平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2003年12月21日 キリストを喜ぶ者に

2006-05-29 19:26:52 | 2003年
マタイ2:1~12
    キリストを喜ぶ者に

 この3人の占星術の学者たちが、満天の星空のもとを、大きな星に導かれてらくだか何かに乗って、砂漠を旅していくようすは、絵になるものです。実際、絵画としても取り上げられたりしています。讃美歌などにも、材料として用いられています。しかし、お話自体は、ユダヤの王であったヘロデとのやり取りなどもあり、ちょっと人間くさいものがあります。でも、やはりクリスマスには、欠かすことのできない、美しい風景です。
 イエス様が、ご降誕された当時、ユダヤ地方の王として、ローマ帝国の委任を受けていたのが、ヘロデでした。ヘロデは、ユダヤ人ではなかったようです。エルサレム神殿の改修工事を長年にわたり、手がけたということはあったようですが、それでも、ユダヤ人たちからは、どうも愛されてはいなかったようです。
 ある日のこと、そのヘロデの住む宮殿へ、東の方に住む占星術の学者たちがやってまいりました。東の方の、とありますから、彼らもまたユダヤ人ではありません。ユダヤ人にとっては異邦人ということになります。
 また、ユダヤ人たちは、占星術などもちろんしません。彼らは宝物を三つ献げたとあるものですから、3人と、いつのまにかなっておりますが、何人であったのかはわかりません。複数であったことは、定かでしょう。5,6人であったかもしれませんし。彼らは、占星術、簡単に言えば、星占いをする学者たちでした。いろいろな学問があったでしょうが、占星術は、当時においては、れっきとした学問でした。彼らは、「ユダヤ人の王」になる方が生まれるという情報をその星の発生から読み取りました。そして、その星をたどりながら、ヘロデの宮殿までやってきたのでした。
 「ユダヤ人の王」になる方ですから、それは宮殿だと考えたのでしょうか、或いは、王様のところへは、大切な情報が集まるはずだから、そこへ行けば何かわかると考えたのでしょうか。いずれにしても、そう考えるのは、適当なことだったでしょう。しかし、実際は、そのいずれもはずれておりました。救い主は、宮殿では生まれてはおりませんでした。
 イエス様は、とある宿屋のしかも家畜小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされていたのです。そして、そのメシア誕生の知らせは、ヘロデには、どこからも入っておりませんでした。学者たちが、ヘロデの宮殿を後にすると、その星が、先立って進み、イエス様がいる場所まで導いていきました。
 一方、ヘロデですが、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので拝みに来たのです」という学者たちの挨拶は、驚きであったでしょう。後継者のことなど考えたこともなかったでしょうし、晴天の霹靂というものでした。それに、もし権力の座を明渡すとしても、それは、自分の息子たちでした。
 ですから、他にユダヤ人の王が生まれたということは不安なことであったのは間違いありません。「ヘロデ王は、不安を抱いた」とあるとおりでした。また、ヘロデが、ユダヤ人たちが、願うメシアの到来を待ち焦がれていた一人であったとも、とても思えません。
 彼はユダヤ人ではなかったのですから。彼は、ユダヤの王という権力の座が奪われることに対する恐れを確かに感じたはずです。彼は、学者たちから、いつその星が発生したのか、また、祭司長や律法学者たちを呼び寄せて、そのメシア・キリスト(救い主)が、どこに生まれることになっているのかを調べさせたのでした。
 それは、そのメシアの居所をつきとめて、不安材料を取り除こうというねらいだったのです。そして、学者たちに、もしその居場所がわかったら、自分にも教えてくれ、自分も拝みに行くから、という理由をつけて、彼らを送りだしたのでした。ところが、学者たちは、もどっては来ませんでした。
 学者たちは、御使いから、ヘロデのところへはもどらないように告げられたのでした。腹を立てたヘロデは、イエス様が生まれたとおぼしきベツレヘム一帯の2歳以下の男の子を殺させたとあって、そこには、彼の権力に対する執着や新しい王の出現の報に対する嫉妬の念、が(それを喜んでいる学者たちのような人々がいたのですから)あったのでした。
 学者たちは、宿屋につき、母マリアに抱かれている幼子を見ました。ルカによる福音書に書かれてあるように、その場所が、家畜小屋だったとすれば、学者たちにとって、その姿はとても意外であったと思うのです。ユダヤ人の王となるはずの人ですから、このような家畜小屋で生まれているなんて、と。ですから、彼らが、この方がユダヤ人の王となるような方ではない、という思いも生まれて当然だったかもしれません。
 しかし、学者たちは、「ひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」のでした。黄金は、王にふさわしいものと見なされていました。乳香は、神殿の聖所において用いられるべきであって、それ以外では用いてはならない、ということになっていました。
 イエス・キリストが父なる神様と共に礼拝される時を先取りしていると考えられているのかもしれません。また、没薬は、大祭司の聖別の油としても用いられたようです。油注がれた者(キリスト)として知られることになるお方が、その誕生のときに、没薬の贈り物を受けることはそれにふさわしい、と考えられたのでしょう。また、没薬は、死者に塗るために用いられたようでもあります。ですから、没薬は、メシア、キリストの誕生とその死を結びつけていると言われます。これら、三つの贈り物はとても高価なものでありました。
 一説では、これらの贈り物は、学者たちの商売道具であって、それを献げたというところから、彼らがそれまでの自分たちの星占いをしていたという行為から解き放たれて、キリストに従っていく決意をしたのだという、理解もあるようです。つまり、文字通り彼らは、ヘロデのいる道にもどらずに、新しい道を歩むことになったというのです。
 さて、ここには、不安を抱いたという人々が、ヘロデ王の他にもおりました。それは、「ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も同様であった」とありますように、エルサレムに住む人々でした。その中には、ヘロデ王にどこでメシアが生まれるかということについて、報告した祭司長や律法学者が含まれていたことでしょう。本来でしたら、もっと驚いてもいいし、むしろ、喜んでもいいはずの人々です。
 ところが、彼らがそのことに対して、どのような反応を示したかについては、何も記されておりません。彼らはユダヤ社会の中にあっては、今の秩序を脅かして欲しくない立場の者たちでしたから、内心、メシア誕生の知らせは、動揺に値するものであったでしょう。しかし、異邦人の学者たちにどうして、ユダヤ人の王、メシア誕生の知らせが届くはずがない、と考えて無視したとも考えられます。
 私たちは、今年、イラクが大量殺戮兵器を隠しもっているということで、米英が攻撃をする、しないというような出来事から、この一年が始まりました。日本がどのような立場をとるのか、いろいろな動きがありました。そして、先日のフセイン元大統領が拘束されたことにより、事態は、新たな段階に入ったようにみえます。しかし、テロによる社会不安は、治まりません。日本が、世論の反対を押し切って、人道支援ということで、来年早々に、イラクへ赴くことも決まっています。
 現代のこの世相と今日の聖書のイエス・キリストご降誕に際し、東方の占星術の学者たちがヘロデ王のところを訪問した出来事、それによって、引き起こされた数々の事件との間には、とても似たものを感じさせられるのです。
 まず、世の王というものについてです。先日捕えられたフセイン元大統領が、あのように小さな穴を掘って、そこに札束と共にいたというのは、かつて、日本で、オウム真理教の教祖が、建物の一角に、人が一人入れるほどの箱を作り、そこに、やはり札束と共にいたという様とまったく一緒でした。権力を思うままにして、殺人さえも冷酷に行った者たちです。
 結局は、お金しか頼りにできなかったのかと、思えてとてもあさましく思えてなりません。ヘロデも、権力の座にあって、私腹を肥やすこともかなり、やっていたことでしょう。その座は、明渡したくないと思っていたことでしょう。世の王が、何を目的として、その座に君臨しているのか、すべての者がそうとは思いませんが、考えさせられるところです。また、ヘロデは、学者たちが、結局は、ヘロデのところにもどってこずに帰ってしまったことを知りました。彼は、腹を立てました。
 そして、メシアとなるべき方がどこにいるか、わからないものですから、ベツレヘムとその周辺にいた2歳以下の男の子どもを、一人残らず殺害させたのでした。これもまた、めちゃくちゃなことをしたものです。そして、フセイン元大統領が、クルド人を虐殺したこととか、自分の政治的敵対者たちを拷問、殺害したことなどを思い起こすのです。しかし、同時に、大量破壊兵器、殺戮化学兵器をどこかに隠しているに違いないとして、それを恐れ、不安を抱いて、爆弾を落とし、数千人の人々を殺害したブッシュ大統領、米英の行ったことは、どこか似ていると思えてなりません。世の王たちのする所業です。
 しかし、先ほども言いましたように、このとき、不安を抱いた者は、ヘロデだけなく、エルサレムに住む人々もそうだったのです。つまり、メシアがこの世に来られたという話は、暗闇に光がやってくる、光に照らされるということです。そうなると、王だけでなく、一般の人々の心の闇の部分も、この光によって照らされるということなのです。
 キリストの光によって、私たちの心が照らし出されるのです。それは、とても怖いことです。この部分だけは、決して知られたくない、そういうものをもっている私たちにとって、このキリストの光は、恐怖です。不安です。特に、王のように、権力の座にあって、私腹を肥やし、ぬくぬくとその秩序の中でやっていたものにとって、それは不安なことだったでしょう。
 そして、同じく、当時のユダヤ社会の秩序の中で、闇の力に負けて生活をしていた者たち、そうした生活で安定を得ていた者たちもまた、それが壊されるかもしれないという不安が心によぎったことでしょう。
 イエス・キリストはこのとき無力な幼子でした。ヘロデの手を逃れてエジプトまで、逃げなければなりませんでした。逃れることを御使いは、指示いたしました。しかしすべては、神様の守りの中にありました。それ以外どうすることもできない平和の君でいらっしゃいました。
 キリストご降誕の知らせを聞いて、私たちもまた、どうするかということが実は問われているのではないでしょうか。あの占星術の学者たちのように、メシアご降誕の知らせを受けて、喜んでその場に馳せ参じ、それから、家畜小屋にいた幼子を見て、内心こんな方が、メシアなのか、と思ったかもれしれませんが、それでもやはり、メシアと信じて、伏し拝み、それから、宝物を献げる。それは、自分を捨てて、この力なき幼子、無力に見えるイエス様に従っていくという決心をする、ということですが、そのことを問われているように思えるのです。
 しかし、それは、神様の大きな守りの中に自分の身をおくということなのです。また、この方を受け入れることは、この方の光に照らし出されるということです。私たちの闇の部分は、そのことに不安をおぼえるかもしれません。世の王が、不安におののいたように。しかし、私たちは、その闇の部分をイエス様にさらけ出す勇気をもちましょう。それは、悔い改めるということでもあります。そうして、この平和の主に従ってまいりましょう。この平和の君は、私たちのために、この世に来られたお方なのですから。

最新の画像もっと見る