平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2005年10月30日 聖書が証しする方のもとへ

2006-07-10 11:31:35 | 2005年
ヨハネ福音書5章31~40節
   聖書が証しする方のもとへ

 何ごとにも基本というものあると思います。釣りをするときには、まず、底をはかります。鯛ですと、海の底の方にいるので、エサの部分が海の底よりも50センチくらいのところで止まるようにしておかねばなりません。それが、海底よりも5メートルも上ですと、そこらにはまた、別の魚が泳いでいまして、それがエサを食べることになります。
 ですから、釣り場に行きますと魚釣りをするものは、まず底を計るということをします。それから、海ですと、潮をよみます。今日は大潮なのかどうか、また、時刻です。特に渓流釣では朝早い、日暮であるなど魚の食欲のわく時刻です。また、ポイントなのかどうか、があります。妙に魚が集まっている場所があるのです。管理つり場ですら、よく釣れる場所から2メートルしか離れていないのに、そこでは一向に釣れないということがあります。
 そして、次にエサは、どのようなものを使うか、鯛ですと、エビです。それに野菜をつけても来ません。何ごとも基本があります。どのような道にも基本があります。
 また、聖書の理解の仕方、聖書の読みにも基本があることを教えられます。
 聖書というのは、世界のベストセラーと言われて久しいと思います。いまでも、そうかというと、おそらく今でもそうではないでしょうか。世界中見渡してみれば、今も、どかの国のどこかの地域のどこかの町や村に住んでいる誰かが、聖書を買って手にしているのではないでしょう。
 そうでなくても、ギデオン協会の方々は、聖書を無料で病院や学校などで直接手渡しで配布しておられます。これは大きな働きで、それで一度は聖書を手にしたことがあるという方が結構おられます。
 それからキリスト教の広がりに消極的な国々など、迫害も時に起こるような海外の国々へ聖書を送っている団体もあります。聖書はいろいろな国の言葉に翻訳されています。世界中に行き届き、広く読まれていることでしょう。
 また、ちょっと大きな本屋へ行きますと聖書はだいたいおいてあります。しかし、その聖書の読み方、理解の仕方には基本があります。本屋には、聖書のほかにもキリスト教、イエス・キリストに関する本も並べられています。
 ところで、かつて、ノストラダムスの大予言とかいった本がとても売れたことがありました。聖書から、これから起こるであろう出来事を推測しているのです。特にヨハネの黙示録だったかと思います。
 しかし、一面を強調したり、過大評価して、えらく独りよがりになっていました。また、聖書の解釈も正しくありませんでした。ヨハネの黙示録は、当時のローマ帝国の厳しい迫害状況が迫りつつあるなかで、その迫害や苦難に耐えるようにとのキリスト者たちに対するメッセージが込められているものです。
 それが、近年の社会状況の具体のいくつかをあげて、それが聖書の記述と合致するというので終末が近いことを主張しているような書物でした。多くの人々に興味本位で読まれて、話題になりました。
 それから、日本の新興宗教にも、聖書の記述は結構取り入れられています。つまみ食いのような形で、自分たちの教理に都合のいいように、聖書の解釈がねじ曲げられて使われたりしています。なかには、その信仰宗教の教祖が解説している聖書講解なる書物もあります。
 聖書は、やはり信仰の書ですから、キリスト教の信仰を持って読むと、その深さと奥行きはさらに広がります。しかし、信仰を持ってない人が書いている、聖書についての本を見たりしますと、ときどき、その解釈が大きく間違っていたり、ある部分だけを非常に強調したりということになって、バランスや正確さを欠いたものになっています。
 また、聖書を謎解きのように使った推理小説もあります。単なる、道徳や処世術を教える教養の書になっているものもあります。また、信仰のない方々にとっては、そうしたキリスト教に関する本を読むときには、興味本位の読み方になってしまうこともあるでしょう。
 私たちもまた、キリスト教信仰の本だと思って読むと、全然中味が違う、やたらと天使や悪魔が登場したりしていて、キリスト教の信仰とは全然異質なものがありますから、気をつけなければなりません。
 聖書には、基本的な読み方があるのです。その基本的な読み方を心得ておかねばならないと思います。
 イエス様の時代に聖書というと、それは旧約聖書をさしておりました。聖書を勉強している律法学者をはじめ、多くの律法に熱心な人々は、聖書そのものに、永遠の命があると考えておりました。
 ですから、なおさら、一生懸命勉強をしていたのでした。確かに、聖書には、命、永遠の命ということについて書かれてあります。ですから、迫り方としては全く間違っているとは言えないと思います。しかし、それを理解し、読み取っていくためには、イエス様を見つめなければなりません。
 このお方の教えられたこと、このお方のなされた御業、特に、イエス・キリストの十字架と復活の出来事を見ていかなければなりません。そのときに、私たちは、命、永遠の命についての理解をいただくことができるのです。
 イエス様は基本的な聖書の読み方を私たちに教えておられます。それは、「聖書は私について証しをするものだ」ということです。聖書(当時は聖書と言えば旧約聖書をさしていました)は、イエス・キリストについて、証しをしているのです。
 それは、旧約聖書においてなおそうだというのでして、そうしますと、新約聖書においては、なおさらのこと、イエス・キリストのことが証しされているわけです。
 旧約においては、神様がイスラエルの人々の罪を幾度も赦され、愛してやまないことが告げられています。そして、救い主が、いずれ来られることを告げています。やはり救いがテーマになっていることは否めません。
 しかも、旧約聖書のイザヤ書の53章の苦難の僕には、イエス様のお姿が先取りして描かれております。「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。・・彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり・・そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた」、確かに旧約聖書は、イエス・キリストを証ししています。
 そして、新約聖書は、イエス様のご生涯が、それも、特に、十字架におつきなるまでの2~3年という時期について、集中的に記されている福音書から始まり、その弟子たちが宣教を行い、初代教会が形成され、しかし、できあがった教会は、私たちの教会同様、ですから、初代教会の時代からずっと教会はそうであるといって過言ではありませんが、いろいろな問題が生じますから、それに対して、パウロが問題解決のために手紙を書く、そのときに、イエス・キリストの福音とはいったい何だったかを説明し、解き明かす、そういうことをするのです。
 そうしたものが、新約聖書には記されています。他に、キリスト者としての生活のあり方、或いは、迫害状況にある人々には、忍耐するよう、励ましのメッセージが述べらていました。それらの内容が新約聖書には記されております。新約聖書は、そういった意味では、はじめから終りまで、イエス・キリストの証しに貫かれております。
 旧約聖書もイエス・キリストを証しし、新約聖書は、もちろんのことイエス・キリストを証ししています。聖書というのは、旧約と新約聖書をあわせて初めて聖書というのですから、そういった意味で、聖書全体が、イエス・キリストを証ししております。
 そして、そのイエス・キリストのみもとに来るようにというのが、イエス様の願いです。当時の律法学者たちのように聖書を勉強している人々は、聖書のなかに命、永遠の命があると考えて研究をしていました。しかし、イエス様は、ご自身このように言われたのです。
 「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネ4:14)、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ10:26)、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14:6)。
 つまり、聖書を読むだけではだめだということです。この聖書を読んで、イエス様のところへ行かねばならないのです。それは、このお方が、命を与えられるからです。
 律法学者たちは、イエス様のところへ来ることはできませんでした。イエス様を試そうと近づいてくる者たちはおりましたが、心からイエス様のお言葉に耳を傾けよう、イエス様に従おうとした人々は少なかったのです。
 今日の聖書の箇所の前の部分4章21節に「父が死者を復活させて命を与えるように、子も、与えたいと思う者に命を与える」、27,28節「また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ」、こう言われています。
 命、永遠の命を与える主体はイエス・キリストであると聖書は述べています。このイエス様のところへ来ることなしに救いを、永遠の命をいただくことはできません。それなのにとイエス様は言われます。「それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」。
 さて、招詞で読んでいただきましたテモテの信徒への手紙二4章1節から5節ですが、こうして、キリストのもとに来て、救いに与った者たちへの奨めがなされておりまして、「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国を思いつつ、厳かに命じます」とありまして、ここでもまず、キリストは、終末のときに、裁きを行うお方として再びこの世に来られることが述べられています。
 そして、キリスト者たちに奨められていることは、「御言葉を述べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、忍耐強く、十分に教えるのです。だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。
 そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝ってに教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、つくり話の方にそれて行くようになります」。まさに、聖書を読もう、理解しようとするときに、起こっていることです。
 「自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、つくり話の方にそれていくようになります」。これは、聖書をつまみ食いして利用している新興宗教の教祖やそれに耳を傾けていく人々などがまさにそうなのでありましょう。
 しかし、それだけではありません。社会の状況が厳しくなってくると、戦時中がそうであったように、主はこのように教え、諭しているのに、それに耳を傾けようとせず、誤ったことをするのです。天皇を神として拝み、つまり、神ならぬものを神として拝み、隣人を自分のように愛せよ、と言われているのに、隣の国の人々に対してひどいことをしました。
 主イエス・キリストはこのように教えている、このように語っている、例えば、「平和をつくりだす人々は幸いである」、それなのにそれに従いえないのです。自分に都合のいいことを聞こうとしているからです。キリストのもとへ来るというのは、イエス・キリストに従うということです。
 37節に「わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる」とイエス様は言われています。聖書というのは、「神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえで有益です」(2テモテ3:16)とあります。
 聖書というのは、信仰をいただいた者たちが、書いたものです。その信仰は、誰からいただいたかというと、それは主告白に導いてくださった神様です。そうすると、聖書は、神様が書いたといっても言いすぎではないのです。

 聖書というのは、イエス・キリストについて証ししていると言われます。その証しをされるのは、誰かというと、それは聖書をお書きになった神様だということです。
 ヨハネの黙示録の22章13節に「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終りである」と言われます。
 歴史をはじめから終りまで、つかさどるのはこのキリストです。このイエス・キリストを土台にして、聖書は読んでいくことになります。そして、聖書のどこを読むにしても、この土台を忘れてはなりません。
 これが、聖書を読むときの基本です。そして、そのイエス様のところへ来ることです。キリストに従うことです。そのことをイエス・キリストは願われているのです。これが、キリストが望んでおられる人の基本の姿です。

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