平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2004年11月21日 神がまずわたしたちを愛してくださった

2006-06-11 00:32:59 | 2004年
I ヨハネ4:13~21
 神がまずわたしたちを愛してくださった

 私は人を愛することがなかなかできない、という方がおられます。自然と人を愛することができる方もおられます。たくさん愛されて育った方は、人を愛することも自然によくできると言われます。しかし、そのような方でも、他者から裏切られたり、騙されたり、傷つけられたりすると、人は、人を愛せなくなってしまいます。
 人はそれほど強い者ではありません。むしろ弱い者です。ですから、人は、年を経れば経るほどに、愛されたり、愛されなかったりという経験が増えますから、知恵をもって、愛されるためにはどうすればいいのか、傷つけられないようにするためにはどうするか、その人なりの対処の仕方を考えるようになります。
 また、人を愛することはいかに大きな努力を要することなのかを知るのです。しかし、元来、愛するということは、ゆったりとした大きな河が心の底を流れているような、そういうものではないでしょうか。先ほど読んでいただいた18節にも「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します」とあるように、実に、安定した大きなものであることがうかがわれます。
 コリントの信徒への手紙13章には、「愛は忍耐強い。愛は、情け深い。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ」というような表現がされていまして、心のよき物すべてを指すようなイメージすらあります。
 愛とは、そのような完全に近い、大きなものですが、私たちは、どのような人をも愛する強い力を自分のうちにもっているかと聞かれるならば、どうでしょうか。もし、持っていると情熱をもって答えることができるなら、その方は、神様が共におられるのです。「神は愛です。愛にとどまっている人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます」(16節)と書かれています。
 私たちは、人としての扱いを受けると人になり、狼としての扱いを受けると狼になります。これは心理学的な見地から言われていることです。人は、最初から人としてあるのではなく、人になっていくのです。そういった意味では、愛もまた、与えられてはじめて与えることができるようになっていくのです。その愛の源は何でしょうか。
 一般的には親の愛情ということになるでしょう。それなら、親の愛情に恵まれなかった者は、愛のない者になってしまって、それでおしまいになってしまうのでしょうか。その方が、心の傷を癒されたり、強い愛を持つに至ることは不可能なのでしょうか。そうではありません。私たちは、生きていく上では、いろいろな出会いが用意されていますから、それまでは愛に恵まれなかったけれども、別なところで愛情に恵まれることはあるものです。
 しかし、もし、いつもあなたは愛されているということをあなたが知っているならば、私たちの人生はいかに平安であり、豊かで恵みに満ちたものになるでしょうか。聖書は、私たちに、私たちが予想もしなかった別な観点から愛というものについて教えているのです。これは変わらない普遍的な愛というものです。それは、神の愛です。
 神様はあなたを愛しておられるのですというメッセージが聖書には一貫して書かれてあります。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(10節)。つまり、聖書は、神様の愛が先にあったということを私たちに伝えようとしています。私たちが、神様を愛しよう、信仰しようとする以前にすでに神様が私たち一人一人に目をとめられ、愛してくださっていたことを伝えようとしているのです。
 私たちは、神様から愛されて人をも愛することができるようになります。そして、そのことを次のような譬えで表現することができるでしょう。太陽の光があたって月は光を放ち、その月明かりは、満月の夜などは、青白い光をさらに地球にまで届けてくれます。おそらく、地球もまた、月から見ると光を放って見えるのでしょう。しかし、どちらも自ら光を発しているのではありません。
 太陽の光を受けて、光って見えているのです。同じように、私たち人間もまた、神様の光を身に受けなければ、愛という光を放つことはできないのです。その光とは何でしょうか。それは、愛なる神様です。この方を心のうちにお迎えすることなのです。「イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人のうちにとどまってくださり、その人も神の内にとどまります」(15節)。
 神である光、神の愛が、その人のうちに入ってきて、とどまってくださるのです。そのとき、私たちもまた、光の子として、他者にその光を現すことが可能となるのです。
 それでは、神様はその光をどのようにして、私たちに示してくださったでしょうか。「わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました」、このような仕方でわたしたちに愛を示されました。約2000年前のことであります。
 神様の御子であったイエス・キリストを私たちの罪のために十字架におつけになって、そうして私たちを赦し、救いに至らせることにされたのでした。この愛は、神様の一方的なものでした。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して」なさったことでした。私たちに何か優れた良きものがあるので、そのようにされたのではありません。私たちが神様に背いて罪のなかに生きていたにもかかわらず、与えられたものなのです。神様は、神様に背く人間を滅びに定めることを思い止まってくださり、しかし、人間の行為によってはとても救いに至ることはできません。
 そこで、独り子であられたイエス様を私たちの身代わりとして、十字架におつけになり、彼の命によって、私たちの罪を贖うことにされたのでした。それは、独り子イエス・キリストより、私たち神様に敵対して生きていた人間を愛する行為だったのです。ここに神様の愛が、はっきりと示されているのです。
 さて、「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内でまっとうされているのです」とありまして、互いに愛し合うことの勧めがなされています。私たちは、こういう聖書の箇所に出会いますと、互いに愛し合うその対象をはっきりとさせたいと思うのです。
 20節でも、「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟を愛すべきです」とあって、互いに愛し合う対象は、それなら兄弟なのかと考えてしまいます。
 しかし、この兄弟という意味は、肉親の兄弟という意味ではなく、私たちが現在同じキリスト者同士を兄弟姉妹というように、キリスト者仲間を当時から指していたものと考えられます。つまり、神の家族としての兄弟姉妹たちです。ところが、果たしてそうかと、考えてみますと、イエス様は何と言われているでしょうか。
 ルカによる福音書の6章27節からの有名な敵を愛しなさいという教えには、「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」とあって、愛しなさいという相手が、何もいわゆる兄弟姉妹に限定されないことがわかります。それどころか、イエス様は、敵をも愛すようにと言われているのです。
 また、イエス様は、このことを同じルカの福音書の10章25節からのところで、善いサマリア人のたとえ話をされて、敵であったユダヤ人を、このときこのユダヤ人は強盗にあって、瀕死の状態で倒れていたのですが、その彼を犬猿の仲にあったサマリア人が助けたという話をされて、隣人は、最初から対象化された形でどこそこにいるのではなくて、隣人になる行為をすることによって隣人が生まれるのだと教えられたのでした。そういうことから考えますと、この場合の兄弟という言葉も他者一般に対して使われていると解釈できるだろうと思うのです。
 敵をも含むところの兄弟という意味あいすらあるだろうと捉えられるのです。「神を愛している」のなら、敵すらも愛しなさい、そういうことではないでしょうか。
 アメリカでは、前の大統領が、熱心なキリスト者というので、福音主義的キリスト者たちの多くから支持を得て再選を果たしたと言われているのですが、こうしたイエス・キリストの敵を愛しなさいという教えは、大統領と彼を支持した人々のなかではどうなっているのだろうと、私たちは不思議でならないのです。10分の1でもいいから、この教えにこだわりをもっているのだろうか、神様を真実に愛しているのだろうかと不思議でならないのです。
 私は、復活されたイエス様が、ペトロに何度も自分を愛しているかと尋ねられた話を思い出します。それは、復活なさって弟子たちの前に現われ、一緒に食事をなさった後、ペトロに聞かれたのでした。ペトロは、生前、イエス様からとても愛された男でした。それであったにもかかわらず、イエス様が捕えられて連行されていった先の屋敷で、そこにいた人々から、お前もあのイエスという男の仲間だと言われて、自分はイエスという男など知らないと裏切ってしまった弱い男でした。
 それも三度も知らないということになってしまったのでした。そういうこともあったからでしょうか、イエス様は、このときペトロにだけ、「わたしを愛しているか」と尋ねられたのでした。それも三度続けて、尋ねられたのでした。
 ヨハネによる福音書21章17節、「三度目にイエスは言われた。ヨハネの子シモン(ペトロ)、わたしを愛しているか。ペトロは、イエスが三度目も、わたしを愛しているかと言われたので、悲しくなった。そして言った。主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」私たちは、ここらのイエス様とペトロのやりとりのなかに、イエス様のペトロに対する愛情を感じとります。決して、いやみや、いじわるなんかではないのです。イエス様のペトロに対する憐れみ、優しさ、そういうものがにじみでております。
 しかし、イエス様は、ペトロに限らずすべての人々にこのように何度もおっしゃりたいのではないでしょうか。お前は、「わたしを愛しているか」。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と一度私たちがペトロのように答えたとしても、ほんとにお前は、「わたしを愛しているか」、そうお尋ねになられるのではないでしょうか。
 イエス様を愛しているといいながら、彼を裏切っている人々はほんとうに多いと思います。戦争で、罪もない大勢の人々を殺してもそれを正当化しようとする権力に対しては、彼らがたとえ熱心なキリスト者と言われようとも、イエス様を愛しているとは、とても思えないのです。イエス様は、イエス様を愛していると言い張る彼らに対して、やはり「わたしを愛しているか」と何度でもお尋ねになっているのではないでしょうか。
 しかし、権力者だけではありません。イエス様を愛していると言いながら、裏切っている人々の、或いは、裏切っていることの何と多いことでしょう。
 私たちの毎日の生活からして、そのことを思わされるのです。家庭での振る舞い、職場での振る舞い、学校での振る舞い、教会での振る舞い、趣味や遊びの世界での振る舞い、「わたしを愛しているか」とのイエス様のお声が響いてまいります。ペトロは、三度イエス様を知らないと答えました。三度というのは、もう何度もという意味合いを含んでいます。そして、そのペトロにイエス様も三度、「わたしを愛しているか」と尋ねられました。もう何度も問われたのです。それは、幾度もイエス様を裏切ってしまう私たちに、イエス様が、何度も「わたしをあなたは愛していますか」と問うていることと重なります。
 私たちが、主を愛すのは、それは同時に、敵をも含む他者を愛すということなのですが、それには、まず、主が私たちを愛してくださったのだと、いう原点にいつも立ち返ることが必要とされます。この原点に何度も何度も立ち返ることなしには、私たちは、他者に愛を示すことはできません。
 それは、あの十字架のイエス・キリストを何度も何度も見つめることなのです。わたしのために肉を裂かれ、血を流されているイエス・キリストをまのあたりにすることです。「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」。神様の愛をいただき、そして、今もなおいただき続け、そうしてようやく、他者をも愛することが、愛し続けることができるのです。
 「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」(11節)。この週もまた、主の十字架を想い起こしながら、私たちはこの世の生活のいたるところで、この御言葉に生きる者となりましょう。

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