平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2003年12月24日 さあ、ベツレヘムへ行こう

2006-05-29 19:31:51 | 2003年
ルカ福音書2章8~20節
   さあ、ベツレヘムへ行こう

(キャンドルサービス)
 クリスマスおめでとうございます。クリスマスは、イエス・キリストのご降誕をお祝いする祭です。皆様と共に今晩、キャンドルサービス(ローソクに火を灯しての礼拝)を守ることができましたことを感謝します。特に、教会に今晩初めて来たという方がおられるでしょうか。とてもうれしく思いますし、皆様のお越しを心から歓迎致します。
 約2000年前に、ご降誕されたイエス・キリストとは、どのようなお方だったのでしょうか。ルカによる福音書の中に、イエス様が十字架にかかり死んだとき、都のエルサレムを離れ、二人のイエス様の弟子たちが、エマオという村へ向かって歩いていました。彼らは、イエス様が、死んで希望を失ったのです。そして、もう、エルサレムにいたくないと思いました。
 また、イエス様の仲間ということで、自分の身の危険も感じていたのでしょう。そのとき、復活されたイエス様が、その道中を共に歩まれます。弟子たちには、最初、目がふさがれて、それが誰だかわからなかったとあります。イエス様が聞かれるのです。「歩きながら、やりとりしているその話は何のことですか」。彼らは、そのときに、「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも、力のある預言者でした」。彼らは、イエス様のことを預言者だったと理解していたのです。それから、「わたしたちは、あの方こそ、イエスラエルを解放してくださると望みをかけていました」とも告白したのでした。
 つまり、当時の、ユダヤ社会は、ローマの支配の中にありました。それは、彼らには、屈辱的なものでありましたし、過度に税金をとられ、生活自体も苦しいものでありました。ですから、解放を求めて、いくつかのグループが立ち上がったりもしていました。イエス様のことを、そうしたユダヤ社会をローマの支配から解放してくれる指導者だと、この二人の弟子たちも理解していたというのです。そして、きっと自分たちの王様になってくれる方だと。
 イエス様はしかしながら、反感を抱いたユダヤ社会の指導者たちの訴えにより、いとも簡単に捕えられ、十字架につけられて死んでしまいました。そして、十字架にかけられる前に、三度も、自分が十字架につき、三日目によみがえるのだという話をされていたのでした。しかし、このときには、弟子たちには、その話の内容が、どのような意味をもっているのか、わからなかったのです。
 つまり、救いというものが、どうして、成し遂げられるのかを理解できなかったのです。この二人の弟子たちは、あとで、これが復活されたイエス様だと気付き、エルサレムへもどっていくのです。ある意味では、危険の待っている、しかし、今や、復活のイエス様に出会った彼らにとって、そこは、希望の光が差し込んでいるところに変わっていたのでした。
 わたしたちは、現在、救いというものを次のように理解しています。私たち人間は、神様により、愛のうちに創造されました。しかし、創造された人間は、その神の愛から離れ、神に背いて生きるようになりました。それは、最初の人、アダムのときからそうでした。その神様に背いて生きることを罪と言います。その罪の結果、死をもって滅びに至ることになりました。これは、神様の裁きです。
 しかし、厳しい裁きの神は、同時に愛の神様でもあります。愛の神様は、人間が滅びに至ることをやはり惜しまれたのでした。しかし、だからといって、人間の行いによっては、神の前に正しいとされる者は誰もいません。行いによっては、神様の前に誰も正しいとはされないし、救われないのです。そこで、神様は、神の独り子であったイエス・キリストを私たちの罪の身代わりとして十字架におつけになり、それによって、罪を赦されることにしたのでした。
 しかし、そのイエス様は、三日目によみがえらされて、滅びであるところの死に勝利されたというのです。そして、たとえ、肉の体は滅びても、霊の体における永遠の命がこのイエス・キリストを信じる者には、与えられることを示されたのでした。このような形で、救いは成し遂げられたというのが、キリスト教の教えです。
 しかし、イエス様の時代までは、人は、行いによって、神様から正しいとされる、救われると信じられていました。その行いとは、当時あった律法という掟でした。これを守ることで、人は、神様から正しいというお墨付きをもらえると信じられていました。イエス様は、律法を守る事では、人は救われないと言われました。イエス様は、人間の罪というものをもっと本質的にとらえていたのです。たとえば、自分のことしか考えられない利己的な人間の罪とか、そういう本質的な人間の罪を問題にされていったのです。真の神様を畏れずに生きる生き方もそうです。
 ところで、今日の聖書の箇所ですが、その救いの知らせが一番に誰に届いたかというと、それは、野宿していた羊飼いたちだったというのです。野宿というと、今の時代も、そういう生活を余儀なくされている方々がいます。もちろん、羊飼いたちの場合は、仕事であり、現在、野宿している方々は、それは、そのように生活せざるをえない、という違いはあるでしょう。しかし、共通していることがいくつかあります。
 当時、羊飼いというのは、とても蔑まれた仕事でした。その理由は、羊飼いたちは、野原で羊たちの番をするため、家に帰れないということが多かったのです。それで、家族を守ることもしない恥知らずな者たちということが一つにはありました。それから、彼らは、牧草地を求めてあちらこちら移動するのですが、そのとき他人の土地にも入り込んだりしたので(当時のことですから地境もよくわからなかった、ということはあったでしょうが)、強盗と同じように見られたということから、彼らは、蔑まれ、律法を守らない(盗むな、むさぼるな)、罪人としてのレッテルがはられたのでした。
 彼らは、羊の所有者というよりは、雇われ羊飼いでしたから、貧しい者たちであったのは、いうまでもありませんが、どうもそれ以上にさきほども述べたように差別されていた人々だったようです。そこには、律法上の差別もあって、公的な諸権利もなかったのです。他にも、職業の種類によっては、社会のなかでは周辺に追いやられ、文字通り、神様からも人からも捨てられた者たちとして、見られていた人々がおりました。
 現在、野宿するホームレスの方々もまた、ホームレス、つまり、家庭、家族を失った者たち、ということですが、人々から見捨てられたというのでは、これら、羊飼いたちと似たところがありますし、また、人々からも見下げられております。
 ですから、羊飼いたちは、自分たちは、もう神様からも見捨てられたという思い、救いなどにはとても与ることのできないものである、という感情を持っておりました。そこへ、天使が現れたのです。そして、「あなたがたのために救い主がお生まれになった」と伝えたわけです。
 これは、ですから、彼らにとって、とても意外な知らせだったのです。彼らは、一瞬、周りが明るくなって、天使が現れたので、驚いたでしょうが、それよりも、自分たちのために救い主が生まれた、というようなことを聞くこと自体が、とても驚きだったのです。それから天使に天の軍勢が加わって「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と、讃美したというのです。
 まさに、このすばらしい光景に彼らはあずかりました。どうして、自分たちが、と思ったことでしょう。「地には平和、御心に適う人にあれ」、俺たちも、御心に適う、そう思ったことでしょう。後で、羊飼いたちから、この話を聞いた人々も、どうして、羊飼いたちに真っ先に、救い主誕生の知らせが行ったのか、不思議でならなかったでしょう。もし、最初に行くとすれば、それは、ユダヤ社会の支配層に属していた祭司たちや律法学者たちや、ファリサイ派たちの人々ではないか、そう思ったかもしれません。
 現に、東の国の占星術を研究していた学者たちは、救い主誕生を示す星が現れたので、それを追って、エルサレムへやってきて、ヘロデ王の宮殿にやってきたのでした。救い主がお生まれになるのが、家畜小屋なんかで、あろうなどと、誰が考えるでしょうか。しかし、イエス様は、神の独り子であり、富んでいたのに、私たちのために貧しくなれたわけです。
 イエス・キリストは、言われました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。
 羊飼いたちは、天使が去ったあと「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせて下さったその出来事を見ようではないか」と話し合い、つまり、そこにいた羊飼いたち皆でいくことにしたのでしょう。彼らは、生まれたその救い主が、飼い葉桶の中に寝かされているということを聞いたとき、救い主がどうして、そんなところにと、思ったかもしれませんが、その天使の知らせを信じたのです。
 否、まさに、それこそ「私たち(羊飼いたち)のために救い主がお生まれになった」、そのことを彼らは、自分たちにとても身近な出来事として、感じることができたでしょう。イエス・キリストは富んでいたのに、我々のために、貧しくなられた、のです。それから、彼らは、急いででかけて行ったのです。善は急げということわざがありますが、まさしく、そのように、良き知らせを受けて、急いで、その場に向かったのでした。
 私たちは、この良き知らせが、羊飼いに最初に届いたことを知りました。それは、彼らに何か優れたものがあったからではありません。むしろ、貧しく、虐げられ、救いなど、あるはずがないと、すべてのものに見捨てられたような存在でした。ですから、彼らに最初に、この知らせが届いたということはあるでしょう。しかし、それは、「民全体に与えられる大きな喜び」とも告げられているのです。あなたがたのためにというのは、羊飼いだけではありません。
 今日、このキャンドルサービスに来られている方々ももちろん含まれているのです。イエス様は、罪人を招くためにこの世に来られたと言います。それじゃ、私じゃないでしょう。私は、罪人ではありませんから。そうおっしゃりたい方々もおられるでしょう。しかし、ほんとうにそうでしょうか。
 また、私たちは、貧しくはないのでしょうか。多くのことに心を惑わし、日々、疲れをおぼえているということはないのでしょうか。重荷を負っている者は、私のところに来なさい。休ませてあげよう。ともイエス様は言われました。また、いろいろな形で、罪を犯してはいないのでしょうか。私は大丈夫ですと、神様の前に、胸を張れる人がいるのでしょうか。また、聖書には、正しい人は誰もいない、皆罪人なりと言っているのです。
 イエス様のところへ姦淫の現場を押さえられて、罪を犯した女が、連れてこられて、この女をどうしたらいいかと聞かれたときに、イエス様は、あなた方の中でまず自分に罪がないと思う者から石をこの女に投げよ、と言われたのです。当時は、こうした女性は、石打の刑でリンチしていいとなっていたのでした。そうしたら、年長者からはじまって、ひとり去り、また一人去り、しまいには、イエス様ひとりになったというのです。
 イエス様は彼女に私もあなたを罰しない、二度と、罪を犯さないようにと言われたということです。この罪を犯した女を連れてきた者たちのように、私たちは、罪を犯さないで、生きることのできる人は、だれもおりません。年を重ねれば重ねるほど、罪は重なり、その意識というものは、深まるばかりです。
 あなたがたのために、イエス様は、この世に来られたのです。その知らせをいち早く、羊飼いたちが聞くことになりました。そして、知らせを受けた彼らは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と言って、急いで、そのうれしい出来事が起こっている場所へ、イエス様がご降誕された場所にでかけていったのです。そして、確かに、天使の言ったとおりの出来事が起こっており、彼らは、自分たちのために、キリストが誕生されたことを理解したのでした。
 そして、今日、皆さんも、あなたがたのために、救い主がお生まれになったということをお聞きになりました。皆さんは、どうなさるでしょうか。この羊飼いたちのように、早速、ことを起こされて欲しいと思います。皆さんにも、そのうれしい出来事が起こっている場所へ行って欲しいと思います。それは、皆様が、心の中に、今宵、イエス・キリストを皆さんの救い主として、お迎えくださる以上のことではありません。

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