平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2003年12月7日 キリストの見つめられていたもの

2006-05-29 19:22:23 | 2003年
マタイ4:1~11
  キリストの見つめられていたもの

 アドヴェント(待降節)の2週目に入りました。私たちのためにこの世に来られたイエス・キリストは何を求めておられ、どのようなお方だったのでしょうか。悪魔の誘惑に遭われたという物語は、そのことを考える一つの材料を提供しています。まず、この物語の前にイエス様は、バプテスマのヨハネから、洗礼を受けます。
 そして、イエス様が水から上がってきますと、天から声があって、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言われたのでした。「わたしの愛する子」それは、「神の子」ということでしょうが、確かに、この悪魔の誘惑に遭われる話は、このお方は、神の子である、そういうことを語物っているものとも言えます。そして、その神様のみ心に適う者というとき、それはどのようなお方なのかを、この物語は、伝えてもいます。
 また、この悪魔の誘惑に遭われた後に、ヨハネが捕えられる事件が起こり、イエス様はガリラヤに退かれて、「そのときから、イエスは、悔い改めよ、天の国は近づいた、と言って宣べ伝え始められた」とあって、この悪魔の誘惑に打ち勝つことで、イエス様の思いがさらに鮮明になったのではないかとも考えられるのです。
 というのも、この悪魔の誘惑は、霊が導いたものだったからです。「主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」とあるように、イエス様自らが、ある意味ではこの世の誘惑に遭われ、それがいかなるものであるかを悟られ、それに勝利なさったのでした。ヨハネによる福音書の「わたしは既に世に勝っている」という言葉を想い起こします。
 イエス様は、荒野で40日間、断食をされました。モーセも神様から十戒の書かれた石を再びいただくときに、40日間の断食をしています。そして、イスラエルの人々は、40年の間、荒野をさ迷うことになりました。これは、彼らが神様だけを頼りにして生きていくということを身を持って学ぶ試練のときともなりました。イエス様も40日の間断食をされ、試練のときを過ごされました。イエス様も神様からモーセが受けた十戒と同じように受けるものがあり、受けねばならない試練があったのです。
 そして、悪魔の誘惑は、40日間の断食の後にやってきました。断食をしていた40日間は、気を張り詰めていたのでしょうか、聖書には、この40日間の断食をした後に、空腹をおぼえられた、とあるのです。肉体的にも、精神的にも健康な状態のときにも、誘惑というものは私たちに襲い掛かるものです。
 しかし、こちらがいたって元気なときには、こうした誘惑の魔の手は、冷静に撃退できます。しかし、肉体的に病んでくると、精神面も弱ってきます。そして、元気がなくなってきたところで、悪魔の誘惑はやってくるのです。「わたしの恵みは十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」とパウロに言われた主の言葉を信じることが最後までできずに、神様の力をいただく前に私たちは悪魔の誘惑に降参してしまうのです。
 悪魔の誘惑は抵抗し難く、ときに、それを受け入れないでは生活が危機にさらされる、自分がダメになる、命も失われるのではないかと思われるほどです。この場合、イエス様は、40日の断食のときを過ごされました。そして、ようやくそのときが終り、もう何の力も残っていない、そのようなときにやってきたのでした。
 それは、イエス様にとって喉から手の出るほどに欲しいものでした。40日の断食を終えられ、空腹をおぼえられたイエス様にとって、パンを食べることは切なる欲求であり、命をつなぐためにも、必要だったのです。わざわざ、悪魔は、イエス様に、「神の子なら」できるだろうという意味合いを強調しています。それは、神の子として持ち上げる(甘い心地よいささやきです)ことで、自分の力により頼むこと、神様を試すという誘惑につながっているものでした。
 イエス様はこのとき、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」、という申命記の言葉を引用されて悪魔に応戦されました。
 申命記の8:2~3には、「あなたの神、主が導かれたこの40年の荒野の旅を想い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわちご自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、餓えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」とあるのですが、この言葉全体からイエス様の意図を考えなくてはならないでしょう。
 イエス様がここの御言葉を引用されたのは、人はパンだけで生きるのではなく、というように、パンでも生きるということを一方において、認めてはおられるものの、それだけで人間が生きているのではない、ということでした。つまり、神様がマナでイスラエルの人々を養ったように、命を最後に養うことがおできになるのは、神様であるということなのです。
 いくらパンを飽き足りるほど食べることができたとしても、命の長さはそれによって保障されることは決してないのです。命の主は、どこまでいっても神様です。神の口から出る一つ一つの言葉で生きるとは、主に耳を傾け、主に従い、主により頼み、主の御心によって、私たちは生かされている存在だということなのです。
 それから次は、悪魔は神殿の屋根の上にイエス様を連れていき、「神の子なら、飛び降りたらどうだ」と言ったのでした。そして、もしそうしても、天使たちが手で支える、と書いてある、とまたもや聖書を引用して言ったのです。それは、詩篇の91編の11-12節でした。「主はあなたのために、御使いに命じて、あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る」とあります。
 だから、飛び降りてみろ、と誘惑したのです。これは、果たして天使たちが支えてくれるだろうか、というように、神様を単に試すだけで、それ以外の意味はありませんでした。神様の存在を試すようなものだったのです。これについても、イスラエルの40年間の荒野の試練の中で、思い起こされる出来事がありました。それは、出エジプト記の17章1-7節に描かれております。
 それは、レフィディムというところにイスラエルの人々が宿営したときのことでした。そこには水がなくて、人々は渇きをおぼえたのです。このとき、モーセにまたもや彼らはつぶやいたのでした。それで、神様は、ホレブの岩から水を出して、彼らの渇きを癒されたのでした。7節に、「彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名づけた。イスラエルの人々が、『果たして、主は我々の間におられるのかどうか』と言って、モーセと争い、主を試したからである」とあるのです。
 彼らは、水を求めたというよりは、主がおられるかどうかを試したのだと、理解されたのでした。同じように、神殿から飛び降りるというのは、神様の存在を試す行為だったのです。神様が助け手を送ってくださるかどうかを、試す行為でした。それに対してイエス様もまた、聖書の言葉を用いて悪魔の誘惑を退けたのでした。「あなたの神である主を試してはならない、とも書いてある」と、申命記の6章の16節を用いられたのでした。6章16節は、「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない」。
 それから、最後の誘惑は、世のすべての国々とその繁栄が、もし悪魔を拝むなら、みんなイエス様のものになるというものでした。それは、世界の富と権力を手中に収めることができるということでした。この時代、ユダヤ人たちは当時の世界のあちらこちらにすでに散らばっておりました。それぞれの社会状況や文化の中にあって、それでもユダヤ人としての誇りを捨てずに、真の神様を拝し、生活をしていたのでした。ところが、やはりそれでも、富や権力を得たいという者はいて、そうした者たちは、ローマ社会のなかで、ユダヤ人であることを捨てていったのでした。
 つまり、ローマの神々や皇帝を拝んだり、ギリシャの神々を拝むということもしていきました。三つ目の誘惑に対しては、イエス様は、「退け、サタン、『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」と、申命記の6章13~14節を用いられました。「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。他の神々、周辺諸国民の神々の後に従ってはならない」。これによって、悪魔はイエス様のところから、離れ去っていったのでした。
 ところで、私たち人間にとって、これらの悪魔の誘惑はどれも魅力的なものではないでしょうか。パンを十分に食べられること(物質的な豊かさ)も、神様からのご利益を得られることも、それも安易に奇跡を求め、神様を試したくなる思いも、悪魔にひれ伏すことによって、名声、富と権力を得ることなどは誰もが欲したくなる事柄ではないでしょうか。
 そして、これらのことを得るために、たとえ、悪魔にひれ伏すことをしなければならないとがわかっていても、それを得るために、人々はその道を選んでいくのではないでしょうか。しかも、その道はとても広いわけです。そして、これらのものをすべて持ち合わせている者が、世の人々が期待するメシアなのではないでしょうか。物質的な豊かさを与えられる者、奇跡を起こすことのできる者、大きな力、権力を握る者、ではないでしょうか。
 そして、おそらく当初、イエス様に期待を寄せた者たちの多くが、こうしたメシア像を描いていたのではないでしょうか。そして、イエス様もまた、それらのことを例えば、5000人の給食の奇跡や病人の癒し、権威ある者のような振る舞いなど、いずれもメシアのイメージをお持ちでした。しかし、それらは、神の国の先取りとしてなされたものであって、そうしたイメージを持つメシアとなることが目的ではありませんでした。そうした、力によって、この世を神の国にすることではなかったのです。
ですから、十字架につけられたときのイエス様はこれらの何一つとして、お持ちではありませんでした。多くの人々から、神様からも見捨てられたようになって、十字架におつきになりました。むしろ、この十字架の弱い力なきお姿がさらに一層、人々を落胆させ、人々の心をイエス様から離れさせていったのではないのでしょうか。
 2000年前に私たちのところへ来てくださったイエス様を私たちは、メシア、キリストとして、今年も告白するのでしょうか。あのキリストの十字架は、わたしのためであったと、今年も新たなる思いをもって、告白するのでしょうか。私たちは、物質的な豊かさも、奇跡を願いたい思いも、世の名声や権力も、わたしのために十字架にかかられたキリストに比べれば、いかほどの値打ちもないと言い切れるでしょうか。
 キリストは、悪魔の誘惑に勝利されたのです。神様のみ言葉をもって応戦したのです。そして、最後まで、神様を信頼する姿勢を貫いたのです。このキリストが共におられるのでなければ、誰も、悪魔の誘惑に打ち勝つことはできません。悪魔の誘惑、それは、人を堕落へと導いていく力のことです。人を破滅へと導いていく力です、滅ぼしてしまう力です。ときに甘くささやき、ときに、それを拒否すれば自分がだめになるのではないかと思わされる、逃れがたい力です。
 否、ときに人は、それを自ら、待ってましたとばかりに、積極的に受け入れていくのかもしれません。それから解き放たれるには、キリストの力が必要です。キリストが共にいてくださることです。
 2000年前にこの世の救いのために来られたキリストは、公けの活動をなさる前に、荒野で悪魔の誘惑に遭われました。イエス様が、荒野の果てに、見つめられていたものは、己の名声や富や権力ではなく、私たち一人一人の救いのための十字架だったのではなかったでしょうか。この方を今年もまた、私たちは自分の救い主として、お迎えします。

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