで、あなたが望むならば、そこまで、祝福して欲しいなら、そうしてあげよう、そう言われるのです。神様との格闘において、傷つくようななことがあったとしても、なお、執拗に求めることが大切です。そうすれば、私があなたの戦いを戦おう、と言ってくださり、祝福にあずかることになるのです。
平良師